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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12430-12435:2024年4月3日(水)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指した「サイケデリック唯識ラジオ」の配信をしています。

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タイトル一覧

12430. 今朝方の夢

12431. 今朝方の夢の続き

12432. 人類共通の心の問題の解決に貢献する唯識学

12433. 今朝方の夢のさらなる続き

12434. 眼前に広がる色即是色・空即是色の世界/仏教における時間感覚

12435. 「うなずかれる真理」と触れる瞬間

12430. 今朝方の夢

時刻は午前4時半を迎えた。早朝に起床した際には雨が降っていたが、今は雨は止んで静かである。辺りはまだ真っ暗だが、もう2時間ぐらいしたら明るくなってくるだろう。最近はサマータイムに入ったこともあり、就寝の際にはまだ薄明るいような状態である。真っ暗になる前に寝て、真っ暗な世界に目覚めるという時期がここから長きにわたって続きそうである。

今朝方はまず1つ印象的な夢を見ていたことを覚えている。哲学者の西田幾多郎先生の助手として、一緒に講義をしている場面があった。夢の中の西田先生はまだとてもお若く、大変活発な印象を与えた。講義を始める前に、大学の構内の端にある先生の研究室を訪れた。そこは和風の作りをなしている平屋で、先生はそこで日夜研究をしていた。研究室に呼ばれたはいいものの、先生は早速私に問いを与えた。私にというよりも、研究室とつながっている建物の教室に私を含めて多くの学生を集め、そこで1問問いを出したのである。その問いに対する自分なりの答えを見つけた人から順番に研究室にいる先生を訪れるようにと指示を出された。問題を出された即座に私は自分なりの答えを見つけることができたので即座に挙手をした。すると先生は手招きをするような仕草をして研究室の方に来るように合図をした。すると、私よりも先に2人の生徒が先生の所を訪れていた。驚いたことに、そこには小中学校時代の2人の友人(FF & ST)がいたのである。1人は双子の兄弟の兄の友人で、もう1人は野球部に所属している友人だった。2人がどのような回答をしているのかは不明だったが、先生は2人の回答に満足そうな笑みを浮かべ、2人をまた教室に返した。そこからはいよいよ自分の回答を発表する番となった。すると、先生は突然雑談を始めた。自分の家も学校から歩いてすぐのところだったが、先生も学校の近辺に住んでいるらしく、スマホの地図で家の位置を教えてくれた。スマホの地図には渋滞情報が掲載されており、ちょうど先生が帰る頃には道が混むらしかった。近いとは言え車で通学しているらしく、なので渋滞情報は非常に重要とのことだった。そこから先生と問いへの回答についての話になるかと思いきや、今から行う講義の話となり、基本的に進行は私に全て任せるとおっしゃった。

気がつけば、先生と私は教室のある建物の外にいて、そこは広場のようになっていた。今から行う授業は屋外のそこで行うことになった。30人ぐらいの学生がやって来て、早速授業を始めることにした。学生たちにはまず、先生が出題した第1問の「存在の多重構造」について自分なりの答えを発表してもらうことになった。その時に、その問題を頭だけで考えていては面白くなかったので、学生たちにはいくつかのグループに分かれてもらい、大縄跳びを跳びながら問題を考えてもらうことにした。これは学生にとてもウケが良く、学生たちは体を動かしながら哲学的な問いと向き合っていた。広場は本当に結構広いスペースがあったので、私は両手を拡声器がわりにして大きな声を出して学生に指示を出したり、問題のヒントを出していった。第1問への回答が出揃ったところで少しこちらから解説を加え、次の問題に移ることにした。第2問が何だったかは忘れてしまったので西田先生に聞きに行くと、先生は少しムッとしたような表情を浮かべた。それは私が問題を忘れてしまったからかもしれないなと反省し、先生はボソリと「松葉杖の理論についてですよ」と述べた。私の脳内に「松葉杖の理論」という聞き慣れない言葉が浮かんですぐに消えた。「先生、それはどのような理論ですか?」と尋ねると、先生はまたさらにムッとされたような表情を浮かべ、「ご存知ないのですか。スマホか何かで調べればすぐに出てくると思いますがね」とおっしゃられたので、自分ですぐに調べて学生に問題を出題しようと思った。スマホで調べるよりもパソコンの方が調べやすいと思ったので、すぐさまパソコンを開こうとしてスリープ状態から解除しようとしたところ、焦ってパスワードの打ち込みがうまくいかず、それを何度か繰り返している自分がいた。それを横で見ていた小中学校時代のある友人(SH)が焦る必要はないよと優しく声を掛けてくれたので、何か救われたような気持ちになった。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/4/3(水)05:01

12431. 今朝方の夢の続き

時刻は午前5時を迎えた。今、暖房がせっせと稼働してくれ、部屋を温めてくれている。今の気温は9度とそれほど寒くはないが、確かに暖房が入ってもおかしくはない気温でもある。今日は朝から夜まで珍しく一日中雨が降るとのことである。フローニンゲンは雨が多いが、それは断続的に降ったり、1日のどこかに少しだけ降る場合が多く、今日のようにずっと雨が降ることは本当に珍しい。

先ほど西田幾多郎先生が登場する印象的な夢を見ていたが、その他にもまだ夢を見ていたので、それらについても振り返っておきたい。それにしても、西田先生が夢に出てくるのは初めてのことであったし、先生の若かりし頃の姿が夢の中にあったことにはどのような意味があったのだろうかと思わず考えてしまう。西田先生が大乗仏教瑜伽行唯識学についてどれだけ関心があったかは不明であるが、少なくとも禅仏教への関心が強くおありだったことは存じ上げているし、唯識学の発想に繋がるような思想を西田先生がお持ちであったことが何か夢の中で形になって現れたのかもしれない。

夢の中で私は、見慣れない外国の港町にいた。そこで小中高時代の友人(TK)と一緒に停泊中の大型客船の中を散策していた。正しく述べれば、停泊していたというよりもかつて使われていた大型客船の残骸の中を散策していたと述べた方がいいだろう。いずれにせよ私たちは誰もいない大型客船の残骸の中を色々と散策していた。すると船の上の方から声が聞こえて来た。何かと思って友人と一緒に船のデッキに上がっていくと、小中高時代の2人の女性友達が助けを求めて来たのである。何やら彼女たちも船を散策していたのだが、出口がどこか分からず困っているとのことだった。正直なところ、実は友人と私も出口がどこだか分からずに困っていたのである。しかしながら、先ほど散策していた船の下の方に出口につながる部屋があるのではないかと思っていたので、そのことを彼女たちに伝えた。とは言えそれは確証を持てるようなことではなく、またその部屋に何が潜んでいるか分からなかったので、まずは友人と2人でその部屋に行ってみると彼女たちに伝えた。すると彼女たちはその場で静かに待っておくと述べてくれ、私たちの身の安全を祈っていると述べて送り出してくれた。いざデッキのあるところからどんどんと下に向かっていくと、暗さが増していき、不気味な雰囲気がより一層濃くなった。例の部屋の前に到着した時、その部屋に何かがいることが直感的にわかった。ゾンビのような生命体がいるような気がしたのである。恐る恐る部屋の扉を開けると、とても汚い部屋の光景が目に飛び込んできた。衣類や家具を含めた物が散乱し、腐敗した食べ物の食べ残しなども至る所に散らばっていた。そんな光景を見た瞬間に引き返そうかと思ったところ、やはり部屋の奥に何か不気味な生命体が数体いることが感じられた。それでいよいよ引き返す気になり、一旦部屋の扉を閉めた。しかしこの部屋を抜けていかなければ出口には辿り着けないと思ったので、友人の彼と作戦を立てることにした。不気味な生命体に気づかれずに部屋に入っていくか、あえて気づかせる形でそれでもうまく部屋の奥に行くかを相談した。私たちには宙に浮ける能力があったので、二手に分かれて天井の壁に張り付きながら部屋の奥に向かっていこうということになった。いざ作戦が明確になったところで部屋に飛び込む覚悟を決め、部屋に入って行った。すると、ゾンビのような生命体は私たちに気づいたが、天井に張り付きながら進んでいる私たちには手も足も出ないようで、なす術なく傍観しているだけだった。それは私たちにとって幸いで、何とか無事に部屋の奥にある出口につながる扉を開けることができた。するとそこからもまだ通路や部屋が続いていたが、先ほどまであった不気味な雰囲気は一掃されており、心が幾分穏やかになった。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/4/3(水)05:18

12432. 人類共通の心の問題の解決に貢献する唯識学 

     

ホモ・サピエンスが誕生したのは40万年前から25万年前ぐらいだと言われる。人類が抱える問題の表面的な姿は変わっても、問題を生み出しているものは何一つ変わらない。それは心である。人類は心を獲得してからというもの、時代ごとに異なる内容の問題を抱えながらも、問題を分析してみると、種類としてはほぼいくつかの類型に分類され、問題を生み出している構造は全く変わらない。まさにそれは心が生み出しているものなのだ。唯識学を学びながら、何十万年も前に誕生した人類たちが同種の心の問題に悩まされ、苦しめられていたのだと思わずにはいられない。人類の心は誕生から今にかけて根本的な部分では何も変わっていないのだ。意識の発達段階などということが用いられることがあるが、そうした構造でさえもが心が生み出す構築物なのであり、深層部分にはさらに深い心の構造があるのだ。発達心理学においては唯識学でいうところの末那識や阿頼耶識の特性やそれらが生み出す根本的な問題への処方箋はほぼ明示されていない。フロイトやユングの発達理論でさえ唯識学の観点からすれば心の分析は甘いのである。人類が誕生以前から共通にして抱える心の問題を詳細に分析し、その問題への処方箋を提示する唯識学は今なお現代的な意義を失っていない。むしろ現代人の心の劣化ぶりは世界的に見ても顕著であり、それは今なお続く世界各地の戦争や環境問題、さらには利己心剥き出しの政治闘争などを見ていても明らかである。結局人類は誕生以前から分別心によって生み出される利己心に悩まされ、各種の煩悩に執着する形で悩み苦しみ続けて来たのである。人類が共通にして抱える心の問題の解決に向けて唯識学が果たす役割は極めて大きい。自分が関与するべき事柄はおそらくそれなのだろう。

そのようなことを考えていると、時刻は午前6時を迎え、小鳥たちが鳴き声を上げ始めた。今日もまた唯識学の研究に没頭していこう。まだ全ての書籍の三読目を終えていないが、はやる気持ちを抑えることができず、唯識用語辞典を最初から読み返すことを再び始めた。およそ15,000ほど掲載されているこの辞典の用語を楽しみながら慣れ親しんでいき、自由自在にそれらの用語を実践で駆使できるようになっていきたいと思う。辞典に掲載されている用語はできるだけ自分の言葉で説明できるようにするようにし、実際に口に出して自分の言葉で説明してみるということをやってみよう。これはプリンストン大学から出版された英語の仏教辞典に対しても今後行いたいことだ。こうして楽しみながら毎日地道に唯識学と仏教全般の用語体系に慣れ親しむことを通じて、少しずつ上記の人類共通の心の問題の解決に向けた取り組みを進めていきたいと思う。その第一歩は言うまでもなく、自分の心の問題を徹底的に見つめ、それを解決していくことである。それができなければ他者の心の問題の解決などできるはずはないのだから。フローニンゲン:2024/4/3(水)06:07

12433. 今朝方の夢のさらなる続き

小鳥たちの鳴き声が澄み渡る波のように朝の世界に広がっている。時刻は午前6時半を迎え、ようやく辺りが少しずつ明るくなって来た。ダークブルーの朝空が完全に明るくなるまでもうしばらく時間がかかるだろうか。

つい今し方淹れたモーニングコーヒーをすすっていると、今朝方の夢の続きを思い出した。その他に覚えていることとしては、大学時代のサークルのある先輩と話をしていた場面があった。その先輩は学業優秀で、在学中には1年間ほどドイツに留学をしていた。大学卒業後は名門の商社に入社し、数年働いたのちに退職して医学部に入り直して医者になったという変わった経歴を持つ。現在自分は欧州で生活をしていることもあり、その先輩と欧州各国の文化の話をしていた。お互いに卒業した大学の特徴からすると、そこでの雑談は政治経済の話になっても良かったと思うのだが、どういうわけか私たちは文化に注目して欧州各国の比較をしていた。お互いに欧州各国の隅々を旅行していたこともあり、それぞれの国に対する文化に対しては一家言あり、それらを交換し合うことがとても楽しかった。そのような場面があった。

さらに覚えている夢としては、東京の都心部にある高級ホテルに宿泊している場面である。そこは五つ星の高級ホテルで、数十階のフロアを持つ高層ホテルでもあった。エレベーターホールでエレベーターを待っていると、小柄な外国人女性に声を掛けられた。欧州形の顔立ちの良い若い女性が私の横に立っていて、その女性と私はどうやら知り合いのようだった。それぞれ異なるフロアに宿泊していたが、部屋のグレードは同じで、部屋からの眺めを含め、サービスの充実さぶりについて話をしていた。彼女はどうやら昨日、ルームサービスで美味しい料理をたくさん注文してしまったらしく、食べ過ぎで少し苦しいとのことだった。こだわりの食材と腕の立つシェフが作る料理ゆえに美味しいのはわかるが、食事は程々にした方がいいと笑いながら伝えると、彼女はニコリと笑ってうなづいていた。一旦部屋に戻り、少し休憩してから私たちは研修を受けるために研修ルームに向かう必要があった。そこでまた会おうということを述べて別れた。そのような夢を見ていた。

今日もまたこうしてたくさんの記憶に残る夢を見たわけだが、唯識学の観点を用いて夢を心の成長に繋げていく道を見出したいと思う。夢の中の自分の心の様子を唯識学の観点で分析してみることや、その観察をもとに煩悩の滅却に向けてさらに観察の光を照射するということを行ってみたいと思う。それ以外にもまだまだ工夫ができるだろう。そうした創意工夫は、唯識学をここから学べば学ぶだけ自ずから生み出されてくるのではないかと思う。それに期待して今日の探究も楽しんで行っていきたい。フローニンゲン:2024/4/3(水)06:41

12434. 眼前に広がる色即是色・空即是色の世界/仏教における時間感覚    

 

雨脚が弱くなり、小鳥たちの鳴き声が聞こえていた時間帯から、今はまた小鳥たちが鳴くことのない静寂な朝の世界が広がっている。小鳥たちの鳴き声が響き渡る世界は有の世界で、彼らの鳴き声が響き渡らない世界は無の世界だと言えるだろうか。前者は色の世界で、後者は空の世界である。有の世界には無の世界が内包されており、無の世界には有の世界が内包されている。色即是色・空即是色の世界が目の前に広がっている。

早朝の唯識学の研究が一区切りついたので、今日の午後に行われる「サイケデリック唯識ラジオ」の収録に向けた準備をしておきたい。課題図書の該当箇所をもう一度読み返しておくことに加え、前回までの箇所もざっとおさらいし、次回扱う箇所も展望を開くために眺めておく。その準備が終わったら再び三読目の書籍の続きの読解を継続させていく。

仏教における現在・過去・未来の捉え方は注目に値する。全ての存在としての諸法は未来に起点があり、未来から現在に向かって諸法が生まれる。一方、行為としての業は過去に起点があり、過去から現在に向かって業によってもたらされる現行が生じる。そして存在は絶えず現在という今に立脚している。今という現在に過去と未来の双方が重層的に折り畳まれているのが仏教の時間感覚の本質と言えるだろうか。世間で言われる仏教の円環的な時間感覚とは違ったものを自分は感じる。円環的な時間感覚ももちろん仏教に内包されているが、それよりも本質的な特徴は上述のような諸法と業に関する入れ子構造的な時間感覚だと思われる。重要なことは、そうした時間感覚を把握した上で煩悩障と所知障を断じていくことである。前者は我に対する囚われ、後者は法(存在)に対する囚われである。我も法も空であるという二空を悟ること。そしてその悟りの感覚を一時的なものに留めるのではなく、それがいついかなる時でも証せられるように修行を積み重ねていくこと。それが何よりも大事だ。悟りという状態特性を段階特性に定着させていくのである。そのためには真理を捉えた覚者の言葉にできるだけ頻度高く触れ続けることと、観法を絶えず行じていくことが重要になる。迷える凡夫の言葉にどれだけ触れていても迷いが深まるばかりであるから、そうした言葉に触れることから離れていくことを心がける。重要なことは、絶えず覚者の言葉に触れながら、自らの悟りを開き、体現していく過程の中で、凡夫の言葉には触れないが彼らの声には耳を傾けて智慧と慈悲を授けることである。そんな生き方をこれから徹底させていきたいと思う。フローニンゲン:2024/4/3(水)09:03

12435. 「うなずかれる真理」と触れる瞬間         

時刻は午後3時を間も無く迎えようとしている。天気予報とは異なり、思った以上に雨が降っていない。もっと激しく雨が降るような予想をしていたが、今は霧雨程度の雨しか降っていない。そのおかげで、小鳥たちが美しい鳴き声を上げてくれている。天気という増力縁があって小鳥の鳴き声が生まれ、小鳥の鳴き声という増力縁があって今の安らかな心がもたらされている。そして忘れてはいけないのは、こうしたことに気づける種子を過去に育んできた自分の存在である。その我もまた仮有合した存在として光を当て、それを実体化させない形で過去の自己が積んだ業から学びを得てまた善行に繋げていきたいと思う。

先ほど、第60回の「サイケデリック唯識ラジオ」を終えた。今日は課題図書の阿頼耶識を扱った箇所をもとに早田航さんと対話をした。このラジオの場も、それから毎週土曜のゼミの場も、自分にとって本当に有り難い場になっていることを実感する。そこでは智慧と慈悲が毎回必ず小さいながらも育まれているような実感があるのだ。智慧と慈悲を育む場としての対話がそこでなさていることに深い感謝の念を持たずにはいられない。この気持ちを大切にして、少しでも智慧と慈悲の輪を広げていく形で自他の心の成長と苦しみや悩みからの解放を実現できたらと思う。

今日のラジオでは阿頼耶識を取り上げたのだが、やはり航さんとの対話でなければ紐解かれなかったであろう真実・真理が今日もまた開示された。自分で紹介しておきながら、今日のラジオでも「うなずかれる真理」と触れる瞬間が何度もあった。それは言葉で考えて得られるような真理ではなく、自然とうなずかれる形でやって来る真理なのだ。それは得ようと思って得るようなものではなく、向こうからやって来るような真理なのだ。また、掴むものでもなく、触れる形で自分の内側にスッと入ってくるような真理なのだ。そんな真理との出会いが随所にあった回であった。どれほど恵まれた時間であっただろうか。どれほど有意義で豊かな時間であっただろうか。こうした有意義で豊かな時間を少しでも多くの人に感じて欲しいという願いが自ずから発心される。願いの発心。これもまた菩薩道を歩む上において本当に大事なものかと思う。日々この誓願を忘れたくはない。初心を忘れずに、智慧と慈悲を通じた衆生救済と心の成長の実現という誓願に絶えず立ち返って毎日を生きていこう。そんなことを思わずにはいられない夕刻の時間の中にいる。フローニンゲン:2024/4/3(水)15:09

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