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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12448-12453:2024年4月6日(土)

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タイトル一覧

12448. 今朝方の夢

12449. 季節の相転移の前触れを感じて/ここからの唯識学研究

12450. 無住処涅槃を体得した存在を象徴する夢

12451. 太陽の如し心/無分別智を通じた日常風景

12452. 言葉の牢獄から脱却した生きた思想研究

12453. 唯識学に関する貴重な古書を注文して

12448. 今朝方の夢

時刻は午前4時半を迎えた。暗闇と静けさに包まれた朝の世界が広がっている。欧州はちょうど先週の日曜日からサマータイムに入った。そこから1週間経ち、もうすっかりとサマータイムの時間になれたようだ。ここからますます日の出の時間は早くなり、ますます日の入りの時間は遅くなるだろう。午後10時頃まで明るい季節がまたやってこようとしている。

今朝方は夢の中で、高校時代の2人のクラスメートの女子と一緒に大型スーパーに買い物に出かけている場面があった。私たちは修学旅行の一環である地方を訪れていて、その町にある一番大きなスーパーに昼食を買いに出かけていた。そこは本当に立派なスーパーで、地方ゆえに土地が余っていることからこのようなスーパーができたのだと思わされるほどだった。スーパーに入って早速昼食を購入しようと思ったのだが、如何せん品数が多く、何を昼食に食べようか迷ってしまうほどだった。せっかくたくさんの食材があるので、大きな1つのものを購入するのではなく、いくつかの惣菜を購入する形で昼食にしようと思った。2人の彼女たちも同様の考えで品を選んでいた。無事にいくつかの惣菜を買い物カートに入れレジに向かった。すると、自分の列の後ろから何やら不穏な雰囲気を感じたので振り返ると、人相の悪そうな細身の中年男性がいて、何か人に危害を加えそうな雰囲気を発していたので、すぐさまレジを済ませて外に出ようと思った。幸いにもレジはハイテクな機能が備わっていた。というのもカートの中の物を一気にスキャンするような機能があったのである。その機能のおかげで一瞬にして会計が終わって、その男性から襲われることなくスーパーを後にすることができた。そこで夢の場面が変わった。

その他に覚えている夢としては、天空にある塔にいた場面があったことである。そこは地上が見えない遥か上空にある立派な塔だった。そんな塔で巨人と小人が戦いをしていた。実は2人は元々は仲が良く、一心同体の関係だったのだが、その塔に足を踏み入れた際に課せられたルールゆえに2人は戦わないといけなくなってしまったようだった。巨人の方は小人と戦うことを拒絶していた一方で、逆に小人は巨人と戦うことに覚悟を決めているようだった。小人が巨人に対して戦うしかないということを告げると、巨人は渋々それを了解したようで、大きな足を振りかざして小人を踏み潰そうとした。しかし小人は素早くそれを避け、小さいがゆえに巨人を撹乱する動きをして巨人を困らせていた。結局2人の戦いには決着が付かず、2人はまた1つの同じ体に戻った。その瞬間にそれは1つの精霊の塊となってどこかに消えていった。そのような夢を見ていた。2つの夢のどちらも自分にとって示唆深く、それらもまた唯識学の観点から考えを巡らせてみようと思う。フローニンゲン:2024/4/6(土)04:42

12449. 季節の相転移の前触れを感じて/ここからの唯識学研究

今、暖房が自動で入り始め、部屋をせっせと暖めてくれている。今の気温は12度だが、今日は驚くほどに気温が上昇する。この時期のフローニンゲンとしては珍しく、気温は20度を超え、日中には23度まで到達するようだ。フローニンゲンからしてみればそれは夏の気温である。夕方に近所のスーパーに買い物に出かけようと思っていて、その時にどのような格好をすればいいかを考えなければいけない。冬の格好だと暑すぎるだろう。明日と明後日も20度近くまで気温が上がるようなので、春を通り越して夏を感じられる3日となりそうだ。明後日以降はまた冬の気温と対して変わらない気候に逆戻りする。気温の変化が激しくなってきた様子を見るにつけ、それは季節の相転移が起こる前触れなのだと感じさせられる。

先週末からサマータイムに入ったことに伴って、今日からのゼミナールは時間帯が変更になった。これまではオランダ時間の午前10時からゼミナールのクラスを開始していたが、今日からは午後1時からの開催になる点に注意しなければいけない。午後からの開始になった分、午前中にはクラスの予習を含め、探究活動に没頭することができる。今日もまた唯識学の研鑽に精を出していこうと思う。あと2冊ほどの書籍の三読目が終わったら、唯識仏教辞典を読み返し、語彙力をさらに強化していく。それが済んだら、自ら設定した唯識学の基礎・標準・応用の分類に従って書籍をまた読み返していく。それは4回目の読解になるため、それだけ読み返しているともうだいぶ唯識学に関する基礎的な知識が身についてきたことを実感する。しかしそれでも気を抜かず、唯識学はどこまでも深い領域なのだから研鑽を絶えず積み重ねていきたい。とりわけ自分の心の観察行を徹底していくことはずっと継続するべき事柄である。

昨日注文した古書が届くこともまた非常に大きな楽しみである。日本からの郵送には少し時間がかかるだろうから、それまでに手持ちの書籍を繰り返し読むことを続けていこう。そうすれば、いつの間にか古書が届いていたという事態になるだろう。今回の注文で今のところ必要な古書の大半は揃った形になる。一旦唯識学に関する洋書の購入は控えて、まずは日本語文献を読み込んでいくことにこれからしばらく時間を充てたいと思う。この秋の一時帰国の際にも神保町の仏教関係の古書店を巡り、唯識学全体の研究、あるいは日本の法相唯識教学の研究に必要な書籍と巡り合えたらと思う。一時帰国の前にオンラインから購入できるが海外発送してもらえない書籍は実家に送り、実家からまたオランダにそれらの書籍を持ち帰りたいと思う。日本語の古書の貴重な文献をゆっくりと揃えていき、そのペースと足並みを合わせる形で研究を着実に進めていきたいと思う。フローニンゲン:2024/4/6(土)04:56

12450. 無住処涅槃を体得した存在を象徴する夢

時刻は午前5時半を迎えた。いつものように日記の執筆を終え、そこから朝の呼吸法とアニマルフローの実践をし、作曲とデジタル絵画の創作活動をして今に至る。それらは毎朝の日課であり、ここから本格的に唯識学の研鑽に入っていこうと思う。いつものように読経行から始めていく。今は世親の『三性論』の音読を毎朝行っていて、今日ちょうどそこからまた『唯識三十頌』に戻っていこうと思っていたところである。『唯識三十頌』については漢訳をまず1度音読し、そこから英訳を音読するようにしている。今後は『唯識三十頌』の漢訳・英訳の音読、『三性論』の音読を毎朝と午後の仮眠後に行っていく形になるかと思う。

今朝方の夢の大半は先ほど振り返っていたが、もう1つ思い出した夢の場面がある。どのような夢を見ていたかというと、人間の言葉を話せる犬と会話をしていたものである。その犬は白く、毛並みも柔らかそうでとても穏やかな性格をしていた。そんな犬と話をするのはとても心地良く、話をすればするだけ目の前のそれは犬ではなく、悟った人間のように思えた。ひょっとしたら前世は仏まで到達した人間だったのかもしれないと思われるほどだった。その仏に成仏した人間の阿頼耶識がその犬に受け継がれたうように思えて来たのである。そう思うとその犬への敬意の気持ちがさらに増していき、彼と話ができることの感謝の念が芽生えて来た。しばらく会話を楽しんだ後、突然その犬は姿を変えた。巨大な犬になったかと思いきや、犬ではない姿形の見えないエネルギー体に変化したのである。姿形の無いエネルギー体に変化した犬とは引き続き心の中で会話ができた。そのような姿になってもその犬は引き続き優しい心と深い智慧を持っていた。どうやら行かなければならない場所があるらしく、行き先を告げずに巨大なエネルギー体と化した犬はどこかに消えてしまった。そのような夢を見ていた。

この夢もとても印象に残っている。記憶として残っている場面の持続時間は短かったが、犬の雰囲気とエネルギー体と化した後の犬の包容力は深く自分の感覚に残るものがある。人は成仏をしたらあのような存在になれるのかもしれない。肉体は持たず、阿頼耶識だけが輪廻の主体となって、あえて完全に涅槃の世界に入らずに無住処涅槃の状態で衆生の救済に向けて尽力する象徴としてあの犬は自分にその生き様を見せてくれたのかもしれない。深い智慧と深い慈悲心の体得に向けて、今日もまた精進をしていこうと思わせてくれるような夢だった。フローニンゲン:2024/4/6(土)05:45

12451. 太陽の如し心/無分別智を通じた日常風景

朝の世界は穏やかで、引き続き小鳥たちが楽しげな鳴き声を上げている。そんな声に耳を傾けながら唯識学の研鑽に励んでいた。最近はますます集中力が研ぎ澄まされているのを実感する。認識の光が1つの対象に凝集するとき、その対象の真如が知覚される。書物を読む際にも極度の集中力を発揮してみると、それが喜びや楽しさの感情に後押しされる形で書物の内容が自然と理解され、自然と記憶されていく。それは本質的な学びの方法のようにすら思えてくる。かつて幼少時代に、紙に針で小さく穴を開け、そこに太陽の光を取り入れると、凝集した太陽の光は物を燃やすほどの力を持つ体験をした。それは理科の実験の一環であっただろうか。人間の集中力もそれと同じ働きと力を持つ。私たちの心は太陽の如しなのである。私たちの心は太陽に匹敵する力を本来持っている。しかしながらその心が煩悩などによって汚れてしまっているために、その本来の力を引き出せないでいるのである。ゆえにここからも観法の重要性が見えてくる。観法を通じて煩悩を伏滅していき、心を清らかにしていくことによって、私たちは太陽に匹敵する光としての認識の力を発揮することができるのだ。まさに唯識学においては、全てをありのままに映し出す智として「大円鏡智(だいえんきょうち)」なるものを提唱している。そもそも「智」という言葉は、「知る」と火を表す「日」から構成されている。煩悩が浄化された心は太陽の如く全ての存在をありのままに照らし出し、輝かせる。今こうして日々唯識学の研鑽に実践を伴って励んでいると、徐々に自分の智がそのような働きに向かっているのを感じる。集中力の鋭敏化はまさにその兆候の1つであろう。

分別智を超克し、無分別智を通じて知覚された風景を言葉を通じて描写していく。元来言葉こそが分別をもたらすものであるがゆえに、そこには遂行矛盾的な点があるのは否めないが、無分別智を体現する形で知覚された日常の風景を言葉を通じて記述し、それを共有していくことは1つの利他行なのではないかと思う。通常の分別智に依存した形で把捉されるのとは違う形で把捉された現象世界の有り様を日々日記に綴っていくこと。それに触れる人たちが少しずつ無分別智を体得してくれること。それを願いながら日常の他愛のない事柄を徒然なるままに無分別智を通じて綴っていく。小鳥の鳴き声が世界そのものとなり、自己そのものと化している。自己は今この瞬間小鳥の鳴き声と化している。フローニンゲン:2024/4/6(土)08:12

12452. 言葉の牢獄から脱却した生きた思想研究      

今朝は本当に春の陽気を感じられる。確かについ先ほどまで暖房が自動で入っていたが、外気は14度であり、ここからゼミナールが始まる午後1時にかけて19度まで上がる。そこからさらに気温は上昇し、22度にまで達するということを最新の天気予報が告げている。小鳥たちも早朝からずっと鳴き声を上げていて、春の陽気を祝福しているかのようである。

唯識学を学術的に研究するアプローチは様々なものがあるが、自分は文献学的なアプローチではなく、もちろん全てのアプローチに共通した文献の解釈を大切にしながらも、何が書かれていて、何が書かれていないのかだけに固執するような研究はしたくない。自分が行いたいのは、日本の過去の学僧たちが唯識学を通じてどのように日々を生きていたのかの生き様の研究である。文献学的なアプローチに縛られて、唯識思想に流れる生きた血潮を忘れたくはない。そこには血流と呼吸が流れているのである。生きた唯識思想を探究するということを常に念頭に置いた研究をしていく。言葉に囚われ、言葉の解釈に固執するというのは、まさに唯識学が戒める教えである。しかし残念なことに、どうも唯識学の研究者の多くはその戒めを守らず、言葉の解釈に囚われ、言葉の牢獄に囚われた形で研究を閉じてしまっているように思えて仕方ない。これは自分自身が実践的な志向性を絶えず持っていることから生まれる問題意識なのだろうか。しかし唯識学がそもそも衆生を苦から解放することを目指すという実践性を志向していることからも、そうした実践的な有り様は決して忘れてならないはずである。唯識学を研究する研究者であってもそれは本来忘れてならないはずだ。さもなければ、その研究は研究のための研究に堕してしまう。そうした研究は自分からすればただただ虚しいだけである。貞慶や良遍の血潮に沸き立つ生きた思想に目を向けてみよう。彼らは唯識学を通じて日々を生きた手本である。彼らの思想を文献学的に思想として単に学ぶだけでは意味がなく、彼らがどのような実存的・宗教的な生々しい問題を抱えていたのかに注目をし、それとどのように向き合っていたのかを通じて彼らの思想を浮き彫りにしていくような研究に従事したい。昨日に注文した古書は、奈良時代から昭和初期にかけて唯識学の研鑽をし、唯識学を通じて自身の内面的問題と深く向き合った人たちの生きた姿を映し出すものである。彼らの生き様を自身の生き様に照らし合わせて絶えず内省をし、自身の内面的課題と同時代が抱える問題の双方に直向きに取り組んでいきたい。そのような決意をもたらす陽気あふれる朝の世界の只中にいる。フローニンゲン:2024/4/6(土)09:23

12453. 唯識学に関する貴重な古書を注文して

時刻は午後3時を迎えた。つい今し方、昨日連絡をさせていただいた古書店から返信があり、お目当ての古書の在庫の確認が取れて安堵している。その書籍を含めて8冊ほど希少な古書を注文させていただくことになった。前回は船便で時間をかけてゆっくりと送ってもらったが、今回は航空便で送ってもらうことにした。唯識学の書物を読むことに関する熱量が衰えることは決してないと思うが、全ては諸行無常であるため、鉄は熱いうちに打てという格言通りに、今読みたいと思っている書籍が手元に早く届くことに越したことはないので航空便でお願いした次第である。航空便だと10日ほどで日本から書籍が届くが、船便になると最大2ヶ月かかる。それはとても長い時間であるし、船に長く積まれている間に船内の匂いが付着するのもあまり好ましくなかったので、今回は航空便でお願いすることにした次第だ。昨日に他の2つの古書店から注文した書籍に合わせて、これで秋の一時帰国までは研究資料としての書物をほとんど購入しなくていいのではないかと思う。唯識学に関する洋書について確かにまだ入手したいと思うものが何冊かあるが、それらを購入するのはまず日本語でしっかりと唯識学の用語体系と世界観に慣れ親しんでからでも十分だと今は判断している。これまでの自分の研究領域は常に英語の文献が日本語の文献よりも圧倒的に充実していたが、今回の唯識学の研究においてはそうではない。確かに英語に関しても研究論文や書籍はいくつもあるが、日本語の文献が非常に充実していることは嬉しい限りだ。これまでの欧米での12年間の学術研究においてこのような事態は一度もなかったので、今は英語に加えて日本語を通じて学術研究ができる喜びに浸っている。もちろん最終的な成果物としての論文は英語で執筆していこうと考えているが、それまでの力を蓄える時期においては日本語の文献をとにかく読み込んでいくことをしていきたい。今回注文した古書は一生ものであり、今後の唯識学研究の大きな支えになり続けるだろう。本当にいい買い物をさせていただいたという気持ちで一杯であり、3つの古書店には本当に感謝したい。それでは今から今日のゼミナールのクラスの振り返りの音声ファイルを作成し、気分転換がてら近所のスーパーに散歩を兼ねて行ってこようと思う。フローニンゲン:2024/4/6(土)15:21

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