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「無関心→関心」のためにすべきこと

いまの世の中には、あらゆる無関心が蔓延っている。

ある映画に

俺はもう無関心が美徳であるような世の中はうんざりだ。人々からすれば無関心が一番の解決策だ。

というセリフがあって、確かにそうだなと思った。

なかでも社会問題は無関心の集積地であり、それが個々人にとって、ある意味での「解決策」になっている。

わざわざ関心を持たなければ、何があっても気に留めることはない。たとえ誰かが何かで苦しんでいても、苦しんでいる人なんて世界中の至るところにいるし、知ったこっちゃないという気持ちになれる。

逆に、何かに関心を持って知ってしまえば、誰かが何かで苦しんでいることを知り、胸が痛むかもしれない。本来自分には関係がないはずなのに、関心を持ったがゆえに知ったこっちゃないという気持ちになれない。

僕も3年前、海辺に横たわるシリア難民の男児の写真を見たときに衝撃を受け、気づいたらシリア難民に強い関心を持つようになった。

シリア難民に関する本を読み、講演に参加し、寄付もした。

自分が関心を持って何かアクションを起こしても、微力にすらならないかもしれない。かといって無関心でいるのも違うなと思った。それ以降、せめてもの寄付は続けている(でも、いまはそれすら忘れかけてしまっていた)。

そんなふうに考えていたことを、主にNPO向けのあるメディアで書かせてもらった。

* * *

■永遠の課題とも言える「無関心の壁」

社会問題に携わる人たちにとって、永遠の課題とも言えるのが「無関心の壁」だ。

社会問題に関心のない人に対して、どうすれば関心を持ってもらえるのか。関心を持つきっかけをどのようにしてつくることができるのか。

最近では、どのようにして社会問題について"誤解されないか"ということも重要になっているように思う。

NPOが主に寄付を財源として成り立っているものである以上、新たな寄付者を増やすためにも、無関心の人を動かすための情報発信は不可欠だ。

ただ同時に、人の意識を何かしらの働きかけによって意図して変えようとすることは、とても難しいことでもある。

さまざまな社会問題があるけど、その解決のために熱心に取り組んでいる人が多くいる一方で、まったく関心を持たない人も多数いる。それは仕方のないことだし、誰もが関心を持つなんて不可能でもある。

ただ問題は、そうした層が分断されていることだ。とくに昨今は無関心であるがゆえに生じる誤解や無理解から、分断の溝が広く深くなっているように思える。

■「無関心→関心」に変わるのはどんなときか

そもそも、人はどのようなときに、無関心だった事柄について関心を持つのか。自分自身メディアに携わる立場としても、長い間考えてきたことでもある。

社会問題に関していえば、そのきっかけになるものとして、大別すると主に3つあるのではないかと考えている。

1つ目は、自分が当事者、あるいはそれに近い状況になったとき。

たとえば、それまでまったくといっていいほど介護とは関係のない生活を送ってきたが、急に親の介護をすることになった。

そうなったときにはじめて介護という問題が「自分ごと化」され、介護を取り巻くさまざまな問題についても知ろうとするようになりやすい。

つまり自分ごと化されることで、関心を持ちざるをえない状況になるということだ。

2つ目は、感情を大きく揺さぶられたとき。

2015年に公開されて世界に衝撃を与えた海辺に横たわるシリア難民の男児の写真は、それまでシリアの現状を知りながら無関心だった人々の心を動かした。

難民を支援する団体などに対して多くの寄付が集まり、各国の世論の論調を変えて難民政策が方針転換するなど、世界中に大きな影響を及ぼした。

3つ目は、メディアなどを通じて繰り返し情報に触れることで、刷り込みのようにインプットされていく過程で関心を持つようになること。

いまや大きな社会問題の一つとして認知されるようになった日本の子どもの貧困問題なども、ほんの10年前まではほとんどないものとして扱われていた。

さまざまなセクターの働きかけによりメディアが繰り返し報道したことで、世間的にも少しずつ関心が高まっていったと言える。

とはいえ、ここで挙げたような3つを駆使して、戦略的に関心を持ってもらうアプローチをとることはとても難しい。

さらに、関心を持ったところで、寄付などの具体的なアクションをする人は一握りだ。

それでも、知らなければ考えることもできず行動につながることもないという意味では、まずは知ること(知らせること)から始まるのではないか。

■NPOがとるべきアプローチ

では、NPOはどのようにして無関心な人に関心を持ってもらうアプローチをとるべきか。

最も大きいのは、やはり「知る機会をいかに提供するか」ではないかと思う。

陳腐な提案ではあるけど、これは社会問題の解決を目指す活動にはどんな人が関わっているのかということがヒントになっている。

そうした活動をしている人の多くが、その社会問題の「当事者ではない人」だったりする。なぜ、非当事者がその社会問題に関わっているのか。

それを問うと、意外にも「たまたま」であることが多い。

本やテレビ、映画、ネット、SNS、友人や知人などを通じて、はじめてそうした問題があることを知ったという人たちだ。

ある社会問題に触れることで、そうして直接関わることになった人がいる。あるいは、関わらないまでも問題の実情を知る人がいる。知りさえいれば、少なくとも誤解や偏見は防ぐことができる。

問題を知るのは偶発的だけど、そこには確実に「知る機会」が存在していたことがわかる。

知る機会を提供することとは、つまりは情報発信だ。

現場の実情について情報発信する直接的な発信もあれば、特定分野に精通しているからこそできる(行政機関などが行っていない)調査を行い、データとして提示することでメディアが報道する契機をつくるといった間接的な発信もありえる。

「無関心の壁」は高く険しい。でもまずは「知る機会」を少しでも多くつくることが必要ではないかと思う。

* * *

これを書いたのは2年以上も前のことで、元サイトが消えてしまったからここに再掲してみたけど、僕の問題意識はほとんど変わっていない。

「愛情の反対は無関心」と言われる。でも、世の中の多くのことは愛情か無関心かの二者択一ではない。その間には、無限のグラデーションが広がっている。

だからこそ、「知る」という、たったそれだけのことで、個々人の「関心」というグラデーションが、少しかもしれないけど変わる可能性がある。

ちなみに僕自身も、社会問題に対する「無関心の壁」に立ち向かわなければと本気で思うようになり、これを書いた1年半後に「社会の無関心を打破する」という、まさに自分の思いとマッチした理念を掲げるリディラバに移籍した。

そして、2018年1月に立ち上がったリディラバジャーナルというメディアを通じて、「知る機会をつくること」に尽力している。

2019年、少しでも社会の無関心を打破したい。

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鈴木洋平(編集者)

1988年2月生まれ。2017年まで出版社で『編集会議』をはじめとするメディアや広告・マーケティング専門誌の編集者。2018年より“社会の無関心の打破”を掲げる社会問題に特化したメディア「リディラバジャーナル」記者。さまざまな社会問題の現場を取材している。

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