カベをジャンプしたとき刺激はおとずれる

【カベをつくることについて】

最近学内でたくさんの留学生を見かけるようになりました。3〜4年前までは留学生といえばアジア系の人が多い印象でしたが、いまは本当にさまざまな国から学生が集っているという(あくまで感覚ですが)気がします。

詳しい知人によると、2014年に文部科学省が創設した「スーパーグローバル大学」に選定された影響が大きいそうです。

とくに、大学の中央に位置する図書館では、自分が留学しているのではと錯覚するほど外国人率が高く、そこに居て、いい意味で新鮮な気持ちになれます。


しなかったことに気づくこと

しかし、僕は英語をはじめ外国語をうまく話すことができません。そのため基本的に、というより無意識のうちに留学生の彼・彼女らとコミュニケーションを取る機会はありませんでした。

最近になってようやく、「コミュニケーションを取っていなかった」という事実に気づいたくらいです。このような事態はなぜ起きてしまったのでしょうか、そして、なぜそれに気づくことになったのでしょうか。

それはおそらく僕が、ある種の刺激を得ようとした時に”カベ”の存在に気づいたからだと思います。


無意識のカベ

社会で生きる私たちは、あらゆる見えないカベに囲まれ日々暮らしています。そしてそのカベは見えないだけでなく、存在自体が意識しにくいようにできているのではないでしょうか。

国家や市区町村といった地理的な区分から大学の学部・学科、サークルのコミュニティまで、人はみな、なんらかのカベの中にいて、カベの外にいることになっています。カベの中において強い帰属意識や同族意識が働くことは、ここで改めて言うまでもないでしょう。


カベを越えねば刺激は得られない

問題は、もっと微細な単位でカベがあることに、気がつきにくいんじゃないかと言うこと、そのカベをジャンプしなければ刺激は得にくいんじゃないかと言うことです。

言い換えれば、「心地いい毎日の外側にあるもの」「無意識では接することにできないもの」にアクセスすることが、心を刺激し、感情を豊かにしてくれると、僕は半ば妄信的に信じています。

もちろん刺激だけを求めて飛び回ることこそが是というつもりはありませんし、できるだけストレスを回避し、平穏な暮らしを送りたいという生き方ももちろんありでしょう。

とりとめのない文章になってしまいましたが、見えないカベを意識しそれを乗り越えることこそが新たな刺激になる。という話でした。

山脇、毎日。