見出し画像

【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】第30回のシロシビン・セッションの振り返り(12454-12463)2024年4月7日(日)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指した「サイケデリック唯識ラジオ」の配信をしています。

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」を毎週土曜日に開講しております。

*記事のSNSでの共有・引用はご自由に行っていただけると幸いです。

タイトル一覧

12454. 瑜伽行としてのシロシビン・セッション

12455. 煩悩滅却作用を持つ真理の知覚/今朝方の夢

12456. 今朝方の夢の続き

12457. 2人の啓発し合う男の子が登場する夢

12458. 唯識学の叡智を通じた英文詩の創作

12459. 第30回シロシビン・セッションの振り返り(その1)

12460. 第30回シロシビン・セッションの振り返り(その2)

12461. 第30回シロシビン・セッションの振り返り(その3)

12462. 第30回シロシビン・セッションの振り返り(その4)

12463. 第30回シロシビン・セッションの振り返り(その5)

12454. 瑜伽行としてのシロシビン・セッション      

時刻は午前4時を迎えた。昨日は天気予報の通り、午後には20度を超え、23度近くにまで達していた。まさに夏日であった。オランダのフローニンゲンの夏は本当にそれくらいの気温なので、午後に買い物に出かけた際には久しぶりに夏を感じたような気がした。昨年は冷夏で、8月に入るまで肌寒く、8月に入って暑いと感じる猛暑日は数日ほどしかなかった。それだけ涼しいのがこの地の特徴であり、逆に言えば夏はとても短く、冬の時期が長いことを意味する。そんな気候であるため、昨日の暖かさはフローニンゲン市民にとって福音のようなものであり、買い物途中に通ったレストランやノーダープラントソン公園には半袖で日光浴を楽しんでいる人たちの嬉しそうな姿を多数見かけた。かくいう自分もまた行きこそ上に羽織る物を着ていたが、帰りはそれを脱いで半袖になっていた。日光を顔以外の肌に浴びたのは本当に久しぶりのことであった。身体は日光を浴びたことによって喜んでいるようにすら感じられた。そんな体験を昨日していた。このような何気ないことも感謝の対象であり、喜びの対象となる。

今日もまた比較的暖かい気温で、日中には18度まで気温が上がり、明日は19度まで上がる。火曜日からはまた気温が下がるが、今日と明日もまた暖かさを感じられる日になるだろう。暖かさを感じられるであろう今日は、第30回シロシビン・セッションを行う予定だ。節目の30回を迎える今日のセッションもまた何が起こるか、どのような真理が開示されるか非常に楽しみである。シロシビン・セッションが自分にとっての瑜伽行として習慣化され、定着したことは喜ばしいことである。かつての瑜伽師たちが深い瞑想体験をもとに唯識思想を深め、展開していったのと似たアプローチで、自分は日々の瞑想実践に加えてシロシビン・セッションを実践の核に据え、唯識学の研鑽を継続していく。それをどこまでも愚直に継続していく。継続が途轍もない力を育むことを知っている。発心によって目覚め、発心を自己涵養につなげて浄化と智慧を得るためには継続しかないのである。こうして地道に継続してきたシロシビン・セッションも30回を迎え、着実に継続による効果を実感している。普段の瞑想実践はあくまでも心を整え、心を綺麗にする小実践であるが、シロシビン・セッションは自分にとって不可欠な大実践となる。阿頼耶識の深層から心を浄化させていくために大きな役割を果たしてくれるのがシロシビン・セッションなのである。そのメカニズムについて脳科学の観点から説明することはここではしないが、科学的にもその治癒的効果が明らかになっているシロシビンは、脳と身体の浄化に加えて、心そのものを浄化してくれるのである。こうした大きな実践に支えられながら、今日もまた唯識学の研鑽に励んでいこうと思う次第だ。フローニンゲン:2024/4/7(日)04:18

12455. 煩悩滅却作用を持つ真理の知覚/今朝方の夢      

   

今日のシロシビン・セッションではどのような真理が開示されるだろうか。法界からどのような真理が自己に流入してくるだろうか。そのような期待感がある。そうした期待感は善欲からもたらされている。真理に触れることは自己の心を深く癒す働きがあることに改めて気づかされたのは、比較的最近のことである。結局それは仏教でいう根本煩悩の一つの無明と関係しており、私たちは無明ゆえに苦しみ悩む。それが心をどんどんと薄汚れたものにしていき、自己の真実を見えなくするばかりか、どんどんと心を重くしていき、苦しみや悩みを増幅させてしまうのだ。真理はまさに太陽の光の如きものであり、それが心の世界に知覚されると、心に蓄積していた煩悩は吹き飛んでいく。しかもそれは煩悩を根幹から焼き尽くす力を持っている。真理が太陽の如きものだというのはそうしたところにも所以がある。自らの頭で実践するようなシャドーワークや内観を遥かに超えた有無を言わせない煩悩滅却作用がもたらされることがシロシビン・セッションを含めたサイケデリック・セッションの見過ごせない1つの価値であろう。サイケデリクスがサイコセラピーに活用する動きが欧米社会で一気に広まりつつあるのはそうした事情にもよる。いずれにせよ、今日のセッションでは真理に対して心を開き、いかなる真理でも受け止めれるような在り方を保っておきたいと思う。事前にはどのような真理が知覚されるのかなどは一切わからない。そもそも真理は依言的ではなく、離言的な性質を持っているのだ。それは言葉を超えたものであり、そうしたものを最初から予期するなどというのは不可能なことなのである。大欲に基づく真理の希求とは、自らが真理に触れ、真理を獲れば得るだけ智慧と慈悲心が涵養され、それを通じて利他行の質を高めていくことを目的とするものだ。真理を得ることを自らのためだけではなく、衆生救済のために行っていくこと。それを絶対に忘れてはならない。

そのようなことを考えていると、今朝方の夢の1つの場面を思い出した。そう言えば夢の中で、芸術分野に携わる知人を含め、数人の知人の女性たちが、海外の風光明媚な場所について盛り上がって話していた場面があった。彼女たちは今度の長期休暇でそのうちのどこかに足を運びたいと楽しそうに話していた。その横で私は1人黙々と自分の勉強を進めていた。彼女たちの話に耳を傾けながらも、自分は話に入ることはせず、淡々と自分の好きな勉強に打ち込んでいた自分がいた。その勉強対象は何か定かではなかったが、おそらく唯識学だったと思われる。彼女たちの話の内容を理解していたので、完全に集中して勉強に取り掛かっていたわけではないが、彼女たちの話の内容を唯識学と絡めて聞いている自分がいたことは間違いない。そのような夢の場面があったのを覚えている。フローニンゲン:2024/4/7(日)04:36

12456. 今朝方の夢の続き

時刻は午前5時を迎えた。まだ小鳥たちは鳴き声を上げておらず、辺りは闇に包まれている。それはもう日常と化した光景であり、いつも1人こうして朝の静けさを味わうことを毎日の楽しみの1つとしている。小鳥たちよりも、太陽よりも早く起床して活動すること。衆生救済に向けた唯識学の研鑽に励むために毎朝目を覚ますことは楽しみで仕方ないし、それは恩寵を受ける瞬間でもある。目覚めと共にまた新しい大宇宙が始まるという感覚がある。

今朝方の夢の続きとして覚えている場面が他にあることをふと思い出す。夢の中で、高校時代の友人が美術品専門店で働いていて、彼の店に訪れていた場面があった。彼は高校3年生の時にクラスメートになり、1年や2年の時にも親交があった。高校時代の彼の様子からして、まさか美術関係の店で働いているというのは本当に意外であった。店で働く彼の身なりは綺麗に整っていて、スーツが似合っていた。彼は接客を担当しており、店の中で彼と美術とは関係のない雑談をしていると、そう言えば気になる陶器のコップがあることをふと彼に告げた。すると先ほどまでは友人同士の関係で話をしていたところから、急に接客対応をする営業モードになり、その変貌ぶりに驚いた。別にそれは悪いことではなかったが、彼の態度が急変したので思わず笑いそうになってしまったのである。その店のシステムがどうなっているのか知らないが、どうやら店員が何か客に品を販売すると、店側からその店員にコミッションが支払われるような仕組みになっているのだと想像された。おそらく売り上げの1%かそこらかもしれないが、いずれにせよ店員の接客を通じて客が何か品を購入したら、その店員にお金が入る仕組みになっていることは確かなように感じた。彼は別に私が注目した陶器を押し売りするつもりはなかったが、先ほどまでの雑談とはやはりモードが違い、積極的にその陶器の良さを私に伝えていたのが印象的であった。そのような場面があったのを思い出した。

夢の中で注目した陶器のカップは、今自宅でコーヒーを飲む際に使っている物に色や形が似ているように思った。色の表現は難しいが、鮮やかな薄い青を基調したカラーで、目にも心地良さを与えてくれるような陶器である。店にはその他にも自分の目を引く品があったが、それらを購入しようと思うところまでは行かず、美術館で作品を楽しむかのように、目で見て楽しむ程度に留めておく形で店内の品々を眺めていた自分がいた。美術品1つ1つにも固有の真理が宿っており、事の背後にある理を忘れたくはない。そして固有の真理を貫く普遍的な真理を見通す眼を今日もまた養っていこう。フローニンゲン:2024/4/7(日)05:25

12457. 2人の啓発し合う男の子が登場する夢   

辺りはまだ真っ暗で外の様子がよくわからないが、どうやら今は少し小雨が降っているようだ。午前5時半を迎えた今は少し小雨が降っていて、それはもう少ししたら止み、そこからは晴れの天気となるようだ。小雨が滴り落ちる音に耳を傾けていると、再び今朝方の夢の続きが思い出された。思い出された夢の中では、東南アジアの男の子と彼と話をする日本人の男の子が主人公として登場していた。自分は彼らの様子を眺める者として夢を眺めていた。舞台は日本の千葉かどこかの県で、東南アジア出身の男の子が日本に移住してきたところから夢が始まった。彼は右肩の手術を幼い頃にしていて、その後遺症として肩が動かしにくい状況にあった。そんな彼が日本にやってきた目的は、日本に古より伝わる特殊な身体操作を学び、それを通じて肩を治癒することであった。小学校1年生か2年生そこらの男の子がそのような意志に基づいて単身日本にやって来るというのはとても勇敢だと思った。そんな彼が入学したのは千葉にある名門の小中高一貫校であった。そこで知り合ったのが日本人のもう1人の男の子だった。その日本人の男の子は小学校に入学してからも進学塾に通い続けており、今も日本で続く学歴社会のレールの上を小さいうちから生きているようだった。そんな彼は、その東南アジア出身の男の子と出会い、交流を深めていくことを通じて少しずつ価値観に変化が現れているようだった。もちろん彼はまだ幼いこともあり価値観と呼べるようなものを形成していたわけではないかもしれないが、彼なりの生き方というものがあったことは確かであり、東南アジアからやって来た男の子と出会うことを通じて、彼が自らの生き方を見つめ直したのは確かなようであった。実際に、彼の普段の言動に変化が見られるようになったのである。東南アジアからやって来た男の子が学校が終わった後に熱心に日本古来の身体操作を実践する様子やリハビリに励む様子をいつもそばで見ていた彼は、何かを悟ったようであった。何か重要なことに気づき、心に火がついたようだった。それからというもの、彼は自分が打ち込めるものは何かを探求し始め、現時点で自分が関心を持つものに没頭するようになり、東南アジアから来た彼と自らの関心について話をするようになった。東南アジアからやって来た彼も日本人のその男の子が今情熱を持って取り組んでいることについて話を聞くことをとても楽しんでいるようだった。2人の関係はお互いを啓発し合い、高め合うような素晴らしい友人関係のように思えた。彼らの関係性がいつまでも良きものとして長く続くことを祈っていると夢から覚めた。とても清々しい目覚めであった。フローニンゲン:2024/4/7(日)05:56

12458. 唯識学の叡智を通じた英文詩の創作

時刻は間も無く午前7時を迎えようとしている。辺りはようやく明るくなり始め、うっすらとした光が見え始めた朝の世界に小鳥たちの鳴き声が穏やかな湖の湖面を走るそよ風のように響き渡っている。今日は後ほどシロシビン・セッションを行う予定なのだが、そんな日にふと、久しぶりに英文詩をまた創作してみたくなった。フローニンゲン大学に在学の時にも詩のような形で日々の徒然なる事柄を日記のように執筆していたのだが、それをどこかのタイミングで止め、再びそれを始めるということが起きていた。最初に始めたものは1000を越すほどのタイトル量になり、再び始めたものは切りよく3000で止めた。今朝方突然無性にまた英語での内的世界の表現をしたくなったので、その衝動に抗うことをせず、3001番目から再び英文詩を作っていくことにした。ここからのそれは唯識学をベースにした内省日記的な性格を帯びたものになっていくだろう。そのようなものにしていきたいとも思っている。確かに今は日本語の文献を読んで唯識学の研鑽をし、日本語を通じて唯識学について智慧を共有することを行っているが、いずれにせよどこかのタイミングで欧米社会で同じことを英語で行う日がやって来るであろうことを予感している。その予感が英文誌の形式を通じた唯識学を通じた日々の内省記録を促したのだと思う。おそらくそれを積み重ねていくことを通じて、唯識学が英語でも自分の生きた智慧になるだろう。その時に初めて欧米人に対して英語で智慧を共有することができるのではないかと思う。とにかく自分の言葉で唯識学を英語で咀嚼し、英語で体現し、自らの言葉で唯識学の観点から自己内省を日本語のみならず英語でも行っていく実践を自らに課してみたいと思った次第だ。そうした実践を課してみたいと思ったのは後付けであり、実際のところはそれをせずにはいられない気持ちが生じたのである。その衝動に純粋となり、日本語だけを通じてはアクセスできない人々のために英語でも内省的振り返りを通じた智慧の共有をしていきたい。そのような新たな道がパッと開けた。この実践も無理をせず、創作活動としての性質を楽しみながら地味に継続していきたいと思う。英文詩の作成は作曲実践と似ていて、構築する楽しみがそこにある。フローニンゲン:2024/4/7(日)07:04

12459. 第30回シロシビン・セッションの振り返り(その1)     

 

第30回のシロシビン・セッションを終え、夕食を先ほど摂り終えた。昨日と同様に、今日も本当に天気に恵まれた一日で、日中の気温は昨日に負けないぐらいに22度ぐらいまで上がっていた。早朝の予報よりも少し気温が上がっていたようだ。

さて今日のセッションを振り返ってみた時にまず何が最初に思いつくかというと、やはり毎回学びの連続であるということだ。これほどまでに学びをもたらしてくれる存在を自分は知らない。シロシビンは宇宙の叡智の写し鏡であり、自己もまたそうした叡智の結晶なのだろう。結局私たちは全員叡智の結晶なのだが、煩悩による心の差し障り、生活習慣による不摂生による身体の差し障りが無数にあって、結晶の輝きが曇ってしまっているだけなのだ。単純な話、心身を覆う各種の差し障りを除去していくことさえできれば、私たちは元々持っている叡智の輝きを取り戻すことができる。仏教による教えも結局それを目指すものなのだろう。何かを加えるのではなく、余分なものを減算していく形で命の輝きを取り戻していくのである。現代文明は加算思考に基づいて駆動しているため、それとは真逆の生き方が重要なのである。もともと特大の輝きを持っている命の叡智に何かを加える必要など全くなく、むしろ私たちは人間として生きていく限り、各種の欲望や煩悩によって自分に余分なものを付け加えがちなのである。それを通じて自我を防衛しようとするのだ。その性質に気づき、加算しようとする自我を戒め、むしろ減算に次ぐ減算を意識して生きていくことが極めて重要に思える。ただでさえ生産消費を煽るとんでもない文明の中にいるのだから。飽くなき生産消費に基づいた文明と方向性を同じくしていて良いことは何一つない。そう言い切れる真理を今日のセッションを通じて教えてもらったように思う。そのおかげか、今日の夕食は普段よりも控え目で、明日からもまた無駄に多く夕食を食べることを控えたいと思う。豆腐と納豆と各種の野菜を茹でたものに味噌とクロレラを和えて食べるだけで本当に十分である。それ以上のタンパク質や栄養素は一切夕食に必要ないことが改めて見えて来た。シロシビン・セッションを継続していけばいくだけ、心とは何かを唯識学を通じて探究していけばいくだけ、生活が質素になっていく。夕食もより慎ましいものになっていく。本当にそれでいいのだと思う。フローニンゲン:2024/4/7(日)18:44

12460. 第30回シロシビン・セッションの振り返り(その2)

     

振り返ってみると、今日のセッションは完全乾燥させた“McKennaii”という品種のシロシビン ・マッシュルームを5.1gほど摂取した。前回は5.0gだった。前回は、脳が完全にリセットされ、全くの0になるという印象的な体験をした。前々回も全く同様に0になった。脳と存在が0になるという体験。存在とは意識あるいは心と言えるが、それが完全に0になるという特筆するべき体験をした。一方今日は、0になるような体験はなかった。その予兆は少しあったが、前回や前々回のようなピーク体験の度合いまで意識状態が深まることはなかった。興味深いことに、意識状態の深まり度合いは学びの質や総量に比例しないことがわかったこともまた今日の収穫であった。

実は数日前から2020年の秋の一時帰国の際に購入したMacBook Airの調子が良くなく、突然フリーズしたり、突然電源がフッと落ちることがあり、リスタートやPRAMリセットなどを試して調子を取り戻そうとしていた。今この瞬間は問題なく使えているのだが、4年が経とうとしているので、もしかしたら買い替えの時期がやって来たのかもしれないと思った。パソコンの命について心配をしている状態が朝の時間帯にも続いており、セッション前に新しいMacBook Airをこの秋の一時帰国の際に購入しようと検討していた。これまでの4年間、何か重たいアプリを立ち上げて作業をするようなことは特になく、パソコンでゲームをするようなこともないのでパソコンに負荷は大してかかっていないはずなのだが、バッテリーの寿命がどういうわけか終わりに近づいているような感じがこの数日間あった。今朝方もパソコンが突然フリーズしたり、電源が突然落ちるような状況が続いていて、今日のセッションにおいてもいつものようにパソコンをBluetoothに繋いでBoseのスピーカーから音楽を流していたのだが、セッションの最中にパソコンの電源が突然落ちる事態に見舞われていた。セッションを終えてSMCリセットも試したところ、今はパソコンの状態は回復している。そんなこんなで、今日のセッションの心理的なセッティングとして、パソコンの寿命を心配していたという予期せぬ変数が加わっていた。結果的には今日のセッションも実に学びが深かったのだが、仮に意識状態を極限まで深めたかったり、前回や前々回と同じように完全に脳と心を空っぽの0状態にしたいのであれば、事前の心配事は一切ない方が望ましい。

そのようなことを思うのだが、しかしながらパソコンの寿命について気がかりであったことが結果として、今日のセッションの主題を命に向かわせた。セッションの最初から最後まで、合計6時間強をずっと命について考えるような状態が続いていた。今日は思考を司る第六識が活動を停止することは一切なく、むしろそのおかげで命とは何かについてずっと考える機会に恵まれた。自分の命、他者の命、生きとし生けるもの全ての命について、命と宇宙のつながりについてずっと考えさせられていた。それは自分から考えようと思って考えていたのではなく、パソコンの寿命が縁となって起こった事柄であった。予期せぬ形で、これかの自分のテーマは意識と命なのだと気づかされた次第だ。それは法界から流れて来た真理の教えかつ真理がもたらした気づきだった。フローニンゲン:2024/4/7(日)19:00

12461. 第30回シロシビン・セッションの振り返り(その3)

今日のセッションも6時間強の時間を充てる形となったが、セッションが終わりに差し掛かった頃、ふと天啓が降って来たかのように、コーヒーではなく抹茶を飲むことを決意するという出来事に見舞われた。一見すると荒唐無稽のように聞こえるかもしれないが、命と腸についてずっと考えていた結果として突然芽生えたある種理に適った気づきだったように思う。これまで毎朝コーヒーを飲むことをずっと続けていたのだが、今使っている豆を使い切ったらキッパリとコーヒーを飲むことを完全にやめようと思ったのである。コーヒーの味は確かに美味く感じるが、それは社会的にプログラミングされた可能性があると明確に気付かされたのである。日本人のDNA特性からして、コーヒーよりも間違いなくお茶の方が相性が良いはずであり、日本人がコーヒーを飲み始めたのは本当に最近になってからのことではないかと気付かされて、何か夢から覚めたような気がした。もちろんコーヒーを飲み人に対してとやかく言うことはないし、自分もまだ今使っているコーヒー豆を使い切ってからコーヒーから抹茶に切り替えようと思っているので、コーヒーを否定する気はないが、やはりコーヒーを否定する。コーヒーを否定する気は一切ないのだが、コーヒーを一切否定しなければならない。一切否定せずして一切否定する形でコーヒーから離れるといのが自分なりの中道である。結果的に大きく離れる形となるが、コーヒーというのもまたこの宇宙に産み落とされた1つの命なのであるから、それについての敬意は評しているのである。しかし日本人としてのDNAにより合致しているのはコーヒーよりも抹茶であるというのが、笑ってしまうような今日のセッションから得られた飲み物に関する真理であった。本当にコーヒーはもうやめよう。明後日に散髪に行った帰りに、ちょうどオーガニック食材店に立ち寄ろうと思っていたので、そこで抹茶パウダーを購入したいと思う。今手元にあるコーヒー豆の命は無駄にできないので、朝はフレンチプレス1杯のコーヒーをいつものように飲み、午後からは抹茶をいただくようにしてみる。抹茶の摂取量についても1日の目安量を把握しておこう。抹茶にもカフェインは含まれているが、テアニンという成分がカフェインを抑制する働きがあるらしく、コーヒーの覚醒作用が比較的急激なのに対して、抹茶は緩やかなカーブを描くらしい。当面は午後に抹茶を少々いただくようにし、コーヒー豆を使い切ったら朝にも抹茶を飲むようにしてみたい。繰り返しになるが、今日の自分でも可笑しく思ってしまうがら真剣な収穫として、コーヒーをやめて抹茶にするという学びが得られた。真理とは別に大袈裟なものではなく、こうした些細なものの中にも潜んでいるのだろう。それにしてもこんな小さな、そして途轍もなく重要なことに気付かせてくれるシロシビン ・マッシュルームには感服・敬服である。フローニンゲン:2024/4/7(日)19:21

12462. 第30回シロシビン・セッションの振り返り(その4)

今日のセッションは命に始まり、命に終わる形となったが、本当にとんでもなく重要なことに気づかせてもらったというのが改めての感想である。シロシビン・セッションとしては30回目、サイケデリック・セッション全体としては40回ぐらいのセッションをこれまで行って来たわけだが、一体この宇宙はどれだけの学びで溢れているのだろうか。おそらく1人の人間が汲み取れる真理の総量はたかが知れているのだろう、唯識学を学ぶ者として、仏教が述べるところの絶対的な真理である、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の3つは会得しておかなければいけないが、それ以外にも相対的な真理を数え出したら本当にキリが無い。キリは無いのだが、この命が尽きるまで、命をかけて1つ1つ自分が明らかにできる相対的真理を明らかにしていかなければならない。本当に些細なことから超越的なことまで、一切姑息な判断を交えず、シロシビン・セッションを通じて自己に開示された真理については全て書き留めておかなければならない。それは自分の使命であり、真理を得させてもらった者の役目である。それにしても今日の自分に降りかかって来た真理が「コーヒーではなく抹茶を飲め」というものだったとは。

セッションを終えて冷静になってみて、改めて抹茶の歴史について知りたくなって来た。日本人と抹茶の付き合いの歴史を知りたくなったのである。そうなってくると茶道に必ず突き当たるだろうし、抹茶にこだわらずに茶全般に拡張させてもいい。とにかく茶と日本人との関係について調べてみよう。

数年前に一時帰国した時に、両親と愛犬と一緒に島根に旅行に出掛けた時に、愛犬のお守りを母にしてもらう形で、そう言えば父と茶室で抹茶をいただいたことをふと思い出した。あの一杯の茶の味が忘れられない。それは確かに今の今まで記憶の彼方にあったのだが、阿頼耶識にはしっかりとそれが記憶として格納されていて、今改めてあの時に飲んだ一杯の茶の味を思い出させてくれたのである。抹茶である。抹茶だ。抹茶なのだ。コーヒーではなく、抹茶である。抹茶だ。抹茶なのだ。明日も確かに朝は今使っているコーヒー豆の命を無駄にしないためにコーヒーをいただくが、コーヒーから抹茶に静かに移行していく。今日のセッションの最大の収穫の1つは抹茶である。おそらくコーヒーを飲んでいた自分は社会的な刷り込みが影響していたのだと思う。そこに欧米のコーヒー研究の実証結果が相まって、コーヒーを程々に嗜むことが自らの健康に良いと思っていたのである。おそらくオーガニックな品質の良い豆を使って適度に飲むコーヒーは本当に健康に良いのだろう。しかしその健康効果を遥かに凌ぐ効果が抹茶にあることを知ってしまった以上、コーヒーを飲む理由がもはや見つからず、抹茶を飲まない理由がもはや見つからない。抹茶を飲みことも加算にならないように、自分の命を喜ばせ、さらに輝かせるものとして頂こうと思う。フローニンゲン:2024/4/7(日)19:50

12463. 第30回シロシビン・セッションの振り返り(その5)

今日のセッションはMacBook Airの寿命への懸念から出発し、そして抹茶に終わるというなんとも可笑しく不思議なセッションだった。これもまた法界等流による真理の開示なのだと受け入れている。こうなってくると、本当に真理は離言的で、どこか荒唐無稽で、それでいて核心を突いているものなのだと感じざるを得ない。

命のテーマに関して言えば、前々回と前回に引き続き腸を意識し、腸を労わる時間が長かったように思う。腸の上に手を置いて、自らの腸を癒しながら、同時に腸の調子があまり良くない母の腸が良くなるように祈っている自分がいた。また幼少時代に親友と喧嘩をした時に、親友のお腹を蹴ってしまった記憶が蘇って来て、それを大いに反省し、彼の当時のお腹の痛みを取り除いて彼の腸の調子が今よりもずっと良くなるようにと祈っている自分がいた。そこからお腹を痛めつける技のある各種のスポーツ格闘技への健全な批判の眼差しが芽生えていた。ああしたスポーツもまた人間のエゴが生み出した商業的なエンターテインメントに過ぎず、それは人間の命をビジネスや見せ物したものなのであり、きっとその悪業は深いに違いないと思う。他人のお腹を殴ったり、蹴ったりして、お腹に命の核心が秘められていることを完全に無視した暴挙が繰り広げられていることに目が見開かされた思いであった。現代文明においては、ローマ帝国におけるコロッセウムの野蛮な格闘技の見せ物と全く変わらないことが、欲望とカネに基づいて命が見せ物にされる形でのエンターテイメントが展開されている。そうした事態は見過ごすことができないが、当面は自分自身の命を大切にし、身近な他者の命をまずは大切にしていこう。それにしても、腸というのは本当に凄い力を秘めている存在なのだと改めて感じるような気づきと体験が今日のセッションの中にあった。肚で考える、あるいは男性でも子宮で考えるという意識は非常に重要かと思った。少なくとも肚の感覚を養い、その力を解き放つこと。そのためには腸の状態と調子が鍵を握る。これは以前から何度も思っていたことであるし、これまでもずっと腸に良い食生活や種々の実践を行って来た。しかしまだまだこの点は突き詰めていくことができそうである。自分の腸はまだまだ良くなる。まだまだ調子が良くなり、まだまだ引き出せていない可能性がたくさんあることに気づかされる。腸の可能性は即自分の心の可能性、つまり自分の存在自体の可能性に結び付く。とにかく今夜からまた腸を労わる種々の実践をより一層心掛けていきたい。全ては自分の可能性を最大限に解き放ち、命を最大限に輝かせるためである。フローニンゲン:2024/4/7(日)20:20

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?