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【サイケデリック学探究記】第19回のシロシビン・セッションの振り返り日記

タイトル一覧

11286. 今朝方の夢

11287. 定性的宇宙/幻覚というリアル

11288. リアルなもの/遥か将来の世代を見据えた問題解決に向かう自己

11289. 「全ての存在に居場所を与える」という主張の罠と危険なドラッグの居場所

11290. 「ダメ絶対」の標語に代わるべきもの

11291. サイケデリクスを通じた哲学実践

11292. 第19回のシロシビン・セッションの振り返り(その1)

11293. 第19回のシロシビン・セッションの振り返り(その2)

11294. 第19回のシロシビン・セッションの振り返り(その3)

11295. 第19回のシロシビン・セッションの振り返り(その4)

11296. 第19回のシロシビン・セッションの振り返り(その5)

11297. 第19回のシロシビン・セッションの振り返り(その6)

11298. 第19回のシロシビン・セッションの振り返り(その7)

11299. 第19回のシロシビン・セッションの振り返り(その8)


11286. 今朝方の夢


時刻は間も無く午前6時半を迎える。今辺りは真っ暗で外の様子は何も見えないが、天気予報曰く、どうやら霧がかかっているらしい。今の気温は4度で、自動で暖房が入っている。今日は午後3時頃までは晴れらしく、そこから少し小雨が降り、午後6時からまた晴れるようだ。なので今日のシロシビン·セッションが終わる頃には晴れているだろう。

今朝方はいくつかの夢を見ていた。まず覚えているのは、日本の町の郊外とどこか外国の町の郊外が混ざったような雰囲気が漂う住宅地にいた場面である。その住宅地には水路が張り巡らされていて、それが流れるプールのように遊べる仕組みになっていた。季節感は全くなく、今が夏だと言われればそう信じたし、冬だと言われればそう信じたでろう季節の中で、私はジョン·エフ·ケネディ大学時代のあるアメリカ人の友人と張り巡らされた水路を下って冒険に出かけた。最初に彼に会った時、彼はもう上半身裸の水着姿であった。その時に彼の背中がやたらと赤くなっていて、随分と日焼けしているねと伝えた。すると彼は笑い、そこからはお互いにジョークを何度も述べるような形で楽しく水路を下っていった。途中で彼が別の水路のコースを昨日楽しんでいたと述べた。何やらその他にもこの世界には水路が張り巡らされていてそこで遊べるようになっているらしかった。どうやら彼は昨日アラスカの水路を下って楽しんでいたらしかった。アラスカと聞くと随分寒そうだなかと思ったが、彼曰く大した寒さではなく、むしろ水路を下っていく楽しさで寒さも吹き飛んでしまったとのことだった。そこからも引き続き世界の水路の話をしたり、目の前の水路のうねるコースの楽しさを味わっていた。

次に覚えている場面は、自分が何かの試験を受けていて、それを学生団体の人たちに採点してもらう場面だった。採点を担当していたのは高学歴の人たちばかりで、その中に大学時代のゼミの先輩がいた。その先輩とはとても仲が良く、卒業してから働き出しても何回か会っていた。採点を目の前で受けている最中に、私は何か違和感を感じた。それは本当に直感的なもので、降ってきた直感に基づいて採点メカニズムの不備を指摘すると、学生たちは目を丸くして驚いていた。どうやらその採点メカニズムは最初から少しいかさまが仕込まれていたらしく、それを考案したのは先輩とのことだった。学生たちも先輩も、私がその巧妙な仕組みに一瞬で気づいたことに相当驚いていて、天才かと述べた。それに対して私は、自分は天才でもなんでもなく、サイケデリクスを摂取した時にやってくるような高度な直感ないしは洞察の類だと説明した。そこからそもそも彼らがサイケデリクスについてあまり知らないようだったのでそれについても説明した。すると、尚更彼らは驚いていて、私に対して特別な敬意を表し始めた。最後に、いかさまがバレた先輩は、試験を受けた全ての人に対して後ほど謝罪をするとのことで、その謝罪のセリフを練習し始めた。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2023/11/12(日)06:38


11287. 定性的宇宙/幻覚というリアル


絶えず無限に質的に豊かな世界にいる私たち。脳は結局のところ質を理解する装置であるかのようだ。青の青さを脳は詳細に説明することはできないが、青の青さを直感的に把握する力を持っている。およそありとあらゆる全ての事柄に対して脳はそれらの質的差異を精密に把握している。定量的な世界というのは定性的な世界の後に生まれたものであるということが見えてくる。「宇宙は数学でできている」という言葉を聞いたりするが、確かに宇宙の様々な側面は数学で記述可能である。しかし、宇宙そのものは数学を超えている。宇宙そのものは絶えず質的な豊かさに満たされた存在なのではないだろうか。そのようなことを早朝の小鳥のさえずりを聞きながら考えていた。

幻覚。幻覚には様々な種類がある。それこそ三大認知症の1つであるレビー小体型認知症では、その場にいない人やないはずの物が見えたりする。そもそも高齢者の認知症は老化に伴う自然な現象だとみなすこともでき、高齢者の認知症を病気とみなしていいものかについては議論の余地がある。いずれにせよ、この認知症で見られる幻覚はサイケデリクスを通じた内的ビジョン体験とは随分と異なっている。前者においては、物理的にその場にいないはずの人やないはずの物が知覚されるのである。だがここでも問題なのは、仮に物理的にその場に存在しないものが知覚されたとしても、その知覚リアリティは当人にとってリアルだということだ。むしろ当人にとっては、そんなものはその場に存在しないと述べる方が信じられず、彼らが別のリアリティを知覚しているという認識を持つことは重要かと思う。さもなければ、認知症の介護現場でよく見られるようなお互いの意見の対立や相互の不信感の醸成につながりかねない。ここでもまた脳の不思議さを実感する。脳は私たちに実に多様なリアリティを見せる力を持っている。存在論的に驚くべきことは、この世界が多様なリアリティに満ちているということだ。多くの人はひょっとしたらリアリティは1つしかないと思っているかもしれないが、そんなことはないのである。リアリティは1つどころか無限に存在していると考える方がむしろ自然であり、実際に認知症における幻覚症状やサイケデリクスを通じた知覚体験は、リアリティが無限に存在することを示している。DMT研究者のアンドリュー·ガリモアーが述べるように、サイケデリクスは多様なリアリティに気づかせてくれるきっかけを与えてくれるだけではなく、リアリティ·スイッチとしての作用を果たし、私たちにこれまで信じていたリアリティとは違うリアリティに参入させてくれる力を持つのである。そのようなことを考えながら、幻覚というリアルを認めることの重要さを思った。フローニンゲン:2023/11/12(日)07:33


11288. リアルなもの/遥か将来の世代を見据えた問題解決に向かう自己


リアルなもの。主観世界において生起する種々の事柄は、全て儚く消えていく。それはまるで幻であるかのような性質を持つ。それを幻想と呼ぶのか、幻想もまたリアルと呼ぶのかは考え方の差によるだろうが、はたと気付かされたのは主観世界そのものは揺るぎなく絶えず存在しているというリアル感が伴っている点である。別の表現で言えば、意識の中で生起する事柄が仮に全て夢幻の類であったとしても、意識そのものの存在は否定しがたいと思ったのである。意識はリアルである。それがひょっとしたら、ブラフマンはリアルだということの本質的な意味かもしれない。ブラフマンと一体となっているアートマンとしての主観世界全体そのものがありありとリアルさを持って感じられるのはそ、きっとそうした事情によるのだろう。

昨日届けられたオックスフォード大学出版から出版された“Transforming the war on drugs: Warriors, victims and vulnerable religions”を朝から読み進めている。本書は600ページに及ぶ大著で読み応えがあるが、ドラッグ戦争を取り巻く国際政治の構造を読み解くための格好のテキストである。サイケデリクスが真に社会に有用な形で普及していくためには、サイケデリクスを包摂する他のドラッグに関する問題を解決していかなけれならず、とりわけハードドラッグにまつわるドラッグ戦争の問題を解決していかなければならない。その際に、この複雑な問題を構築している国際政治の構造を読み解くことは不可欠であり、本書はその格好の手引きとなる。グローバルに展開されるドラッグ戦争に関与するプレイヤーは売人などの小さな存在から巨大な組織といった大きな存在まで実に多岐にわたり、それらの多様なプレイヤーが複雑な利害関係を持っているがゆえに、この問題の解決は非常に難しく思える。まるで地球環境問題のようにハイパーオブジェクト的な問題にさえ思えるが、問題の複雑さに怯むことなく、この問題の解決に向けてとにかく力をつけていこう。知力、政治力、そして問題解決能力を含め、この問題の解決に必要な様々な力を高度に身につけていくことに今の自分の主眼がある。サイケデリクスに関する研究というのはある種この問題の解決に向けた知力を涵養する小さな取り組みに過ぎない。自分はやはりどこまでいっても実践家かつ活動家でありたいと思う。書斎や研究室の椅子に腰掛けて、机の上で書籍に向き合うこともまた面白さや喜びを伴うが、より大きな使命としては自らの存在をかけてこの世界の重要な課題を解決することなのだと思う。そうした次の世代、さらには遥か将来の世代を見据えた問題解決に向かおうとしている自己がいる。フローニンゲン:2023/11/12(日)08:55


11289. 「全ての存在に居場所を与える」という主張の罠と危険なドラッグの居場所


「全ての存在に居場所を与える」そのようなことをサイケデリクスやドラッグ全般に対しても言いたいところだが、間違ってもそのようなことはそれらに対しては言えない。「全ての存在に居場所を与える」という主張が成り立つための前提条件を押さえなければならない。前提条件の1つとしては、その存在が他の存在に危害を加えない限りにおいて、というものが挙げられるだろうか。このような前提条件を置いてみると、とりわけハードドラッグやデザイナーズドラッグの多くは人間そのものや社会に対して危害を加える性質や力を内在しているゆえに、それらの存在に居場所を与えるなどという耳に心地良いことを述べてはならないという規範意識を持つことは非常に重要なのではないかと思う。そもそもこうした規範意識が芽生えるためには、ある種悪に対する健全な感性がなければなない。無菌状態で生き、悪に対する感性が育まれていない場合、上記の前提条件を感知することも理解することも難しく、本来は悪を内在していて他の存在に対して危害を加えうるようなハードドラッグやデザイナーズドラッグに対しても相対主義的に全ての存在に居場所を与えようとしてしまうという認識上及び行動上の誤謬に陥ることになるのではないだろうか。ひょっとすると、相対主義的な思考力を持つ前段階でも十分にこの問題は生じ得る。本当の意味で後慣習的段階に到達していれば、存在の価値順序や機能順序を付けられるはずであり、それができないというのは依然として慣習的段階に留まることを意味するだろう。

ここで重要なのは、後慣習的段階というのは、悪への感性が十分に育まれているという性質を持ち、その性質が健全かつ十全に開いている段階と言えるかもしれない。より高度な段階になってくれば、善悪を超えて、それでいて相対主義的な発想に陥らずに悪にも居場所を与えることができるかもしれない。少なくともドラッグにおける悪に対して居場所を与えるというのは、この現実世界にあってはならない。彼らの居場所は歴史の中に留めればいいのである。逆に言えば、彼らの存在は歴史の中の語りとして必ず生かさなければならない。さもなければ、人類はまた同様の悪に縁取られたドラッグを製造するであろうから。歴史から学ぶというのはそういうことであり、歴史の価値はそうしたところにあるはずである。他の存在に危害を加える各種のドラッグはこの現実世界からは一掃し、その代わりにそれを人類への教訓として生かすべく、歴史の中の語りやテキストして存在を残すことが重要なのではないだろうか。そうすれば、危険なドラッグはこの現実世界からは退却しながらも、歴史の中では生き続けることができる。少なくとも自分の中で、「全ての存在に居場所を与える」という主張を危険なドラッグに適用した場合にはそのような思考プロセスを辿り、実践的なアイデアとしては上述のようなことを提唱したい。ここからさらに探究を深め、危険なドラッグに対して居場所を与えるさらに良い方法があるのかどうかについて考えていきたいと思う。フローニンゲン:2023/11/12(日)09:10


11290. 「ダメ絶対」の標語に代わるべきもの


「それは危険だぞ」という言葉よりも、「それはダサいぞ」という言葉の方が他者の行動の抑止になるのではないかという考えがふと芽生えた。これはとりわけサイケデリクスやドラッグ全般の使用に関して重要な考えのように思える。特に本当に心身及び社会的に害悪のある危険なドラッグについては尚更その重要性を帯びてくるのではないかと思う。「それは危険だぞ」と言われても、むしろそう言われるからそれに手を出してみたくなる人は一定数存在する。自分のリスク許容度やリスク概念を考えてみると、自分もそうした人間かもしれない。そんな自分も、「それはダサいぞ」と言われると、「それは危険だぞ」と言われた時よりも行動に抑止がかかるという自己省察があった。ここに何かドラッグ教育の鍵があるように思えた。基本的に現在のドラッグ教育では、全てのドラッグを一緒くたに扱い、全てを危険なものとみなす。慣習的なマインドを持っている場合には、危険だと言われれば何の疑いもなく危険だと信じ込んでそうしたドラッグに一切手を出さない人が一定する存在する。むしろ人口統計的にはその数は多いだろう。しかし慣習的なマインドの前の利己的なマインドの段階や慣習的なマインドの後の合理的なマインドにおいては、全てのドラッグを一緒くたに扱う主張を信じることはできない。後者においては自ら科学的な発見事実を検証する知力があるため、危険なドラッグに手を出すリスクは比較的低く留まるかもしれないが、前者の利己的なマインドの場合には、ある種無鉄砲に危険なドラッグに手を出す可能性がある。そんな彼らに対しては危険性などは二の次であるから、彼らの羞恥心を刺激するような「ダサさ」という軸で言葉を投げかけていくことは重要かもしれない。それは人々の美意識に訴えかけるもので、人は科学的な言葉や道徳的な言葉ではあまり動かず、自らの美意識を刺激された時に動くことが多いのではないかと思う。

危険性というのは科学的な言語で構築されるが、ダサさは社会文化的な枠組みから構築される。サイケデリクスを含むドラッグを研究する学者として社会に対してなすべきことの1つは、十分に科学的なファクトを押さえながら、同時にそれに留まることなく、ドラッグにまつわる社会文化的な在り方を新たに構築していくことにあるように思える。現在ではめっきり床屋談義的なものは減ってしまっているので、友人間の対話、親子間の対話、世代を跨ぐ対話をいかに密にするかの仕組みもデザインしていく必要があるが、そうした取り組みの背後に、危険なドラッグをダサいとみなす社会文化的な仕掛けもしていきたいと思う。「ダメ絶対」よりも自らの美意識に訴えかける「そのドラッグはダサい(ダサすぎる)」と言われた方が少なくとも自分の行動の抑止につながったであろということを思い出しながら、最先端科学の知見を踏まえた時代に適合する標語を提唱することを通じて、ドラッグに関する文化を底上げしていくことの必要性を痛感している。フローニンゲン:2023/11/12(日)09:31


11291. サイケデリクスを通じた哲学実践


後1時間したら第19回目のシロシビンセッションが始まる。それに向けて手に取った書籍は、心の哲学者デイヴィッド·チャマーズの“Reality+: Virtual worlds and the problems of philosophy”という本だった。この書籍を読みながら、リアリティとは何かについて、またヴァーチャルリアリティのリアル性について考えていた。今日のシロシビンセッションでは色々と洞察を得たいテーマがあり、それについては別途メモ書きをしている。テーマの1つに、依然として難題として残り続ける意識とは何か、リアリティとは何かというものがある。これについては通常意識で思考を巡らすだけでは限界があり、変性意識状態を通じて、しかも直接的に意識を触知し、リアリティを触知させてくれるサイケデリクスを通じてこのテーマについて考察を深めていくのは重要なことだと思う。サイケデリクス哲学者のピーター·ショステッドはまさにサイケデリクスを活用した哲学的探求の道を推奨しており、図らずも自分もまたその道を歩んでいる。

今日のシロシビンセッション中に開示されるリアリティは自分にとってのリアル性を伴ったリアリティではあるが、それは他者にとってのリアリティではない場合もあるし、他者にとってのリアリティでもあり得る場合もあることについて考えていた。前者のケースは、ある種サイケデリクスを通じて知覚される特殊なリアリティにこれまでアクセスしたことがなく、彼らにとって全くもって想像を超える未知なものである場合である。逆に後者のケースにおいては、その人が同種の高次元のリアリティにアクセスしたことがあれば、全く同種のリアリティではなくとも同次元のリアリティゆえに共通理解が生まれ、「私たちのリアリティ(our reality)」という間主観的なリアリティ認識が生まれる可能性がある。観念主義的な立場で言えば、確かにその人のリアリティはその人のマインドで生み出され、そのリアリティはその人固有のものであるが、他の人が同次元のリアリティを知覚している場合には、そこに共通線ないしは共通領域を見出すことができ、共有可能なリアリティが醸成される。

そのようなことを考えながら、今日のセッションを含め、今後のセッションにおいてもしばらくは心の哲学における各種のテーマを念頭に置いてセッションに臨みたいと思う。心の哲学の領域においては、意識に関する様々な理論があるし、興味深い仮説がいくつも存在している。それらの理論をさらに精緻にしていく試みとして、それらの仮説の検証を行う試みとして、今後のシロシビンセッションを活用していく。それはサイケデリクスを通じた哲学的な営みのあり方の1つとして確立されるべきであり、過去にもアンリ·ベルグソンやウィリアム·ジェイムズ等の哲学者はそのような形でサイケデリクスを活用していたのである。ショステッドがリストアップしているように、それ以外にもたくさんの偉大な哲学者たちがサイケデリクスを通じて哲学的思索を深め、その思想を世に共有することを通じて社会に貢献してきた。自分もまた彼らが行った実践方法を採用し、意識とリアリティの性質に関する謎に対して自分なりの貢献を果たしていきたい。フローニンゲン:2023/11/12(日)10:10


11292. 第19回のシロシビン・セッションの振り返り(その1)


大いなる確認が大いなる癒しと大いなる変容の根幹にあること。大いなる確認は大いなる学びとイコールであり、大いなる学びを絶えず自分は行っているのだという確認が改めて深い慈愛の念と共にもたらされた。

今、時刻は午後4時を迎え、第19回のシロシビン·セッションも終わりを迎えつつある。いや、果たしてそれに終わりはあるのだろうか。それはシロシビンを摂取するということそのものに対して述べているのではなく、この世の中に終わりのあるものなど最初からあっただろうかという問いかけである。全てが始まりも終わりもないということ。この一見する手垢の付いた表現も、自分の全存在をかけてその手垢を拭い去ってみれば、それ以上にないほどにその真理が開示される。veritusの開示。veritusの具現化。それを全存在を通じて感じる。

今回のセッションもまた消化し切れないほどの無数の学びをもたらしてくれるものだった。些細な学びから深層的な学びまで、いや学びに些細さも深層さも本来はないのかもしれない。全てが今の自分にとって必要な学びだった。学びとしての自己から学びが溢れ出すというパラドックス現象の中で時間が過ぎていった。

自分を愛することの深層的な意味。それはこれまでの人生の一瞬一瞬の全てを、一コマ一コマの全てを全肯定することだったのだ。そこにある清濁は問わない。清きものも汚れたものも、ずっと覚えておきたいものも忘れ去りたいものも、ありとあらゆる全てを全ての価値判断を手放して、価値超越的に受け止めることが自分を深層的に愛することだったのだ。そこから出発しなければならない。

自我を赦すという言葉も芽生えた。しかしその後にすぐ、自我を赦すことの先があることに気付かされた。自我を認めること。そう、認めるということが重要なのだ。それは自我だけではなく、自分の内側にあるシャドー全てに対してもそうであるし、忘れ去りたい思い出に対してもそうなのだ。赦すというよりも認めること。認めることは光を当てること。認めることは気づきの意識の最もピュアな形なのではないだろうか。

今日のセッションを始めたのは午前11時。今は16時を迎えている。ゆっくりと、ゆっくりと。自分のペースで、自分のペースで。自分の魂の呼吸で戻ってこよう。こちらの世界に。

魂には何の責任もないのかもしれない。セルフが魂に対しする各種の責任を負っている。その責任を全うしながら魂を癒し、魂を育むこと。その鍵を担っているのがセルフのようだ。アートマンとブラフマンの一致とは本当によく言ったものである。本当にそうなのだ。自己の叡智は100%完全に宇宙の叡智と合致する。そこに全ての癒しと変容の種がある。目を閉じればまだ意識変容の体験に入っていく感じがある。もう少しこの体験に留まった方がいいのかもしれない。フローニンゲン:2023/11/12(日)16:08


11293. 第19回のシロシビン・セッションの振り返り(その2)


来年以降の身の振り方。今回のシロシビン·セッションが知覚せてくれたのは、今の自分が思い描く来年の身の振り方に対する絶対的な肯定以外の何ものでもなかった。それがそのように実現することはもはや当たり前であるかのような肯定がそこにあった。疑いが微塵もなく、自分の思いとビジョンと感覚の全てが完全に合致しているという絶対的合致感がそこにあった。

湧き立つエネルギー。汲みしきれない活力。エネルギーに次ぐエネルギー。活力に次ぐ活力。その無限に湧き上がるエネルギーと活力を自分は他者に共有していく。それは自分のものでも何でもなくこの宇宙のものなのだ。そもそもこの宇宙には所有という概念はない。あるのは共有のみ。本当に共有のみなのだ。誰か1人が何かを独占したり占有したりすることをこの宇宙は許しはしない。許す許さないの次元ではなく、宇宙の存在論として、あるいは活動原理としてそうなっていないのだ。宇宙には共有だけがある。もう1つ挙げるとするならば、絶え間ない創造だろうか。宇宙は絶えず創造を繰り返し、創造物を遍く形で共有する形で呼吸している。それが宇宙の呼吸なのであり、宇宙の鼓動なのだ。

自分の呼吸も宇宙の呼吸と完全に合致させること。自分の存在の鼓動も宇宙の鼓動と完全に合致させること。その大切さを改めて深く実感する次第だ。

エネルギーと活力の無限さ。それは言葉の無限さも表す。言葉もまた無限に湧き立ってくる。なぜか。それはエネルギーと活力が無限だからであり、自己という宇宙が、宇宙という自己が最初から永遠に創造を繰り返しているからだ。言葉は創造の現れ。創造の写像なのである。言葉を紡ぐことは宇宙の写像現象であるということ。それに静かに気付かされる。

今日のセッションを迎えるにあたり、体験中は言葉を当てることは控えておこうと思った。しかし、自己という宇宙は言葉によって成り立っていて、言葉によって育まれる性質を持っているのであるから、言葉が流れ出てくるのは仕方なかった。それを否定するのではなく、むしろ言葉を宇宙の血流として認めた上で、それが流れ出るままにしておいた。すると、自分の存在に温かさを感じた。存在の温もりがもたらされたのである。それをもたらしてくれたのは自分の言葉だった。自分という宇宙から生み出される言葉が自らに温もりをもたらした。言葉は光であり、光ゆえに温かさがあるのだ。そんな当たり前のことに気づかせてくれた。何度も言うが、こうした当たり前のことを様々な角度で何度も何度も気づかせてくれるのがこの種のセッションなのだ。「セッション」?おかしな言葉である。それはセッションなどという言葉では本来捉えきれない。今のその瞬間にとっての自分に必要な時間。いやそこには時間もないのであるから、自己を包む器としての絶対感覚があるのみ。その内側で全てが起こる。それと合一化したところから全てが起こる。自己は無限の可能性に開かれた存在。というよりも、自己は無限の可能性そのもの。本当にそうなのだ。宇宙そのものが本来無限の可能性そのものなのだ。だから自己も無限の可能性そのものなのである。それは何も違和感のない表現だ。本当にそうでしかないと言い切れるぐらい全ての自己は可能性に満ち満ちしていて、無限の可能性に他ならないのだから。フローニンゲン:2023/11/12(日)16:24


11294. 第19回のシロシビン・セッションの振り返り(その3)



自分の情熱はまだ足りないのだろうか。情熱の光がまだまだ弱いように思えて仕方ない。誰しもに備わる固有の自己の潜在能力とその無限の可能性を思うと、自分の情熱の力はまだこのような状態であってはならないように思える。情熱の光はまだまだもっと大きくなる。自分は薪を加え、自己が持つ本源的な情熱を最大限に爆発放射できるように尽力しよう。自分はそのためであれば自己犠牲は厭わない。それは結局のところ自己犠牲ところか、自己救済かつ自己解放なのだから。

情熱の炎を燃やすこと。この宇宙で最大限にその炎を燃やし続けること。太陽を凌ぐ熱さと激しさでそれを燃やすこと。そうすればどれだけ離れた人にでも、世代を越えても炎の温もりを届けることができるだろう。自分の魂はそれを希求して自らの炎を燃やし続ける。自分はそれを後押ししなければならない。どんな状況でも、どんな時にもそれを支援するのだ。逆にそれを妨げることからは徹底的に距離を置く。それが人間ならその人からは離れ、それが社会ならその社会から離れる。自分の魂は、とにかく炎を最大限に燃やし、その温もりを必要な人や存在に届けようとしている。繰り返し述べる。それを遮るものを遮断し、超克し、自分は自らの魂の最大の理解者かつ応援者としてその炎を最大限に燃やす手伝いをする。自分はそうした使者なのだ。自らの魂に仕える者なのである。

確認。確認に次ぐ確認。もう不要だと思われることもまた確認をして魂に刻印する必要がある。魂への刻印儀式としてのシロシビン·セッション。それはまだ今後も定期的に行っていく必要のあるものだという確認もまたもたらされた。そうした確認ももたらしてくれる確認の培養機会としてのシロシビン·セッション。確認したいことや確認したくないことの分別を超えて、自己という存在は確認を深層的に求めているし、必要としているのだという気づき。自己は確認によって癒され、確認によって変容するという確信。確認という言葉の前には意味という言葉があったし、気づきの意識という言葉があった。それらの言葉が脱皮し、今は確認という言葉になった。その言葉もまたこれからも引き続き行っていくシロシビンを通じた連続的な確認作業の中で磨かれ、脱皮をして新たな言葉になるだろう。その時までは少なくとも「確認」という言葉を使う。「確認」という言葉は、confirmationのみならず、identificationやaffirmation、そしてauthenticationと続く。それらの英語が示すもの。もうそれは自分の内側に体現されており、「確認」という言葉の確からしさを物語っている。少なくとも今の自分にとっての真理性の度合いは極めて大きい。今日のセッションは、確認に始まり、確認で終わるような旅であった。そしてこの旅は終わりはなく、無限の始まりにすぎない。フローニンゲン:2023/11/12(日)17:05


11295. 第19回のシロシビン・セッションの振り返り(その4)


不勉強ゆえにオランダ語で構築された自己を発見することはできなかった。しかし、英語で構築された躍動する自己はありありと知覚された。そして今後は日本語で構築された自己を表に活動していくというよりも、この同時代における地球上では英語で構築された自己で思う存分活動していこうという吹っ切れた感覚があった。今日のシロシビン·セッションの中で知覚された英語で構築された自己。それは随分と頼もしく思えた。かつての貧弱なそれはもういない。今はしなやかやさと強靭さを兼ね備え、そこに逞しさと漲るエネルギーと情熱が備わっている。そんな英語で構築された自己を確認することができたことは最大の収穫の1つであった。

今日のセッションを通じて、音楽の重要さと音楽の不必要性について思った。当初はヴァイオリン協奏曲をかけていたが、それが途中で邪魔になってきた。ラフマニノフのお気に入りの交響曲をかけてみたが、その時の自分には合わず、音楽全体を止めた。すると、自分の思考·感情·感覚がその瞬間の自分にとって必要な絶対音楽を生み出すことに気づいたのである。それが最良の音楽である。もちろんこれはおそらく玄人的な現象かもしれない。かく言う自分も最初のフェーズや所々で音楽の力が必要であった。しかしこうしてセッションを繰り返すごとに、今その瞬間の自分にとって本当に必要な絶対音楽は誰かが作ったものではなく、自分と宇宙の協働作業によってその瞬間に生み出すものだと気付かされたのである。その気づきを得た後は、音楽をかけることなく、音楽的存在としての自分の内側から湧き上がってくる音楽に存在を傾けた。傾けたのは決して耳ではない。存在を傾けたのである。すると、自己は音楽的自己が生み出した自らの音楽に寛ぎ、音楽世界と化した。究極的な自己一致の形を見た。感じた。体験した。

自分の内側、あるいは全存在から奏でられる音楽にしばらく存在を傾けたのち、今度は自然音を流してみた。それは毎日の午後の仮眠の最中に流している音楽だ。そこには小川のせせらぎと時折聞こえてくる小鳥のさえずりだけがある。それをしばらく流して音楽に浸っていると、やはりそれもまた不必要になった。自分という存在の絶対無から有に転換される時に生まれる究極的音楽が聴きたいという思いがやってきて、それを実現させることにした。すると、やはり聞こえてきた。自分の内側の奥から、あるいは存在即宇宙ゆえに宇宙全体から滴る音楽が聞こえてきたのである。その音楽にしばし浸りながら、ある段階を迎えると、どんな偉大な作曲家が残した曲でもダメで、自らが宇宙と一体化した時に生まれるその瞬間に芽生える音楽でしか究極的な癒しと変容は起こらないのではないかという気づきがもたらされた。その後、セッション中にかけるとすれば、自分でその瞬間瞬間に必要だと思う音楽をかけていくアプローチが重要だと思った。こうなってくると、グループセッションは極めて難しそうだという実感が湧き、その場にいる全員にとって必要な曲の選定以上に難しいことはないと思った。グループワークとして、ある種同じメンバーでセッションを重ねる必要性を思ったし、理想的にはその場にいるメンバーの意識を同調させ、集合的に必要な音楽を生み出すことができればと思った。フローニンゲン:2023/11/12(日)17:18


11296. 第19回のシロシビン・セッションの振り返り(その5)


何を隠そう、これまでの自分にとってサイケデリックセッションは秘匿するべきものであり、口外を一切許さない私的な実践だったのだ。もちろんかつての体験を信頼できる仲間内で話すことは過去にあったが、このようにしてセッションを終えての、あるいはまだ継続中の段階での記録を書き留めることはなかった。この8年間のオランダ生活の中で、今日も含めてシロシビン·セッションは19回行っている。かつての自分はどのようにして記録を留めていたのか。記録することからも躊躇っていた自分がいるように思える。それはとても惜しいことで、大いなる学びの機会の喪失でもあった。自分の言葉で記録することは絶対に怠ってはならないのだ。過去の腰抜けの自分を赦すことができたし、過去の腰抜けの自分がとても愛らしく思えた。そんな自分がいて良かったのだし、今の自分にもその自分は内側で生きている。そうした自分を自らの内側で抑圧することなく生かせることができる自分がもうここにいるのである。

確かにこれまでの自分も時折セッションの体験を日記に残していた。しかしシロシビンを摂取したなどとは一言も言わず、むしろ必要な嘘をつくかのように、それを「半日ほど座禅をした」「半日ほど時間を取って瞑想実践をしていた」などと述べていた。確かにそれは嘘ではない。セッション中に座禅を組むことはあるし、今日のようにベッドの上でヨガのシャバーサナのポーズで瞑想実践をしているかのような形で時間を過ごすこともあるのだから。だがこうして正々堂々とセッションについて言及し、その体験を振り返ることによって、必要な言葉が必要な形で必要な量溢れ出ているのを見ると、虚飾によってこの言葉の生成運動を抑圧しては決してならないと思った。正直であれ。それは自分にとって意外と、いやかなり難しいことである。自分自身に対して正直であれ。この世界に、この宇宙に正直であれ。生成する全ての事柄に正直であれ。その言葉を胸にここからの日々を生きていこう。

今日の体験を意識の状態モデルで語るならば、意識状態は順を追って生成されるものではないことが体験的に確証された。今回は幾何学模様が知覚されるというサトルの意識状態がほぼゼロの状態で、同時に非二元の状態もほぼゼロだった。あるのはずっと絶対無としての、あるいは全ての存在を生み出す規定に触れているような深いコーザルの意識と、究極的に研ぎまされた感覚で全てを目撃し続ける自己だった。一瞬、目撃者の自己がさらに深まり、目撃している自己の裏側に入ることができ、目撃している自己の意識をまるで一枚皮膚を剥がすかのように引き剥がす瞬間があった。そうすると、大悟徹底的な笑いが生じた。それはもう笑うしかない現象なのである。特大級の笑いがやってきた後、特大級の祝福がやってきて、自分はその祝福の感覚に包まれていた。今日の体験はまだまだ振り返りたいことがある。しかし形として1日断食に近い状態が続き、そろそろ夕食の準備をしよう。昨日の夕食以降、今日これまで摂取した固形物はヴァルハラというシロシビン·トリュフ15gしかないのだから。夕食としての食材に感謝。深い感謝の念を持ちながらそれを調理し、そしてその命を頂く。ヴィーガンとして自分が摂取する豆腐や野菜にもコンシャスネスがあり、命があるのだ。それを自覚して、命の連鎖を実行し、自分の命はまた一段と大きな輝きを灯す。フローニンゲン:2023/11/12(日)17:32


11297. 第19回のシロシビン・セッションの振り返り(その6)


自分とシロシビンとの出会いを大切にし、その関係性が続く限り、自分がシロシビンとどのような関係性を築いていったのかを書き留めておきたい。その関係性の構築プロセスの中では色々なことが起こるであろう。すでに実に多様なことがもう起こっているのである。清濁を含めて、シロシビンと自己との間で生まれた関係の中で生じたことをこれから克明に記録していこう。出会いを大切にすること。関係性を大切にすること。シロシビンは確かに自分とは違う生物である。しかしその1つの生物を大切にできない者が何を大切にできるのだろうか。その関係性を大切にできない者に他の関係性を大切にできるとは到底思えない。自分はそういう意味で試されているのである。シロシビンを通じて試されているのだ。

究極的には、自己はシロシビンであり、自己はシロシビンである。さすがにもうそれに気づけない過去の自分はない。もはや言葉が意味を為さないというのは承知だが、その承知を受けて、無意味さを反転させる形で言葉を有意味なものにする。その作業を怠らない。

大いなる確認を小さな備忘録として断続的に記録している自己。先ほど夕食を摂り終えた。その際にはずっと懐かしい邦楽をかけていた。すると様々な思い出が芋づる式に思い出され、ただただ感謝の念が湧いてきた。そして絶対的な愛に満たされる感覚と歓喜があった。それは爆発的な歓喜であった。

狂人は常人であること。逆にこの病んだ社会に適応する人間は常人の仮面を被った狂人である。それに一刻も早く気づいてこの病んだ社会を美化する運動に携わる人が1人でも増えてくることを心底願う。

一歩も引かないこと。一歩も引かずに前進すること。前進が前進でないと感じさせられるぐらいに前進すること。生命の前進速度と自己の存在の呼吸の速度を合わせて、等速度で進むこと。しからば自分が進んでいるという感覚を忘却して着実に前に進むことができる。自己の歩みに対してお節介な他者や妬みを抱えた他者を関与せないこと。そうした不要な人間関係は一層すること。寄せ付けないこと。その形で自らの歩みを自らの速度で進めること。離れていく人を喜び、今のこの自分に共鳴してくれる形で関係を結んでくれる人を大切にすること。誰を大切にするべきかはもうわかっている。その絶対的な基準をもとに社会的な生き物としての社会生活を営んでいくこと。

この愛と感謝の海に泳ぎ疲れることはないという感覚。その感覚が大いなる歓喜の源泉であった。この愛と感謝の海が自己に絶対的な推進力を生む。自分の活動の絶対的な原動力はこの愛と感謝だけである。それが全てであり、それ以下でも以上でもない。愛と感謝として生きること。愛と感謝の結合としての光として生きること。もう自分はそのようにしか生きられない。フローニンゲン:2023/11/12(日)19:04


11298. 第19回のシロシビン・セッションの振り返り(その7)


今の自分の乏しい語彙で、言葉が枯れるまでそれを絞り出すこと。絞り出すこと。それが“express”の語源であることを絶対に忘れてはならない。枯れた後の実り。そもそも枯れることを知らない言葉の海。イコール多様な存在と絶え間ない創造としての海。「洋」という自らの名前の一文字はそうした絶対海を指す。個別具体的な海ではなくて、超越的な絶対的な海である。自分はそうした存在なのだ。絶対海の化身としてこの世界で生き、しかるべき振る舞いをしていく。

ありがとうとしか言えない感覚。感謝の言葉しか湧かない感覚。世界がもっと感謝の心と言葉で満たされてくれればどれだけ世界が変わることかと思う。少なくとも自分はそうして生きればいいのだ。感謝として、感謝の言葉を絶えず深層的な次元から口にしていけばいいのである。身口意の実現および体現。それをする。日本にかつていた空海。誰しもの中にいる空海。そして、誰しもの空海。それに早く気づかなければならない。空海が私たち各人の内側に生きていて、各人はまた空海であることに目覚めなければならない。「空海」はn的な変数である。nには他のいかなる存在者も代入可能である。それくらいの代数は誰でも分かりそうだが、一応書き留めておく。

かつて、こうした体験を振り返れなかった頓馬で腰抜けの自分への感謝。絶対的な感謝がここにある。あの時のあの自分をありのまま全肯定する感謝。あのような自分が存在していたことへの感謝。それを果たしてくれたこの宇宙への感謝。あのような自分そのものへの感謝。

自己を深く知ることを通じて世界を知る道、さらにはこの宇宙の真理に辿り着く道としての哲学実践。シロシビンを含めたサイケデリクスを哲学実践に紐付けることはこのようにして可能になるのである。サイケデリクス哲学者のピーター·ショステッドが指摘するように、過去の偉大な哲学者の実に多くがサイケデリクスを摂取することを通じて哲学実践を営んでいたという事実を早急に押さえなければならない。ざっと挙げると、プラトン、ショーペンハウアー、ニーチェ 、ウィリアム·ジェイムズ、ベルグソン、ウォルター·ベンジャミン、ハーバート·マークーゼ、サルトル、フーコーなどがいる。別にこのリストに大した意味はない。単なる事実の提示である。重要なことは、彼らの功績を真に理解し、受け継ぐために自分もまた同様の実践をしていこうということである。虚構の社会の眼差しを一顧だにせず、上述の哲学者たちの眼差しにのみ従う。ショステッドだけではなく、もう1人のサイケデリクス哲学者のクリス·リーズビーもまたサイケデリクスを哲学的思索の道具として、まさに“philosopher's stone”として活用する道を提示している。サイケデリクスによってもたらされる恩恵·恩寵としての意識状態と開示される真理を通じて、意識とは何か、リアリティを何かを探究していく道がここにある。今日のセッションは改めてそれを確認させてくれるものだった。もう誰にも気に留めず、自分はこの実践道を歩み、その実践道と化せばいいのである。それが自分のタオである。フローニンゲン:2023/11/12(日)19:18


11299. 第19回のシロシビン・セッションの振り返り(その8)


反復を通じた差異。反復でいいのだ。むしろ人は反復を通じてしか変われないし、成長できないのだから。そもそも1秒、1刹那前の自分とこの瞬間の自分は自己の同一性こそあれ別人である。そうして変わった自己を通じて反復は絶えず新しいのだ。それがホワイトヘッドが述べるところの”novelty”の意味であるはずだ。また彼が述べるところのプロセス哲学の原理はこうした反復を通じた絶え間ない斬新さの発露にこそあるはずだ。そうではないだろうか。きっとそうだろう。

面倒だが重要な試みとして、サイケデリクス哲学者·神学者としての自己だけではなく、サイケデリクス科学者として、自らが摂取する物質について化学と精神薬理学の観点からの探究を怠らないようにする。 中学校1年の時に化学式に取り憑かれていた自分。高校時代に文系ながら化学を専攻していた自分が今の自分の礎になっている。過去の全ての自分は今の自分の礎であったこと。だから自分は過去のどんな自分も絶対肯定するのである。存在の全肯定とはそういうことを言うのだろうし、世間で言われるところの紙屑的な自己肯定感とは一線を画す絶対的な自己肯定感がここにある。明日からもまた着実に、サイケデリクスに関する哲学的·神学的な探究のみならず、科学的な探究も進めていこう。自分が愛する物質はシロシビンであり、それに加える形で今は摂取する機会のほとんどないDMTがある。DMTは今も自分の身体の中で微量に絶えず生成されている。 

今日のシロシビン·セッションを終えた後、存在の入れ子の全てが喜び、弾けるような活力が湧き上がっていた。これまでLSDの派生物質としての1P-LSDを1回、そしてLSDを1回ほど摂取したことがあるが、それらの体験後に残る微細な嫌な感覚はやはりシロシビン·セッションの後にはない。この違いを化学的にも精神薬理学的にも説明できるようになっておくこと。サイケデリクスを社会実装する上で、法規制の改革に乗り出していくだけではなく、あるいはその際にも、サイケデリクスについて科学的な言語でも自由自在にありとあらゆることをできるだけ語れるようになっておく必要がある。

体験後の爽快感に話を戻すと、今回のセッション後にもたらされた爽快感は、かつてDMTそのものやDMTを含むアヤワスカを摂取した時にもあったし、メスカリンを摂取した時にもあったように思う。一方、LSDの摂取の際には今のところこのような爽快感が得られない。これは自分との相性の問題かもしれないし、より普遍的な性質及び原因が存在しているかもしれない。その調査に乗り出す必要がある。今後、天然系としてのシロシビン·トリュフやマッシュルームではなく、合成系のシロシビンを摂取した後に、体験後の感覚がどのようなものかを検証することも行いたいと思う。自分は幸か不幸か、かなり敏感で繊細な性質を持つようで、摂取する物質ごとに如実に微細な差異が心身に対して生じていることがわかる。繰り返しになるが、あとはその主観的な感覚を客観的な科学言語で語れるようにしておこう。本来、サイケデリクスを通じて自己の治癒や変容をもたらそうと考えるだけの人であれば、そのようなことはしなくていい。自らの主観領域と主観言語と大切にすればいいのだ。だが自分は、この宇宙に誕生したサイケデリクスをしかるべき健全な形で社会実装することを使命·天命にもって生まれたのであるから、科学言語でも語れるようになることを絶対に実現させなければならないのである。ボストンから帰ってきてからずっと就寝時間が早いままであり、今夜もまた早めに就寝しよう。夢の世界の中でも自分はサイケデリクスについて探究し、この自己とこの宇宙について探究する。それは絶対に譲れない自分の人生で完結しない伝承するべくライフワークである。フローニンゲン:2023/11/12(日)19:35

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