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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12422-12429:2024年4月2日(火)

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タイトル一覧

12422. 今朝方の夢

12423. 今朝方の夢の続き

12424. 探究即実践/唯識学に親しむ方法

12425. 無数の増上縁に支えられて

12426. 真理の高峰に到達するための堅牢な用語体系の習得に向けて

12427. 空観の病理とそこからの脱却

12428. 信仰の真義

12429. 絶え間なる観法の実践/妄想と真理

12422. 今朝方の夢

時刻は午前4時半を迎えた。復活祭が終わり、サマータイムに入ってから3日目の朝となる。サマータイムによって1時間ほど時間の調整があり、体内時計もその調整をようやく終えたようである。午後9時前に就寝するような生活リズムなので、昨日は真っ暗になる前にベッドの上にいた。ここからさらに日が伸びてくるようになると、午後10時を過ぎても明るい日が出てくることになると思うので、明るいうちに寝るようになる時期もあるだろう。日が伸びても変わらない生活リズムを心掛けたいと思う。

今朝方は夢の中で、小中学校時代の女性友達と見知らぬイタリア人の中年男性と3人で日本の地方都市を歩いていた場面があった。そこは確かに日本のどこかの町だという感覚があったが、同時に外国の雰囲気を発する一角もあり、欧州のどこかの町が融合しているかのような気さえした。いずれにせよその町は人口の割に落ち着いていて、好印象を自分に与えていた。私たち3人はたわいもない会話を楽しみながら町を散策していた。話の中で、友人の彼女の英語力の話となった。彼女が意外なほどに英語が喋れることに最初驚かされ、イタリア人の男性が日本語が極めて流暢であることにも驚かされた。イタリア人の彼が日本語が話せることもあり、最初2人は日本語で話をしていたようだが、私が2人に追いつく形で後ろからやってきて合流すると、3人の会話は英語になった。というよりも、私が彼女に英語で話しかけたのである。咄嗟に英語で話しかけてみてどれだけ迅速に対応できるかを確認してみたかったという意図もあって英語で話しかけてみたところ、一瞬空白があったが、速やかに返答があった。最初空白があったのは、日本人があまり知らないであろうイディオムをわざと使ったからであり、そのイディオムを別の表現に言い換えたところ、彼女は私が言わんとしていることを理解したらしく、英語で返答してくれた。そんなやり取りをした後に、イタリア人の彼が英語で話に入ってきた。どうやら彼は日本のどこかの大学で教授をしているらしかった。専門は考古学と文学と2つの領域にまたがるようだった。その組み合わせも興味深かったが、おそらく日本文学を専門としているがゆえに他の外国人が知らないような難しい日本語を知っているのだろうと推測された。そこからも会話を楽しみながら、幾分欧州風の町並みが続く町を歩いていた。そのような場面があった。

それ以外に覚えているのは、見知らぬロシア人の女性と話をしている場面である。彼女はとても背が高く、自分よりもひとまわりぐらい身長が高かった。年齢は私よりも少し若く、30歳ぐらいだったように思う。彼女と話をしていたのは、広く薄暗い体育館だった。そこは災害の避難所になっていて、避難所の中でロシア人の彼女と立ち話をしていた。話を通じてすぐに彼女とは打ち解け、親密な関係になりそうな予感があった。そのような場面があったのを覚えている。フローニンゲン:2024/4/2(火)04:57

12423. 今朝方の夢の続き

4月を迎えて2日目となるが、早朝の今もまだ暖房が自動で入っている。早朝のみならず日中もせっせと暖房が働くような状態が続いていて、それはきっと今月一杯は続くだろうと思われる。ヘタをすると、5月初旬もまだ朝には暖房が入る可能性がある。そんな気候はフローニンゲンの特徴の1つである。今週は1日のどこかで小雨が降る日が続くようであるが、そのおかげか気温は比較的高い印象である。今週の土曜日にはなんと20度を超えるようで、この季節にしてはそれはとても珍しい。着実に季節が進行しているのを感じながら、自分もまた自らの取り組みを前に着実に進めていきたいと思う。今日もまた唯識学の研究に没頭する形で、それがいつか自他社会共に実りをもたらしてくれることを願いながら、成熟に向けた種蒔きをせっせとしていこうと思う。

先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、それ以外にもう1つ覚えている場面がある。夢の中で私は、大学時代のサークルの先輩2人と話をしていた。その2人は1学年上の先輩で、授業を一緒に受講するなどサークルの場以外でも親しくさせてもらっていた。そんな2人の先輩と久しぶりに会い、まずは大学卒業後の仕事の話となった。2人とも日本の名門企業に勤めていて、それぞれメーカーと金融と分野の違う企業に勤めていた。メーカーに勤めていた先輩はこの間まで4年間ほどニューヨークに駐在していて、投資銀行に勤めている先輩も今度海外オフィスに駐在になるようだった。私たちが卒業した大学の卒業生は軒並み名門企業に就職し、海外駐在は当たり前のような感じだったので特に驚くこともなかったが、実際に身近な先輩が海外に駐在し、その体験に関する話を聞くのは面白いものだった。自分もかつてニューヨークの郊外に住んでいたことがあるので、ニューヨークは親しみのある町だったが、先輩のようにマンハッタンで暮らし、マンハッタンで仕事をするというのは自分にはない体験だったので、色々と興味深く話を聞くことができた。そこから私たちは仕事の内容だけではなく、給料水準に関する話もし、先輩たちは確かに所得が高かったが、それらは全て会社からの給料として支払われているものであり、自分のように知財や投資を通じた不労所得で生活を成り立たせているというのはむしろ先輩たちからすると驚きの対象であり、同時に羨ましくも思うことのようだった。確かに自分はもう経済的な面で心配をすることは一生ないだろうと考えていて、それが自由な活動を大きく下支えしてくれていることに改めて深く感謝した。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/4/2(火)05:12

12424. 探究即実践/唯識学に親しむ方法

時刻は間も無く午前6時を迎えようとしているが、辺りはまだ暗い。サマータイムに入って1時間時間が調整されたことがその原因だろう。今日は不思議と小鳥たちの鳴き声があまり聞こえてこない、と思っていた矢先に1羽の小鳥が鳴き声を上げてくれた。小鳥たちとまるで以心伝心して繋がっているかのようである。今朝方は特に雨が降っているわけでもなく、風が強いわけでもないので、ここから小鳥たちがやって来ていつものように鳴き声を上げてくれるだろう。

今日もまた唯識学の研究に打ち込んでいくが、いつものように『唯識三十頌』の漢訳と英訳の読経行から始めていく。それは探究活動の一環でもあるし、同時に実践活動でもある。自分の中では探究と実践は切り分けられるような二元的なものではなく、あくまでもそれは一なるものであり、非二元のものである。探究は即実践であり、実践は即探究なのである。書物を通じた探究活動を実践活動だと思えないというのは非常に残念なことであり、おそらくこれまでの悪しき教育習慣によってそのように思う思考回路が形成されてしまったのだろう。その人たちにはそのように思ってしまう思考が阿頼耶識に薫習されてしまったのである。しかしながらそれもまた変えていくことができる。今この瞬間から探究と実践を切り分けることのできない不可分のものだという発想でそれに取り組めばいいのである。その取り組みを続けていけば、1つ1つの行動が阿頼耶識に種子として薫習されていき、どこかのタイミングで必ず探究と実践が一なるものとして行えるようになってくるだろう。少なくとも自分もまた日本の教育の犠牲者であったところから脱却し、探究と実践を非二元なるものとして取り組むことがいつの間にかできるようになっていた。そうしたことからもそれは不可能なことでは決してない。

『唯識三十頌』の音読を終えたら、再読を終えた書籍の三読目の続きに取り掛かる。もう7冊ほど三読目が終わっていない書籍があり、今日はそのうちの2冊から3冊ほどの三読目を終えることができたらと思う。新品の書籍としてオランダに発注してもらえる唯識関係の和書はほぼ全て購入しており、それらの三読がひと段落したら、書物の難易度別に四読目を開始していきたいと思う。まずは基礎から始め、その次に標準に移行し、最後に応用へと映る。そこから五読目を開始するか、そこで一旦洋書に移るかはまたその時に判断したいが、直感的に五読目に入るのが良いように思う。いずれにせよ、四読目に入る前に一度、唯識用語辞典を最初から最後までまた読み返すということをして語彙の強化を図っておきたい。用語辞典についても少なくとも三読目を早い段階で終わらせておきたいと思う。とにかく唯識学では術語が多いので、それをしっかり習得していくように心掛けていく。それさえできれば唯識学は凡夫目線に立った仏教思想ゆえに理解はさほど難しくない。要は英語の読解と同じく、語彙力を強化していけばさほど難しさを感じずに文献読解と理解が可能なのである。フローニンゲン:2024/4/2(火)06:04

12425. 無数の増上縁に支えられて

小鳥たちの合唱が無事に始まり、彼らの清澄かつ美しい鳴き声に浸りながら、先ほど淹れたモーニングコーヒーに一口つけた。まだ寒さが残る時期なので、深煎りの豆を先日新たに購入し、それをコーヒーミルで挽いて淹れたコーヒーを飲んでいる。小鳥たちの存在は自分の活動を支える有力増上縁であり、こうして朝の活動に弾みを付けてくれるコーヒーもまた有力増上縁なのだと思う。そこからさらに縁起のネットワークを遡っていけば、今鳴き声を届けてくれている小鳥たちが休んでいる木々は間接的に自分と関わっていることから無力増上縁であり、彼らの両親の存在もまた無力増上縁だと言えるだろうか。今し方一口つけたコーヒーについて言えば、コーヒー豆を購入したお店や生産者は無力増上縁として自分に関係している。そのような形でどんどんと縁起の関係性の網の目を辿っていくと、今こうして日本語で思考し、日本語で文章を執筆していることにまつわる縁起に対しても感謝の念が溢れてきた。今の自分は日本語で文章を書くということがなければ存在し得なかった。少なくともこの9年間の生活の中で、毎日欠かさず内省日記を書き続けてきたことが今の自分を作り上げている。この9年間1日なりとも何があっても欠かさずに日記を書き続けたことが阿頼耶識に薫習され、それが果として現行し、今の自分の全てを形成している。そう考えてみたときに、日本語を生み出した先人への感謝と、文章を書くという技術を生み出した先人に対して感謝せずにはいられない。日本語という豊かな言語体系を生み出すことに関与していた様々な人たち。そして日本語を伝承し続けてきた全ての人たちへの感謝。書くという人類最大の技術の1つを生み出した先人たち。彼らの存在は無力増上縁として今の自分を支えており、日本語と書くという技術は有力増上縁として自分を支えている。このような形で、自分という存在は様々な縁起の関係性の上に成立している存在だということが見えている。日本語が欠けても今の自分はないし、書くという技術が欠けても今の自分はないのである。

それは唯識学についても等しく当てはまる。これほどまでに自分の心を動かし、今後一生これだけを探究・実践していても全く問題ないと思わせてくれるようなものに出会えたことに本当に感謝をしたい。そのような思いを抱かせる唯識学もまた自分ではない先人たちが自らの命を使って生み出し、そして伝承してくれたものなのである。唯識学もまた様々な人たちの存在と努力を通じて生み出された縁起の産物なのである。そのような産物を贈り物として受け取らせてもらいながら、ここからの自分はより一層感謝の念を持って唯識学の探究と実践にあたるだろう。そのような気持ちが種々の関係性のネットワークからふと立ち現れた。フローニンゲン:2024/4/2(火)06:38

12426. 真理の高峰に到達するための堅牢な用語体系の習得に向けて    

   

時刻は午前7時を迎え、辺りはすっかりと明るくなった。今日はうっすらとした雲が空覆っているため、朝日は拝めそうにないが、雲が薄いこともあってうっすらとした光ならば地上に届いている。小鳥たちの鳴き声も引き続き辺りに響き渡っており、ここから午前中の唯識学研究に本格的に取り組んでいく後押しをしてくれるだろう。

その日の唯識学を始めるにあたってのウォーミングアップのような形で行っている『唯識三十頌』の読経行を終えた時に、まずは徹底して日本語で唯識学を学んでいき、力を蓄えていくことを大切にしようと思った。それにとにかくじっくり時間を充てて、期が熟したら英語に切り替えていくことが賢明である。和書の唯識関係の書籍を入手できるものは全て読むことは最低限行うことであり、しかもそれをただ読むだけではなく、アウトプットを伴った形で何度も読み込んでいくことをしたい。また、唯識に関する用語は隅から隅まで体得できるように、唯識用語辞典はボロボロになるまで読み込んでいこう。まずはそれに注力をしてもいいぐらいである。とりあえず手持ちの書籍の三読目が終わったら、四読目に入る前に唯識用語辞典を隅から隅まで読むことを改めて行う。それは自分にとっての単語帳のようなものであり、昨年GREを久しぶりに受験した時に専用の単語帳を何十周としたように、唯識用語辞典も数回ではなく、短い期間の間に何十周も回すことを心掛ける。記憶のメカニズムに則りながら、短い時間で何度も用語に触れることでその用語は自然と脳に定着する。決して無理をせず、自然に覚えているという状態が最も理想的であり、それを実現するためには短い期間の中で何度も用語に触れることが重要なのだ。ひとたび堅牢な用語体系が自分の内側に構築されたら、もうそこからはその用語体系を駆使した実践が縦横無尽に行える。そのような学び方は成人発達理論やインテグラル理論を学習する際には意識していないことであったが、昨年久し振りに英語の試験を受けたことによって、用語体系を自分の内側に構築するコツを思い出させてもらった。幸いにも唯識学には用語辞典という単語帳のようなものがあるので、それを駆使しない手はない。手元には日本語の唯識用語辞典に加えて、仏教全般の英語の用語辞典がある。唯識学の探究がある程度のところまで進んだら、仏教全般に対する理解を深めるために、プリンストン大学から出版されたその用語辞典もGREの単語帳を暗記したのと同じやり方で何度も読み込んでいきたいと思う。言葉を通じて真理に触れ、言葉を通じて真理を体得し、最終的に言葉を離れていく。そのためにはまずは言葉をフル活用してそれを跳躍台にしていく必要がある。こと唯識学の探究と実践に関して言えば、とにかく用語体系を構築することが跳躍台の構築を意味し、その跳躍台が堅牢かつ高く聳え立つものであればあるほどに、真理の高峰に到達できる。それがもう明確であるがゆえに、用語を大切にし、用語習得に情熱を傾けている自分が自ずから立ち現れているのだろう。フローニンゲン:2024/4/2(火)07:14

12427. 空観の病理とそこからの脱却   

天気予報とは異なって、朝日が燦然と輝き始めている。小鳥たちもどこか嬉しそうで、彼らの鳴き声も朝日を浴びた喜びが体現されている。カーテンレースから漏れる朝日が書斎にそっと差し込んでいて、それを眺めている自分の心は深く癒される。

諸存在を空を通じて破ることは簡単だが、破った空に固執することから脱却するのは容易ではない。龍樹の空思想に触れる者たちが陥る罠はそれであり、唯識思想においてはその病理的傾向を受けてあえて空を経ての有を強調したのだろう。それは素晴らしい配慮であるし、慧眼である。空の思想に触れた凡夫はいとも簡単に悪取空者に堕してしまう傾向を持っているのだから。空という思想は非常に大きな力を持つ。それを通じてまずは諸存在を実体化する罠から私たちを解放させてくれる。しかしながらその概念が持つ影は、空じるという行為そのものと空という思想へ私たちが固執してしまうことなのだ。それは言い換えると、空じるという行為と空の思想を実体化してしまっていることを意味している。空の実体化を避け、空を経ての有という真理に住することの大切さを思う。空じた後の有的真理を否定してまたそれを空じようとするのは悪取空者の行いである。

唯識学の実践とは、虚妄性に満ちた無実在を徹底的に明らかにしていくことを通じて、諸法の真理という真実在を明らかにしていくことなのだ。現象や出来事を含めた諸存在は実体のないものであり、絶えず無常なものである。しかしそれは無いわけではない。仮の存在として諸縁を通じて存在していることは確かなのだ。まずはそのことを抑え、諸縁によって存在が立ち現れるというメカニズムそのものに自覚的になること。それが求められる。そしてそのメカニズムが事実として有るという真理があるということを悟るのが円成実性なのだろう。すなわち、諸存在の仮構性に気づくという遍計所執性への気づきを経て、諸存在が諸縁によって仮に存在しているという依他起性に目覚め、依他起性という真理が存在しているということに目覚めるのが円成実性なのだろう。そのようなことを考えながら、雲間から差し込む美しい朝日を眺めていた。フローニンゲン:2024/4/2(火)09:13

12428. 信仰の真義

キリスト教は信仰の宗教と呼ばれるのに対して、仏教は智慧の宗教と呼ばれることがある。そんな仏教においても信仰が無いわけではない。むしろ信仰は非常に重要なものとして扱われる。何に対する信仰かというとそれは仏陀の教えに対する信仰ではなく、真理に対する信仰である。また信仰とはその対象に固執することでも酔うことでもなく、盲信することでもない。真理に対する信仰はそうしたことと全く対極的にあるものだ。では真理に対する信仰にはどのような特徴があるのだろうか。それは端的には自己に対する深い目覚めがある。自分という存在に深く目覚めること。それもまた言い方を変えれば、自己と世界の夢から覚めることが仏教における信仰の真義なのではないかと思う。こうした事柄への自覚は、宗教としての仏教を外からお勉強しているだけでは決してもたらされないのだ。まさに真理に至るために生き死にをかけて仏道修行に励むという仏教と成り切ることをしなければ、決してそのような自覚はもたらされない。もうお勉強はいいのである。それは知識肥満を引き起こし、虚妄性を増幅させるだけなのだ。世の中にお勉強を必死にしている人がいかに多いことか。夢の世界の中で夢の世界に映る影像(ようぞう)について自らの生命時間を活用して必死にお勉強している人たちがいかに多いことか。自分はもうそのようなお勉強はするつもりはないし、そうしたお勉強をしている人たちの覚醒の手助けをしたいと思う。結局そうしたお勉強者は影像探求に精を出し、それを通じて迷い、悩み、苦しんでいるのだから。そんな人たちを見過ごすわけにはいかない。唯識学の研鑽に励む前の自分はまさにそんなお勉強者の1人だったのである。観心覚夢の支援をすること。それが自分に課せられた使命なのであり、ライフワークなのだ。それを光としての智慧と温もりとしての慈悲を通じて可能な限り実現していきたい。そんな気持ちで満たされ、常に自分は唯識学の探究の初心に立ち返っている。それでいいのだ。それを通じて一歩一歩の歩みを前に進めていく。反復的立ち返りを通じてしか人は前に進めないのであり、それを通じてしか自己を深めることはできないのだ。深められる自己を手放しながら、それを通じて自己を深めていくという自己解放的自己深化を日々実現させていこう。フローニンゲン:2024/4/2(火)09:29

12429. 絶え間なる観法の実践/妄想と真理

時刻は午後4時半を迎えた。今、夕方の穏やかな夕日が地上に優しく降り注いでいる。昨日は復活祭の翌日の月曜日ということもあって、ジムが閉まるのが早く、自宅でのトレーニングと外をランニングすることにした。その翌日の今日はアクティブレストの概念を取り入れる形で、先ほど散歩がてら買い物に出かけていた。オーガニック製品専門店とオーガニック食品専門店の2つを梯子して散歩を楽しんだ。唯識学を学び始めてからというもの、自宅での内観実践が深まりを見せているだけではなく、外に出かけたときの観察行もまた深まりを見せている。自分が8つの識を通じてヴァーチャルリアリティの世界の中にいるということがありありとした認識を伴って実感されるようになっている。とりわけ全六識はヴァーチャルリアリティのヘッドセットのようなもので、それらは表層意識ゆえに観察対象に上げやすい。一方、末那識と阿頼耶識は深層意識ゆえに観察対象に上げることは難しく、やはり不可知と言われる所以がそこからもわかる。不可知とは言え完全に全く知られないかというとそうではなく、ヘッドセットを通して知覚されるアウトプットから逆算すればその存在の一端を知ることができる。まさに算出されたアウトプットから帰納法的に知るという知覚方法を採用することができるのだ。個別具体的なアウトプットの観察を通じて、徐々にそれを生み出しているメカニズムとしての関数的存在に気づくことができるという具合である。大量のアウトプットデータから深層意識の傾向やパターンを掴むと表現すればよりわかりやすいだろうか。いずれにせよ今の自分は、唯識学の種々の用語を通じて自宅にいても外出していてもそのような観察行に修練している。

外出の際に横切ったノーダープラントソン公園では、犬の散歩をしている人たちやウォーキングやランニングを楽しむ人たちの姿を多数見た。また、春の訪れを感じさせるかの如く、花々が美しく咲き始めている様子も楽しむことができた。ここからさらに暖かくなってくれば、公園の雰囲気はより一層明るいものになるであろう。そのようなことを考えながら歩いていると、妄想と真理の違いについて閃くものがあった。端的に両者の違いを述べると、妄想とは気づいて消えていくものであり、真理とは気づいて現れてくるものなのだ。こうした気づきが生まれた時、それは妄想と真理に関する真理なのだということがまた悟られた。真理まで空じてしまうのは悪取空であるが、しかし同時に真理に固執してしまうのは勝義の在り方ではない。そのようなことに注意しながら、妄想に打ち勝ち、真理を見通す眼をより一層開発していこうと思う次第だ。フローニンゲン:2024/4/2(火)16:43

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