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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12436-12442:2024年4月4日(木)

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タイトル一覧

12436. 今朝方の夢

12437. 唯識学を通じた夢の振り返り

12438. 今朝方の夢の続き

12439. モーニングコーヒーを飲みながらの観法行/生への感謝と死への感謝

12440. 一念如性把握/「憑む」という在り方

12441. 成長機会としての煩悩/了別について

12442. 他者からの刺激を通じた神経可塑性の増大

12436. 今朝方の夢

時刻は午前5時を迎えた。小鳥たちはまだ鳴き声を上げておらず、辺りは真っ暗である。どうやら今日も午前中から夕方にかけて雨が降るらしい。今はまだ雨は降っていない。今日は午後にジムに行ってパーソナルトレーニングを受ける日で、出かけていく頃には小雨が降っているだろう。ただ昨日のように、雨脚はさほど強くないようなので幸いである。

起床直前に見ていた夢の場面の印象が脳裏にまだ残っている。その夢は、関西地方を舞台にしたものだった。夢の中の私は国際税務コンサルティングの仕事に従事しており、ある知人の女性が務める会社のコンサルティングをその日から担当することになった。まだプロジェクトとして正式に動き出すかは決まっておらず、契約を締結する前でもあった。その日はちょうどその会社に訪問して担当者の方達と初顔合わせをすることになっていた。こちらは小中学校時代の2人の野球部の友人とチームを組んで会社を訪問する予定だった。契約の締結前なのだが、先方からすでに今回のプロジェクトの報酬の見積もりを聞いていた。連絡役になっていた片方の知人から聞いたところ、1,100百万円が上限とのことで、知人はその金額の低さに今回のプロジェクトから手を引いた方がいいと述べていた。確かにうちの会社のクライアント規模からするとその報酬は相当に低く、仕事量に見合った金額では決してなかった。しかし私はまずは話だけでも聞いてみようと彼に持ちかけた。クライアントから話を聞いてみたら、ひょっとしたら今後のさらなるプロジェクトにつながるような何かが見つかるかもしれないと思ったのである。その点を彼に伝えると、彼は渋々ながらも納得してくれて、3人で先方のところに向かうことにした。気がつくと私たちは先方の会社の最寄り駅にいた。3人で一緒に来たはずだったが、私たちは各自バラバラにここに来たようだった。片方の友人がまだ到着しておらず、もう片方の友人が私にここまでどうやって来たのかを尋ねた。私は電車を活用してここまで来たと伝えると、彼はこの辺りには詳しかったので、私が用いた路線も確かに最短距離に近いが、もう1つ別のルートもあったことを教えてくれた。それは今後この会社に訪問する際に有益な情報だったので彼に感謝した。駅の周りは河川があり、その河川敷でもう1人の友人の到着を待つことにした。すると、部門は違うが同じ会社でお世話になっている数歳年上の男性社員の方が犬の散歩をしていたので思わず声を掛けた。私たちは今こうしてクライアント訪問をしているが、その日は土曜日で、休日を返上しての会社訪問だった。声を掛けられたその方はこちらを振り向いて、スーツ姿で私たちが土曜日に働いていることを一瞬驚いたようで、それを労ってくれるような言葉を一言述べた。するとようやくもう1人の友人が到着し、そこからは3人で先方の会社に向かった。会社に到着すると、先方も休日を返上して働いている社員が多く、今回の件では本気なのだということが伝わって来た。彼らの気持ちに応えたいという気持ちが自分の中から静かに湧き上がり始めていた。先方の重役の方から財務諸表を渡していただき、それを眺めながら、どのあたりに税務リスクがありそうかを考えていると、ミーティングの準備が整ったとのことだったので会議室に移動することになった。今回のプロジェクトは片方の友人にリーダーを務めてもらおうと思っているが、影のリーダーは自分であり、2人の友人とクライアントを背後で支えるのは自分だという明確な意識を持ちながら、今からのミーティングでもその支えをしていこうと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/4/4(木)05:38

12437. 唯識学を通じた夢の振り返り   

4月に入って数日経つが、早朝から暖房が入っており、暖房にはまだまだしばらくお世話になりそうだ。とは言え、今週末の土日は突発的に気温が上がり、その日だけは暖房がほとんど入らないのではないかと思う。日中の最高気温を見ていると、朝夕は別にして少なくとも日中には暖房が入らないだろうと予想される。その2日間を過ぎると、また気温が低くなり、完全に暖かくなるまでにはまだまだ時間がかかりそうである。自宅で半袖で過ごせるのは本当に7月に入ってからでないと無理かもしれないと、例年の気温の動向からふと思う。

今朝方の夢について先ほど振り返っていたが、夢にはまだ続きがある。夢の振り返りも唯識学を絡めたものに今後はしていきたい。ここでの振り返りは夢の内容を書き留めることを主眼にしているが、書き留めている過程の中では常に自分の脳内では唯識学を絡めた形での振り返りを意識したい。唯識学の種々の用語体系を夢の中の自分自身の心の有り様に当てていき、夢の振り返りをより心の成長に繋げていきたいと思う。唯識学においては、夢は深層意識ではなく、表層意識の第六識が見るとされているが、よくよく考えてみると、それは慧眼のように思える。一般的には深層意識の阿頼耶識が夢を見ると考えても良さそうだが、阿頼耶識そのものは何かを思ったり、考えたりするような働きはない。阿頼耶識に蓄えられている種子が夢を見させるというのは正しい理解だろうが、深層意識である阿頼耶識そのものが夢を見るわけではないのだ。夢を見るのは阿頼耶識に蓄えられた種子の影響を受けて立ち上がる第六識なのである。その識は表象作用を司っており、ものを思ったり、考えたり、様々なイマージュを脳内に立ち現わせる。夢のシンボルを立ち現す働きをしているのはやはり第六識なのだ。夢を振り返りながら行うべきは、夢の中の自分の身・口・意の振り返りである。夢の中の自分がどのようにそれら三業を行っていたのかは必ず振り返れるはずである。夢の自分が行為として行ったこと、述べたこと、思ったことを振り返っていくのである。そしてその背後にある煩悩は何にかを振り返っていくことは煩悩の滅却につながる良い実践となるだろう。さらには、煩悩だけではなく夢の中の自分が悟りにつながる善の心の働きとしてどのようなものを持っていたのかを振り返ることは、善の種子を蓄えていくことにつながる。まさに寝ても覚めても観法行を行うというのはこういうことを言うのだろう。夢の中の自分もまた観察対象であり、夢の中の自分の身・口・意もまた阿頼耶識に種子として投げ込まれていくということを忘れてはならない。覚醒状態の自己だけではなく、夢の中の自己もまた阿頼耶識に種子を薫習しているのだという明確な意識を持ちたいものである。そうすれば、夢の中の自己も少しずつ変革を見せるだろう。覚醒状態の自分を観察するだけでは不十分である。というのも、それは意識全体のうちのの氷山の一角であり、無意識の夢の中の自分こそ抑圧されているものを吐露したありのままの自分に近い存在であるからである。そうした氷山の奥にある自分を絶えず見つめていくこと。それを唯識学の観点から行っていくこと。ここからの夢日記は、表面的な形式は以前と同じでも、それを執筆している過程での自分の意識はもうまるっきり違ったものになるだろう。夢の振り返りを通じてのさらなる自己浄化と心の成長が大いに楽しみである。フローニンゲン:2024/4/4(木)05:55

12438. 今朝方の夢の続き

時刻は午前6時半を迎えた。空がようやく明るくなり始めているが、今日は雲が空を覆っているので、まだまだ辺りは暗い。そんな中で小鳥たちが鳴き声を上げている。彼らの声が朝の世界に鳴り響く時、自分の心がいつもスッと浄化されていく感じになる。今、暖房の音が止まったので、彼らの声をより一層鮮明に聞けるのが嬉しい。

少し前に夢を唯識学の観点から心の中で振り返っていこうということについて書き留めていたように思う。肝心の夢の続きについてはまだ何も書き留めていなかったので、それについて書き留めておきたい。この書き留めるプロセスの中で早速先ほどのアイデアを実践してみたいと思う。

夢の中で私はある課題に対する論文レポートを提出することを求められていた。その課題は何かというと、日中の法相宗の比較に関するものだ。法相宗は言わずもがな唯識学を基礎に据えたものであるが、日中の法相宗では教学の発展が異なる。もちろん日本の法相宗は中国の玄奘三蔵の『成湯識論』をベースに発展していったわけだが、日本という文化的土壌で揉まれる過程でユニークな発展を遂げて来たことは注目に値する。自分はそのユニークさに注目して論文レポートを執筆していた。レポートは英語ではなく日本語で執筆することになっていて、4千字から1万字の幅が許容されていた。どちらの字数であっても正直なところ一瞬で書き上げられる文字数だったので、その課題はとても楽だなと思っていた。そもそもが自分の関心のある法相宗に関することだったので、書きたいことは山ほどあり、むしろ何に焦点を当ててレポートを執筆していくのかを決める方がレポートを書くよりも時間がかかりそうだと思ったぐらいである。テーマを何にしようかと意識を集中させていたら、大学時代のゼミの友人がやって来た。彼は東工大から一橋大のゼミに参加していた友人で、そんな彼もどういうわけか法相宗に関心を示しているようだった。法相宗というよりもむしろ唯識学に関心を示していると述べた方が正確かもしれない。彼もレポートの執筆に取り組んでいたようで、彼はすでにレポートを書き上げていた。レポートの提出期限はいつかというとその日の午後だったので、時刻はもう朝だったこともあり、ここから一気にテーマを決めて一挙にレポートを書き上げていこうと思った。すると私たちがいる教室にそのコースを担当する教授である先生が入って来た。先生はにこやかに私たちに笑みを浮かべて挨拶をして来た。レポートの件はどうだねと私たちのレポートの様子を気にかけてくれるような言葉もかけてもらったのだが、私はまだレポートを完成させていなかったので、ここから集中して一気にレポートの完成に向かうことにした。すると、見る見るうちにレポートが形になっていき、あとは世親の主要な著作物のタイトルを列挙していくだけだと思った。完成間近になって一息ついたところで夢の場面が変わった。

その他にも小中高時代の女性友達と大学時代の女性友達が自分の家にやって来て、小中高時代の女性友達が私のベッドのシーツを見て、「いつも青色のシーツよね」と笑いながら述べたのを横にいた大学時代の女性友達が聞いていて、「いつも?」とクスリと笑いながら述べた場面があった。2人とは男女関係にはなかったが、いつもシーツの色が青色と言われると誤解を招くと指摘したのを覚えている。フローニンゲン:2024/4/4(木)06:50

12439. モーニングコーヒーを飲みながらの観法行/生への感謝と死への感謝       

時計の針が午前7時を迎えた頃、辺りは随分と明るくなり、早朝に引き続き小鳥たちが清澄な鳴き声を上げている。つい今し方、朝のモーニングコーヒーを淹れた。今味わっているコーヒーの豆はメキシコ産の深煎りのものである。メキシコ産のコーヒー豆は自分にとって珍しく、行きつけのコーヒー豆専門店の棚にそれがあるのを見つけた時、試してみようと思った。このトライは成功であり、とても美味である。もう1つ購入したのはこれまたこれまであまり試したことのない豆で、プエルトリコ産のものである。そちらは中煎りとなる。今の豆を使い切る頃には今よりも少し気温が高くなっているであろうから、中煎りの豆を使ったコーヒーを味わうには個人的にふさわしい気候条件のように思える。コーヒーを味わう際にも唯識学を意識し、全六識を活性化させながらそれを味わうことに加えて、なぜその豆を選んだのかを阿頼耶識に薫習された種子の観点から阿頼耶識縁起を振り返っていく観法行を行いたいと思う。この行はコーヒーに対してのみならず、余裕があれば日常のありとあらゆる対象に対して行うべきである。全ては仏に向かう精進である。

昨日、生と死に関して次のようなことを考えていた。生と死は仏教において苦しみの原因と言われるものであり、それらについてどのような意味付けをし、同時に自らの意味付けに囚われずに日々を生きていくかは自分にとって大変重要に思えた。何を考えていたかというと、この世に生まれたことを有り難く思うのであれば、死ぬこともまた有り難く思う必要があるのではないだろうかということである。生に感謝するのであれば、死へも感謝する必要があるのではないかと考える理由は、死は生を縁とする形で生まれるものだからである。死への苦しみは、死というものを生と切り離し、生の縁を蔑ろにする形で死を単独で実体化してしまうからなのではないだろうか。まさに死に関する依他起性に気づかず、死に関する遍計所執性が私たちに死の苦しみを与えるのだと思う。死というものが、そして老いというものが生という縁起によって生じているということに気づき、仮に生を有り難いものだと思う心があれば、生を因として果としてもたらされる死や老いへも有り難さを感じられるのではないだろうか。因果の関係性という真理に立脚する形で、生への感謝は死や老いへの感謝にも繋がらなければならない。それは真理に背かずに真理に立脚した生き方である。そんなことを考えていた。これはおそらく病気に対しても同様のことが言えるかもしれない。病気もまた何かしらの縁があって生じたもので、そこには偶然が入り込む余地は一切ないと仏教では考えるだろう。病気と対処療法的に向き合っている限りにおいて、その病気の根本的な治癒は実現せず、病気が私たちに本来もたらしてくれる成長機会も逸することになる。その病気がどのような諸縁で発生したのかについて、自らの真理に照らし合わせながら自律的な内省をする時、それは根本的な治癒のみならず、私たちの心を大きく育むことを実現してくれるに違いない。そのようなことを思う。フローニンゲン:2024/4/4(木)07:21

12440. 一念如性把握/「憑む」という在り方     

生への感謝は比較的容易い。しかし、本当の意味で生に感謝するというのは、やはり死への感謝を経なければ実現されないのではないかと改めて思う。Aを感謝するためには、Non-Aへの感謝が必要なのである。コインの表を感謝するというのは、コインの表の存在を認めることが前提となっており、そもそもコインの表が存在するための前提条件としてコインの裏が存在していなければならないということを人は忘れがちなのだ。とりわけ死というものは生物学的にも文化的にもどこか負の印象やイメージが付帯しており、言語による仮構(けこう)の脚色が加わってもいるため、尚更死へ感謝の念を抱くことは難しいのだろう。社会が死を悲しみの対象とみなし、暗いイメージを私たちに植え付けているのであるから無理もないことかと思う。しかし真の覚者はそうした社会的に虚構されたイメージも意味も全てを一念で吹き飛ばす。それは思考を巡らせて吹き飛ばすようなものではなく、もうその一刹那の一念でそうした社会的構築物を吹き飛ばし、対象のあるがままの姿を見ることができるのである。「一念如知覚」「一念如把捉」という言葉が自然と醸成されて来た。一念で対象の如性を知覚すること。一念で対象の如性を把捉すること。それを徹底していきたい。この一念如性把握が実現されるためには、智慧を磨いていかなければならない。煩悩がその差し障りとなる。煩悩が智慧の鏡を曇らせ、対象の如性を私たちに見えなくさせる。ゆえに徹底的に煩悩を滅却していくことが重要であることがここからも見えてくる。

唯識学の探究の進展は本当に目覚ましいものがある。もちろん学習曲線上どこかで一旦高原状態(プラトー状態)を迎えるだろうが、今現在の自分の唯識探究の進展度合いは非常に順調で、むしろ自分自身が畏怖心を抱いてしまうぐらいの進展を見せている。何かに取り憑かれたかのように唯識学の研鑽に打ち込んでいる自分がいる。その真摯な姿勢に応えてくれるかのように、唯識学の研鑽がどんどんと深まっている。親鸞聖人が「他力本願」の本義として、「頼る」という言葉ではなく「憑(たの)む」という言葉を使っていたことがとても印象に残っている。そうなのだ。きっと何かに憑依され、憑依するような形での「憑む」という在り方がその人を大きく変えていくのだと思う。信心決定を促すのも、その道を成就するのも、「頼る」ではなく「憑む」という在り方が重要なのではないかと思う。自分は憑み、憑まれた。三阿僧祇劫続いていくであろうここからの果てしない唯識学研鑽道は、山あり谷あり、紆余曲折を経ながらも、その過程で自己は着実に成長を遂げていき、少しずつ智慧と慈悲心を磨きながら多くの人の幸福の実現に向けて関与していくことができるようになっていくであろう。そんな光の道が一念把捉されている。フローニンゲン:2024/4/4(木)07:38

12441. 成長機会としての煩悩/了別について

よく西洋思想においては知情意と言うけれども、唯識学における意識の立ち上がりの順番で言えば、受(情)・想(知)・行(意)の順番となる。これはら全て私たちが意識経験の最中に常に働かせている作用である。それに対して煩悩という心の作用は常に働くわけではない。煩悩は実践的にはそれを転じていくべき対象であり、否定的な価値を帯びるが、それが生じることは常にではないということを考えると、煩悩が起こる時は大切にしなければならないことが見えてくる。煩悩が生じる希少性に注目し、煩悩が起こった時こそ成長機会がそこにあると肯定的に捉えることを通じてその煩悩を観察して伏したり、滅していくことが重要になる。さて今日もここからの活動の最中においてどのような煩悩が生じるだろうか。煩悩の観察とそれを伏滅していく行を継続していけば、煩悩が立ち現れる一刹那前に煩悩の現起を防ぐことができるようになってくるのではないかと思う。それを継続していくことが、煩悩発生経路を枯渇させ、煩悩の根本的な滅却につながっていくような気がしている。煩悩には様々な種類があるし、質的差異もあり、置かれたコンテクストや向かい人によっても無限の様相を見せるため、煩悩の完全滅却への道のりは果てしなく遠いが、それに向けて研鑽精進を日夜積み重ねていきたいと思う次第だ。

私たちの意識には「了別」という本質的な作用がある。「了」は知るという意味であって、「別」は分けるという意味なのだが、私たちはある対象を理解する際に、「分けて知る」と思いがちである。しかしながらひょっとして私たちは、「知り分けている」のではないだろうかという考えがやって来た。対象を分けてから知るのではなく、知ってから分けるという発想転換が自分の中で生じている。対象知覚が先行し、それを受けて分別するという作用が生じ、それが対象の認識になるのではないか。そのような考えがやって来て、それを自らの経験と照らし合わせて検証していこうと思うという考えに至る。この実験は通常意識ではなかなか行い難いので、今週末のシロシビン・セッションの際に余裕があれば意識をしてみよう。シロシビン・セッションの実践上の価値や意義は、通常意識では決して実践不可能なことを実践可能にならしめてくれることである。特殊な意識状態の中で意識は通常の作用を離れ、それが持っている大いなる力を開元させる。その恩恵を受ける形で今週末のセッションでも自らの八識に立脚して種々の実験をしていきたい。フローニンゲン:2024/4/4(木)09:17

12442. 他者からの刺激を通じた神経可塑性の増大

時刻は午後7時を迎えた。今日の夕食はジムで体を動かして爽快な汗をかいた後だったので非常に美味しくいただくことができた。もちろん毎晩の夕食は美味しくいただいているのだが、やはり体を十分に動かして肉体の喜びを感じた後の食事は格別である。今日は幸いにも天気予報が良い方向で裏切られる形で、ジムに行く際には雨が降らず、帰りには一瞬雨が降っただけだったので何の不自由もなかった。今この瞬間の夕方の穏やかな世界が目の前に広がっている。

今日のジムでのパーソナルトレーニングはいつもながらとても充実していた。今日は少しジムに早めに行き、いつも筋力トレーニング後に行っている有酸素運動のローイングをウォーミングアップがてら行った。それが功を奏してか、パーソナルトレーニングの入りも良く、トレーニング中もよく体が動いたように思う。おそらく筋肉を温めてから筋力トレーニングに入るとより効果的なトレーニングができるのだろう。だからウォーミングアップという言葉があるのだ。確かにこれまでも準備運動としての動的ストレッチを行っていたが、それは身体が温かいと感じるような状態ほどには行っていなかったこともあり、今日の様子を見る限りだと、ローイングをウォーミングアップに取り入れるのが良さそうだと思った。決して長くやる必要はなく、準備運動としての動的ストレッチの後に5分ほどのローイングを次回からも取り入れていこうと思う。

本編のパーソナルトレーニングで改めて実感したのは、パーソナルトレーナーの役割である。1人で筋力トレーニングを行うとどうしてもメニューが決まったものになりがちであり、また自分で自分の限界を設定しがちとなる。特に前者に関しては、毎回自分の視点ではなくトレーナーの視点で選んでもらったメニューをこなすことで筋肉と脳に普段と違う刺激が入ることが何よりも価値だと感じている。トレーナーのエリーザとも話していたが、毎回のパーソナルトレーニングでは色々と創意工夫が凝らされたメニューをこなすことを通じて、脳に新たなシナプスと神経回路が構築されているのを感じる。複数の筋肉を総動員するようなメニュー、2つ以上の動きを組み合わせたメニュー、バランスを取りながら行うメニューなどはシナプスの可塑性を間違いなく向上させていると思う。前々から薄々そのことには気付いていたが、今の自分の健康な脳は毎日の学習、食実践、睡眠、そしてシロシビン・セッションだけによってもたらされているわけではなく、パーソナルトレーニングにおいていつも違った刺激が脳神経に与えられていることも大きな理由であることを忘れてはいけないと思った次第である。確かに自分自身で創意工夫をして様々なメニューを毎回試すことも不可能ではないが、やはり第三者の視点やアイデア、そしてフィードバックを受けながらトレーニングすることの価値は計り知れない。他者から多様な刺激を受けることの恩恵は、筋力トレーニングのみならず、他の様々な学習や実践にも当てはまる。現在の自分の他の学習や実践において他者からどのような刺激を得させてもらえるかについてまたフレッシュな目で検討してみたい。フローニンゲン:2024/4/4(木)19:17

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