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サウナとは死ぬことと見つけたり

突然ですが、今週2月11日(木)放送の「アウト×デラックス」(フジテレビ)に出ることになりました。話す内容は僕のサウナについての考え方です。

僕のことを知っている人は、僕がもともと温泉好きで、4年前の2017年にTTNEのサウナ師匠と温泉好きの僕がゴールデン街で対決した「サウナ VS 温泉」という流れからサウナにハマり、すぐに当時僕が運営していた下北沢ケージで「CORONA WINTER SAUNA SHIMOKITAZAWA」なるサウナイベントを、師匠と一緒に誰よりもいち早く手がけたこともご存知だと思います。ちなみに師匠からのつけられたサウナネームは「GOD SAUNNER」です。


「なんだよ、テレビの番宣かよ!」と思うかもしれませんが、そうではありません。実は僕のスキル不足が原因で、自分が満足いく形で番組当日話せませんでした。

「このまま放映されるとサウナーの皆様に誤解を与えるかもしれない」

なにせ番組のサブタイトルが「サウナでビクンビクンしている草彅くん」です。僕はサウナに入ると「ビクンビクン」状態になるのですが、サウナーの方なら瞬時に「ととのった」状態だと理解していただけても、サウナ未経験の人だと単なる「危ない人」にしか思えないでしょう。また間違った方向にサウナを誤解されると、これまで“サウナのために汗をかかれてこられた”プロサウナーの方々の顔に泥を塗ることになるかもしれない。いや、あの場の僕のトークだと、きっと単なる一変質者の意見として終わってしまうに違いない。そう危機感を覚えまして、僕のサウナについての考え方を、きちんと書き残しておくべきだと思いました。

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「ととのう」とは何か?

プロサウナーの濡れ頭巾ちゃんが命名し、タナカカツキ先生が広めた「ととのう」は、現在のサウナブームの起点になった言葉です。

①サウナ→②水風呂→③外気浴

一定のルーティンを組んで3回ほど繰り返す体験すると、「ととのった〜!」といわれる状態になり、トランス状態といわれる多幸感と快感がやってくる。この「ととのう」という言葉が広がったことから、ここ数年で日常的にサウナーが使う言葉になりました。人によっては「サウナトランス」や「キマる」と呼ぶ人もいます。要は非常にdruggy(ドッラギー)な体験がサウナでできるというわけです。

カツキ先生自体が、この「ととのう」について詳細な説明を書いた文章を、僕が見つけることができませんでした(あったら加筆するので教えてください)。例えば以下のような気持ちの良い状態を説明する文章はありますが、「ととのう」とは具体的にどういうことなのか? なぜこのルーティンで入浴すると人間は「ととのう」のか? 詳しい解説はありません。

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この摩訶不思議な「ととのう」状態について、医学的な側面から解説している専門家たちがいます。サウナーでもあり、神経系を専門分野とされる加藤容祟医師と、国際医療福祉大学病院の医師・一石英一郎先生が、このジャンルに積極的に答えています。


加藤医師は『「副交感神経によるリラックス」と「アドレナリンによる興奮」が共存している状態」「リラックスと興奮が共存するのは、日常ではまず起こりえない異常な状態です。これが「ととのう」の正体』とはっきり現象を突き詰めています。一石先生は『医学用語ではありませんが、メディテーション、つまり「瞑想」あるいは「ランナーズハイ」の状態に近いかもしれません』と状態を説明しています。血中βエンドルフィンや脳内セロトニン、オキシトシンが上昇することによって生まれる状態、それが「ととのった」と入浴者が感じるものの正体なのだと。

とはいえ僕が知りたいのは、なぜ人間が「サウナ→水風呂→外気浴」に入ると、こうも恍惚になり、リラックスしながらも、深い悟りの境地のようなフロー状態に辿りつくのか、という疑問です。この問いに対して答えてくれる人が奇遇にも誰一人として存在しなかったため、僕はサウナに入りながら、その答えを求道していくことになりました。まさに僕の「サ道」です。

僕の「サ道」

そもそも僕はサウナが分かる前までは、サウナは「体育会系」のカルチャーだと思っていました。無類のサウナ好きで知られる長嶋茂雄しかり、清原和博や三浦知良しかり、スポーツ選手にサウナ好きが多かったことも原因でした。体格がしっかりした人でないと、サウナや水風呂の強烈な暑さや冷たさに耐えられないと思っていたのです。

しかしそれは未体験ゆえの誤解だったということがすぐに分かりました。どちらかといえば体育会系よりも「文化系」の方がより適している、そんな風にいまでは思うようになりました。その理由はサウナや水風呂に入ると、その衝撃から脳が考えることを止め、雑念がなくなり、感覚の世界に自然と導かれるからです。日頃脳を使い続けている僕のようなタイプにとって、思考の世界から一時的に逃げることができる遊びは、文化系にはほとんどありません。まさに「脳のデトックス」ともいえる状態を作れる数少ない遊びだからこそ、文化系にふさわしいのです。

それにしても何故に「サウナ→水風呂→外気浴」という特定の入り方をすると人は快感を覚えるのでしょうか。極端な発言をすると、僕は「ととのう」とは「死ぬこと」だと悟りました。

そもそもサウナの温度は強烈です。サウナ室内は低いところで摂氏70~80℃、高いところでは90℃くらいになります。 腰かけている場合だと、足元は約70℃、腰のあたりは80℃、顔のところは90℃くらいまで上がります。ここにロウリュウと熱波を送り込むと、体感温度は90℃以上に感じます。

体は発汗していますが、脳内では身体的危機のアラートが発生している一大事件です。これは日常生活でいえば、家にいたら突然火事が起きてしまったような環境と言えるでしょう。

これが第一の「死」です。

続いて水風呂です。サウナー的には「ととのう」状態を作り出すには15℃以下が良いとされています。不思議なことに20℃の水風呂だとトランス状態にならず、15℃以下だとなりやすいのは、何度かサウナを体験した人だったら体感的に理解できる話だと思います。サウナーが10℃以下のシングルを「グルシン」とありがたがるのも、トリップしやすいからこそ。以前加藤医師に直接聞いたところによると、水温が15℃以下だとより身体は危機を覚えやすいのだそうです。

90℃の世界から数十秒後に15℃以下の水風呂に飛び込む。これは現実世界ではありえない話です。例えるなら森のコテージにいたら火事になった。外に出たらすぐ目の前に湖があって飛び込んだ。その水温が真冬で15℃以下だった。そんな特殊な環境なわけです。我々が通っている温浴施設は、そんな仮想空間を現実的に作り出しているという訳です。

一つ目の「死」から逃げたら、冷たい水風呂で生命の危機を覚えた。

これが二つ目の「死」です。

「外気浴」とは「助かった」

人間には体感温度のセンサーがあります。例えば自分の体が37度と1度上がっただけで体調に違和感を覚える人は多いでしょう。38度、39度ならなおさらです。たった数度の差で体調に影響が出る理由は、37-40度のゾーンが自らの生命の危機を感じる最も危険な体温だからでしょう。ゆえに過敏に感じることができるのだと思われます。

よくよく考えれば、そんな繊細な身体を、外気温90℃から15℃の状況に突入させているわけです。身体としても、変化が起きない訳がありません。

ドラえもんの「どこでもドア」で火山のふもとから南極へワープしているようなものです。日常では決してありえない環境を作り出しているのが、そもそも温浴施設の面白さなのでしょうが、温度の落差は身体的には異次元であり、強烈な負荷がかかっています。

この2つの「死」を乗り越えた先にあるのが、「外気浴」です。

基本「ととのう」状態は外気浴中に発生することがほとんどです。サウナのことが分からない、ととのったことがない人というのは、水風呂に入って寒くなったからまたサウナに入るという、「サウナ→水風呂→サウナ→水風呂…」という無限ループを繰り返している人が多いように思います。外気浴をスキップする。これではサウナの本質的な体験ができません。なぜなら先ほども話した通り、ただ単に2つの「死」を繰り返しているだけだからです。

僕は「外気浴」を「助かった」と言っています。ここまでくれば読者も理解いただけると思いますが、2つの「死」を体験し、ととのい椅子に身体をゆだねた時、究極の安堵感から「生きている」ことの実感として「ととのう」状態になるのです。

脳がシャットダウンし、嫌なことも良いこともゼロになり何も考えない。

風に触れ、音に耳を澄まし、感覚の世界に行き、あらゆるものを受け入れる。

2度の仮死体験をしているからこそ、存分に生そのものを味わうことができる。死からの回復、それが「外気浴」の本質でしょう。この状態を「蘇生」や「復活」、「黄泉がえり」といった仰々しい言葉を使うこともできますが、僕からすると「助かった」くらいがちょうどいいように思います。ホッとするというか、命からがら生還したというか、何も考えず、生きていることを自然に受け入れている時間、それが「外気浴」であり、「助かった」なのです。

都会で2度死に、生き返る

東京都に住む僕も含めて、都会で働いている人は、簡単に死というもの自覚できません。文明は高度になればなるほど「死」を回避していくようにできています。危険なものは管理され、排除されます。墓地や葬儀や火葬場は忌避され、都会では人目に触れる場所にはありません。「酒はダメ」「タバコはダメ」と健康に悪いものはお節介も甚だしく、国から警告され、コントロールされています。「死」を回避するのは生存本能としては当然といえば当然なのかもしれませんが、人間の生は、死と表裏一体であって、死を感じなければ生も感じないし、逆もまた然りな訳です。

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僕の友達に不妊治療で悩んでいる男の友人がいました。彼は精子の検査をしたところ、精子の量が少なく、ほとんど活動していないと医者に言われていました。そのため定期的に不妊治療の検診を受けていました。

都内に住んでいる彼はアウトドア好きで、週末になるとよく山に出かけていきました。そんな彼が運悪く遭難してしまった。帰ると言った日に帰ってこない。心配した奥さんが警察に相談し、会社に連絡をしました。誰もが「死んだのではないか?」、そう諦めた時、彼は幸運にも救助され、家に戻ってきました。

体力が回復するまでしばらく会社を休んで良いということで、働きに出た嫁を送り出して、家でぼんやりする日々が続きました。そんなある日、たまたま今日が不妊治療の検診予約日だということを思い出し、暇だから向かうことにしたのです。

病院でエロ本を渡され、精子を出し、検体を提出しました。すると医者が笑顔で彼を呼び出すのです。

「すごい精子の量ですよ! そして活発に動いています。何かあったんですか?」

彼は自分の身に起こったここ数日内のことを説明しました。山で遭難したこと。食料もなく空腹に苦しんだこと。疲労や荒天で生命の危険にさらされたこと…など。

すると医者が言いました。

「なるほど… あなたは都会に住んでいたから、生きていなかったんですね」

医者の言うことは、都会ではお金さえあれば欲望のままにすべてが手に入る。腹が減ったらコンビニやUbereatsでご飯を食べれる。欲しいものは買える。性欲も手軽に処理できる。そんな便利極まりない世界にいると、「生」を実感することがなくなってしまう。「死」に近い状況を体験したからこそ、あなたの身体機能が回復したのではないかということでした。

昔彼から聞いたこの話は、僕の中でいつも思い出される教訓のようなものとして、強く印象に残っています。サウナとはこの教訓にあるような、都市の中の回復装置ようなものではないか。すべてが手に入る都会で、唯一手に入らないもの。それが「死」だとするのであれば、サウナ好きがこぞってサウナに涎を垂らしながら向かう理由も現在のサウナブームも理解できるのです。

しみけんさんから「ととのう」を命名したのはタナカカツキさんではなく、濡れ頭巾ちゃんではないかとご指摘を受けましたので修正させていただきました。なおSAUNA TIMEの「ととのう」の項にも書かれていました。


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