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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12416-12421:2024年4月1日(月)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指した「サイケデリック唯識ラジオ」の配信をしています。

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タイトル一覧

12416. 煩悩とシャドーワーク

12417. 心の成長を支える有力・無力増上縁/今朝方の夢

12418. 今朝方の夢の続き

12419. 『唯識三十頌』の読経行の工夫/縁起を見通す観法

12420. 唯識とヴァーチャルリアリティ

12421. 縁起のネットワークを感じて/自分という世界・世界という自分

12416. 煩悩とシャドーワーク

時刻は午前6時を迎えた。復活祭の日曜日を受けた今日もまたオランダは祝日である。祝日の朝は静かで、小鳥たちはまだ鳴き声を上げていない。昨日からサマータイムに入ったこともあり、時間が1時間早くなり、サマータイム前においては午前5時の時間帯である。ゆえに小鳥たちが鳴き始めるのはもう30分後ぐらいからであり、うっすらと空が明るくなり始めるのもそれくらいからだ。

本来であれば今日はジムに行く日で、祝日の今日はジムが午前9時から午後2時までしか開いておらず、その時間帯は家で唯識学の研究に打ち込みたいので、今日はジムに行かず、自宅でトレーニングをする予定だ。普段有酸素運動としてのランニングをトレーニングの最後に行っているのだが、今日は午後から少し雨が降るかもしれないということもあって、外にランニングに出かけるのは控えようかと思う。その代わりに心肺機能を高めるようなメニューをトレーニングの最後にいくつか持ってきたいと思う。そうそればランニングの代わりとまでは言わなくても、同様の効果が多少なりとも得られるのではないかと思う。久しぶりに自宅でトレーニングをすることもあって、自重でトレーニングをどこまで行えるのかの創意工夫を楽しみたいと思う。こうしたトレーニングの場面においても自らの創造性を養い、それを発揮することはいくらでもできるのである。心の成長の実現に向けての実践がいついかなる場所でもできるのと同じである。その点で言えば、やはり唯識学を本格的に学び始めてからというもの、毎日の至る瞬間において心を絶えず見つめ、生じた煩悩と向き合うことが続いているのは良い傾向である。煩悩の種類を即座に特定し、煩悩に囚われることを防ぎながらすぐさま善意や善業を生じさせることによって、煩悩を生み出した種子を伏したり、滅したりするように心掛けている。シャドーワークの原理に従って、煩悩を生み出す根源を想起してそれに対しても観察を続けていくことは重要になる。煩悩の根源らしきものが見つかったら、すぐさまそれを取り除こうとするのではなく、それと対話するような気持ちで関わり、最終的にはその根源を受け入れることが重要になる。それはある意味煩悩の根源の再所有を意味するが、再所有した時に善の意識を付着させるのである。養分として善の意識を送り込むことによって、それが現行するときにはもはや不善としての煩悩の現れなのではなく、善行の現れとなって姿を見せるだろう。これまで学んできたインテグラル理論や成人発達理論の枠組みを架橋させながら唯識学を学んでいくと、思想の理解が促進され、心の成長に向けた実践のアイデアもどんどんと湯水のように溢れて来る。そうした現象が今自分の心の世界の中に起こっていることを楽しみ、そのことそのものに対して感謝したい。フローニンゲン:2024/4/1(月)06:28

12417. 心の成長を支える有力・無力増上縁/今朝方の夢   

先ほど予想していた通り、サマータイム前の午前5時半であるサマータイムの午前6時半頃から小鳥たちが鳴き声を上げ始めた。空もダークブルーに変わり始め、ここから夜明けを迎える。今の気温は9度とさほど寒くはないのだが、家の中では暖房が入っていて、部屋の温度を保ってくれている。暖房の力がなければ、シロシビン・マッシュルームの栽培もうまく進んでいかいないので、暖房という有力(うりき)増上縁には感謝したい。暖房はマッシュルームの栽培に対して直接的な働きかけをしてくれている。そしてシロシビン・セッションが自分にとっての瑜伽行の大切な一環であることを思うと、自分の心の成長に暖房が関わっているということが見えて来る。暖房は自分の心の成長に対して無力(むりき)増上縁として間接的な下支えをしてくれているのである。わずか暖房について考えただけでも、そのような2種類の縁の違いを見ることができるし、暖房がなんと自分の心の成長と間接的に関わっていたことを知って驚く。その驚きは暖房への感謝の念を起こし、そもそもそうしたことに気づかせてくれた唯識学の枠組みにも感謝の念が自ずから溢れて来る。そうなって来ると、それに気づかせてくれた唯識学は自分の心の成長に対して直接的・間接的に無数に働きかけをしてくれていることがわかる。唯識学は自分の心の成長にとって、有力かつ無力の増上縁なのである。

復活祭翌日の月曜日に見ていた夢として、高校の定期試験の一環として数学の試験を受けていた場面があったのを覚えている。数学の先生は中年の男性で、最近この学校に赴任してきたばかりだった。先生は東大の文科系を卒業しており、文科系と言っても東大の数学の入試問題を突破するには地方の医学部ぐらいに入学するぐらいの力がないといけないことからも、先生は高い数学力を持っていた。何よりも数学を愛する強い気持ちを先生が持っていることがすぐにわかった。自身の数学力の高さと数学愛からか、定期試験の問題はかなり難しめに作られていた。これまでの定期試験は計算問題が多かったのに対して、先生が作成した問題には1問たりとも計算問題がなかった。全て記述式の問題で、入試問題の標準から応用に分類される問題で問題用紙が埋め尽くされていた。問題用紙を受け取って全体のをパッと眺めた時に、これは多くの生徒は点数が取れないなと思った。さて自分はどれだけ問題が解けるだろうかと楽しみな気持ちになり、優先的に着手するべき問題を吟味してから問題に取り掛かることにした。そのような場面があった。この夢に付随して、小中高時代の友人(SS)の父であった中学校時代の塾の先生と話をしていた場面があったことも思い出す。先生と何を話していたのかは定かではないが、大学卒業後から今に至るまでの自分の人生についてシェアしていたような感じがする。フローニンゲン:2024/4/1(月)06:43

12418. 今朝方の夢の続き

少しばかり曇った空が上空に見える。時刻は午前7時半を迎え、もう辺りは随分と明るくなった。サマータイムを迎えてまだ2日目なので、体内時計の調整を引き続きゆっくり行っていきたいと思う。わずか1時間時間が変更になっただけでも随分と感覚的な違いがあるものだ。

今朝方はそう言えば1つ印象に残る夢を見ていた。それは自分がかつて通っていた小学校と高校が融合したような学校が舞台となる夢だった。その学校の地下には迷路のように張り巡らされた地下道があった。ちょうどその日は学園祭の日で、学校は大いに盛り上がっていた。全校生徒は校内のあちらこちらをうろうろし、色々な出し物を楽しんでいた。私は小中高時代の親友(HO)と一緒に地下道を散策していた。その地下道にもたくさんの出店があったのだが、中でも注目のものはサイケデリクスを取り扱った出店だった。サイケデリクスを販売している出店は結構な数に上り、自分が知る限り10店ほどの店があった。それぞれの店で違う商品を扱っていたので、全ての店を見て回ることにした。そしてその店に置かれているパンフレットをもらってきて、後ほど吟味していくつかの店に厳選して実際のサイケデリクスを購入しようと思った。地下道の終わりに辿り着く頃にはすでに手に一杯のパンフレットがあった。地下道の最果てにある店は、高校時代の友人が切り盛りしていて、そこには水槽がいくつかった。どうやら幻覚魚がそこで飼われているらしく、それは売り物ではないようだった。彼と少し立ち話をして、彼の店のパンフレットももらって引き返そうとした時に、その店の周りが水に侵食されていることに気づいたのである。足首ぐらいまで水が浸食していて、気がつけばズボンの裾が水に濡れていた。しかもその水は途轍もなく冷たく、足が凍えてしまうほどだった。一刻も早く地上に上がって足とズボンを乾かそうと思って引き返し、再び地下道を歩いていくことにした。そのような夢を見ていた。

この夢に加えてさらに覚えているのは、見慣れない屋外のフットサルコートで大学時代のゼミの友人たちとフットサルを楽しんでいる場面である。彼らとは久しぶりに再会し、こうして体を動かして交流できることが本当に嬉しかった。終始笑顔が絶えない中でみんなでフットサルを楽しんだ後、ゼミの友人の1人が肩凝りがひどいことを打ち明けてくれたので、彼の肩をマッサージでほぐすことにした。自分には人の体を癒す不思議な力があり、それを使って彼の肩を癒すことにしたのである。しばらく彼の肩をマッサージしていると、彼の肩は随分と良くなったので何よりだった。それを受けてふと、自分も誰かに肩をマッサージしてもらいたいなと思った。肩凝りが治った彼にお願いするのは恐縮だったが、彼にちょっとお願いをして、彼に少しばかり肩をマッサージしてもらうことにした。フットサルコートのゴールの脇で彼にマッサージをしてもらうと、すぐさま自分の肩は調子が良くなり、これでまた日々の活動に打ち込めるぞと意気揚々とした気持ちになった。そのような場面があったのを覚えている。フローニンゲン:2024/4/1(月)07:36

12419. 『唯識三十頌』の読経行の工夫/縁起を見通す観法

       

小鳥たちの鳴き声を背景にしながら『唯識三十頌』の音読を終えた。毎朝30分ほどの読経行としての音読は習慣となった。こうして新たな良き習慣が形成され、それが善の実践として阿頼耶識に薫習されていくのは喜ばしいことである。唯識学の本質が体現された『唯識三十頌』を毎日読経していくことを通じて、阿頼耶識に善の種子が薫習されていき、それが諸縁を通じていつか思わぬ形で現行して来るだろう。どのような形で現行して来るのかは全くわからないが、煩悩を通じてそれに過度な期待をせず、自然体で引き続き無漏の実践としてこの朝の読経行を続けていきたい。読経行の工夫として、最初に英訳の音読をするのではなく、漢訳の音読から始めるようにしている。今後漢文での学習に弾みをつけていくためにも、毎日『唯識三十頌』の漢文の音読を通じて漢文に慣れていくようにしている。漢文の音読後に英訳のものを音読するようにしている。今のところは『唯識三十頌』が最も読経行に適していると思われるが、その他に何か音読にふさわしい唯識学のテキストがあれば今後はその音読も試してみたいと思う。漢訳と英訳の双方がある経典や論集はそれほど多くない。

音読を終えた後、再び自分を取り巻く環境世界を観察してみたところ、小鳥たちの鳴き声に包まれている自己を見た。心が心としての自己を見た時、ふと縁起故に空であることを実感するトレーニングを日常の至る所で徹底させていこうと思った。端的には、諸存在・諸現象の縁起を見通す観法を習慣化するという考えが芽生えたのである。全ての存在も現象もそれ単独で存在・生起することはない。その存在がそこにあることについて、その現象が生起したことについて、その背後にある縁起のネットワークに注目する観法をこれからより意識的に習慣化させていきたい。そうすれば、諸法の空が体得されるだけではなく、無我もまた体得されるだろう。そして何より、我と法(諸存在・諸現象)の二空を悟ることにより、自己を取り巻く全存在・全現象への感謝の念が芽生えるだろう。この縁起観法を日々ありとあらゆる対象に対して行っていくことを通じて、二空の悟りがますます体得されていき、めくりめく生滅流転を繰り返すこの世界で生きていくことへの喜びと感謝の念が溢れて来るに違いない。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/4/1(月)08:46

12420. 唯識とヴァーチャルリアリティ     

私たちは常に心が生み出すヴァーチャルリアリティの中を生きているというありありとした認識が日増しに強くなる。それは唯識学の教えに則った世界認識である。偶然にも唯識学の研究に目覚めた時に、親友のメルヴィンからVRゲームの話を聞いた。VRゲームに関心を持ち、自分も機器を揃えて試しに遊んでみようと思ったが、結局唯識学を通じて世界を生きることはVRゲームを遊ぶようなものだと思ってVR機器の購入は控えた。そうした偶然の重なりを受けて、改めて日々唯識学の枠組みを通じて日常を眺めてみると、本当に自分が自らの心が生み出したVRの中で生きていることがわかって驚く。そして自らの心が生み出したVR世界からは逃れられない宿命にあるのだということもはっきりと理解される。もちろん修行が進み、心の成長が完成の域に近づいて来ると、VRからの脱却が実現するのかもしれない。それを涅槃の実現と言うのだろう。しかし大乗仏教における修行の目的である涅槃と菩提の双方の実現を考えれば、結局私たちは全衆生の救済まで実践を継続させていくことを思うと、自らの心が生み出すVRから完全に脱却する日はやって来ないのだということも分かる。それはある意味肯定的な諦念である。

そうした諦念が芽生えた後に、8つの識のうち表層心である全六識と深層心である末那識と阿頼耶識がVRをどのように生み出しているのかについて考えていた。端的には、全六識がVRヘッドセットのようなものであり、2つの深層意識がヘッドセットの機能を根底から支えているプログラムのようなものだと思ったのである。もしかしたら末那識もVRヘッドセットの機能に入れてもいいかもしれない。なぜなら末那識が持つ我執の機能ゆえに知覚されるものが決まって来るからである。それは知覚の方向付けを担っていて、全六識で知覚される内容を自己に引き付けて把握する役割を担っているのである。表層心と深層心というわかりやすい切り口でいけば、やはり表層心としての全六識をVRヘッドセットと対応させ、深層心としての末那識と阿頼耶識をヘッドセットのプログラムと喩えた方がわかりやすいだろうか。いずれにせよ、唯識学とVRの対応関係が明確なものとして見え始めたことは喜ばしいことである。VRに関する哲学書の購入を以前検討しており、その書籍を紐解けば、両者の関係がまた深く理解されるかもしれない。そして必要であれば、唯識学の理解を深めるために、どこかのタイミングでVRゲームの機器を購入して実際に自分でVRの世界をより深く体験してみるということも行ってみたい。それは実験的かつ実践的な試みとして重要になるだろう。フローニンゲン:2024/4/1(月)09:49

12421. 縁起のネットワークを感じて/自分という世界・世界という自分

時刻は午後4時半を迎えようとしている。今、空は曇っているが、夕方のこの時間帯にも朝と同じく小鳥たちが美しい鳴き声を上げている。今日は復活祭翌日の祝日ということもあり、ジムは午後から閉まっていたので、午後は自宅で筋力トレーニングを行った。自重で行える範囲のトレーニングをしばらくした後に、外に出かけてランニングを楽しんだ。筋力トレーニングを始めた時には霧のような小雨が降っていたのだが、筋力トレーニングを終える頃には雨が完全に止んでいたので、それを好機と見てランニングに出かけた。年末年始の際にジムが休みの時には、フローニンゲン大学の郊外のキャンパスの方に向かって走ることをしていたが、今日はコースを変えて、ジークンドーの道場がある方に走っていった。ジークンドーのプライベートレッスンを提供してくださっていたロビンさんが首の調子を悪くしてしまったので、今はもうプライベートレッスンを受けることができなくなっており、久しぶりに道場に向かう道を通った。すると、道場付近でこの半年間ぐらいに工事があったらしく、道が生まれ変わっていて驚いた。そこにもまた自分が知らないところで働いている人たちの貢献と、それがもたらす縁の力を思った。こうして私たちは普段名も知らない人たちの仕事の上に自らの生活を成り立たせ、同時に名も知らない人たちのために私たち自身も働いているのである。そうした縁起のネットワークを感じる瞬間だった。

ランニングから帰ってきて、自らの生き死にと一生涯をかけた探究を誓った唯識学との出会いを通じて、ここからの自分がどれだけ変わっていくことができるのかを眺めてみたいという思いが湧き上がってきた。まずはここからの1年間を通じて、自分がどれだけ変わることができるのかを1年後に振り返って確認してみたいと思う。歩みの最中にそれを意識することはあえてせず、変化を玉手箱の中にしまって、1年後にその玉手箱を開けてみよう。そんな心持ちである。

私たちは自分という世界をどのように捉えているだろうか。世界という自分をどのように捉えているだろうか。はたまた、私たちは自分という世界を、世界という自分をどのように生きているだろうか。そうした問いを立てることは日常をまた生き直すことをもたらしてくれるし、自分の心が生み出す世界への責任と世界の美化に心を仕向けてくれるのではないかと思う。少なくとも自分は毎日そのような問いを自らに投げかけ、観察と内省に次ぐ日々を過ごしていこうと思う。フローニンゲン:2024/4/1(月)16:32

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