理想を手にするのか、創るのかの大きな違い

【理想を追求することについて】

最近強く思うことがあります。「自分が今考えてる理想像って、ほんとうに10年後も理想とされているのだろうか」と。

いまの世の中で理想とされている暮らしやステータスは、今後もずっと、みんなの理想であり続けるのだろうか。と。

何が”良い”かなんて時代によって変わるはずなのに、いま目の前で”良い”とされているものを追い求めすぎてないかと疑ってしまうのです。


理想を手にするのか、創るのかの大きな違い

「理想を追求する」という言葉は

理想を手にすること」「理想を創ること」

に分かれると思います。

そして、この2つは似ているようで大きく違うとぼくは考えています。

やや強引ですが、前者はみんなが認めるステータスを追い求めるイメージ、後者は自分の価値観を社会に浸透させるイメージと言えばいいでしょうか。

自分がこうなりたいと願う人と、自分がこうでありたいと願う人では、行動する指針が大きく違ってくる気がするのです。


レールから外れてるんじゃない

「よく勉強していい大学に入って大企業に勤めて安定した〜」みたいないわゆる”人生のレール”から外れる人たちのことを、あからさまに白い目で見る人たちは少なくなったかと思いますが、「この人たちはあくまでレールを外れているんだよ」という印象は未だ強く残っていると思います。

ぼく自身もこういったレールからはすでに外れてしまっていますし、そもそも生きている間にこのレールが残っているのかもわかりません。

ただ一つ確かなことは、そうやってレールを外れていった多くの人たちが、新しくさまざまな方向にレールを敷こうと努力しているということです。そしていつかそのレールの上をみんなが通れたらと願っているのです。

道無き道に最初にレールを敷く人と、後からその上を安心して通過する人では、必要な労力に大変な差があるでしょう。


そして誰もがレールを選び、変えられる時代へ

しかも自分が敷いたそのレールを多くの人が通ってくれるかなんてわかりませんし、無駄な苦労に終わる確率のほうが高いかもしれません。それでも自分が信じる価値観をいつかたくさんの人が認めてくれると信じて、一生懸命・一心不乱に奇怪な行動をとるのです。

そして誰もが自由にレールを選べ、途中でつまづいても変更のきく柔軟な社会へ。そこでは人の目を気にすることもなければ、「ドロップアウト」という言葉もなくなっているでしょう。

10年後20年後に憧れられる存在でありたければ、いまの理想だけ見ててもだめだよ、という話でした。

山脇、毎日。