地元で感じる”根拠のない主人公”感

地元に帰るとなぜあんなにも落ち着くのか。それは田舎は自然が豊かで空気が澄んでいて、道が広々としているから。だけではない気がする。今日はそんなお話です。

地元に帰ると落ち着く。という人は多いと思います。とくに普段住んでいるところとの人口密度の差が激しかったり、多くの緑に囲まれれば、より一層、地元でのびのび過ごすことができるでしょう。小さい頃に遊んだ記憶が思い起こされ、愛着ある町並みを懐かしく思う気持ちも湧き出るでしょう。

帰省先では予定が少ないことも多いので、ただぼーっとしたり、久しぶりに親と話したり、とにかく時間の経過がゆっくりに感じられるのだと思います。

一方で、帰省した時には、周りの人がみな「地元の人間」に見えることはありませんか。実際はそんなわけなく、時期によっては同じように帰省している人もいるはずなのですが、なにか、「自分だけがこの帰省を非日常と感じている錯覚に陥る」という経験が、少なくともぼくはあります。

そんな時のぼくは、どういった気分なのでしょうか。それはおそらく「根拠のない主人公」気取りなのだと思います。久しぶりに束の間を過ごすこの町で、目にすることはすべて自分が中心。自分の生活を中心に時計が回っているからこそ、時の流れが遅く感じられるのだと考えています。

たとえば普段の生活においては、自分が中心に時間が動いている。という感覚は一切ありません。つねに何かしらのスケジュールを抱え、”誰かに合わせて”生きています。自分は社会で起こる、大きくて壮大な物語の、ほんの脇役にしか感じられません。

しかし、ひとたび地元に帰れば、急に自分が物語を作っている気持ちになってきます。無意識に主人公を気取り、周囲を物語のささいな要素とみなします。

自分が中心なので時間をコントロールできている気分にさえなります。誰にも焦らされることがないので、結果的に時の流れがゆっくりに感じられます。

もちろんそれは、大きくて(恥ずべき)勘違いで、ほんとうは主人公も脇役もないのですが、ぼくは、なぜ地元に帰ると時の流れがゆっくりに感じるのか。それを「予定の少なさ」や「人口密度の低さ」、「ノスタルジー」以外で理解したかった。そのヒントはこの、「根拠のない主人公感」なのではないかと思うようになりました。

何もしないことを目的に旅行に出かけても、得られないあの感覚。その地に”帰ってきた”自分”だけ”が主役だと思える時に、得られるあの感覚。時の経過の感覚は、社会での自分の掌握度に依存するのではないか。そんなことを考えた束の間の帰省でした。

山脇、毎日。