ステータス消費ver.2

社会学、とりわけ消費社会論(消費文化論)の分野において、ぼくたちの消費の歴史は大きく3つのステージに分けられることが多いです。

例えば、社会学者の間々田孝夫先生は、20世紀の大量生産によってできた必需品を買う「第一の消費」、物質的に豊かになり自己顕示のためにステータスとしての差異化を目的とした「第二の消費」、そして今、文化を通じた幸福と社会的配慮による安定を目指す「第三の消費」の時代が到来していると整理しています。

こういった話は別のところでさまざまな切り口で語られているので、ピンと来やすいかもしれません。「第二の消費」はいわば”ステータス消費”、ブランドタグやデザインが過剰にもてはやされるという、日本でいえばバブリーな香りのする言葉です。

「第三の消費」は”文脈消費”や”本質消費”といえばいいでしょうか。前者はモノ自身の生産背景や意味づけを重視する、後者はそれによる生産者との健全なつながりを重視する考え方です。

こう分けてみると、肌感覚として、もはや第二の消費的なあり方は一部の人をのぞいて主流ではなくなり、なんとなく第三の消費がトレンドのような気がしてきませんか。数年前からの”ポートランドブーム”に代表されるように、「消費社会として成熟した僕らはより本質的なつながりを求めている」といった論調は耳にしたことがある人も多いでしょう。

もちろん、ぼくたちも(生産側ですが)この分類に当てはめるとすれば、第三の消費に当てはまるでしょうし、実際この考えに共感する部分も多いです。

では、第一の消費は置いといて、第二の消費は本当に影をひそめてしまったのでしょうか。胸のロゴマークや誰もが羨む柄でモノを選ぶのは、本当にイケてない考えなのでしょうか。

ぼくは、このような人と差別化したい欲求は根源的なものであり、今の世の中では違う形で表れているだけだと考えています。それがSNSです。

以前のブログにも書いた通り(参考:SNSが変える消費 Instagramが生んだ人生の 「本番」と「楽屋」)SNSの発達は、それまでの人の”セルフブランディング”のあり方を大きく変えてしまいました。もはや見ず知らずの人に対して洋服の見た目で自己顕示欲をアピールする必要は全くなく、自分のフォロワーに対してだけ、洋服の文脈でアピールすればよいからです。

おしゃれな若者が集う街でハイブランドの洋服を身にまといガードレールに腰掛ける必要なんてなく、ストーリーのある洋服を着て文章つきで画像をアップし、いいね!をもらう方が満たされるからです。

ありきたりな言葉ですが、おしゃれは本来「楽しむもの」だとぼくは思っています。トレンドを追いかけながらも他人とのちょっとした差異を楽しみ、自分が楽しくいられる、自分らしくいれる気がする。そんなささやかな幸せのためには、周りからの承認が必要なのです。

そういった意味において、SNSは大きな貢献を果たしていると思います。地理的な条件に縛られずに、おしゃれを褒めてもらえる可能性が高まったからです。そう考えると、極端かもしれませんが、ぼくも含めいまの若い世代がいいね!欲しさにインスタに熱中するのはいわば当然のことであり、ひと昔の若者となんら変わらない、同じ欲求に従っているだけだと思います。

このように、ステータス消費はかつてと異なる姿で、いわば"ver.2"として(ほんとうは2.0と言ってみたかったのですが…)いまの社会にもれっきとして存在しています。

それがver.2たるゆえんは、SNSに舞台が映ったことで、1)モノ単体ではなく文章付きの写真として、2)不特定多数ではなくフォロワーに対して、3)地理的条件に縛られずに(渋谷のど真ん中でも田舎の家の中でも)以上3つの性質を持っていることによります。

時代によって欲求を満たす選択肢が狭まったり広がったりするという、言われてみれば当たり前のようなことを、ずっと考えていた気がします。

山脇、毎日。