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「原稿」は、編集によって「記事」になる

「原稿」と「記事」ーー。

一見同じようにも思えるこの2つの言葉は、何がどう違うのか?

Googleで検索してみると、原稿は「印刷したり口頭発表したりするための下書き。草稿」で、記事は「事柄を伝えようとして書いた(新聞や雑誌の)文章」とある。

なんとなくわかるような、わからないようなだけど、僕は書き手から編集者に渡るものは「原稿」で、編集者が編集して公開(掲載)されたものが「記事」だと理解している。

ちなみにGoogleの画像検索だと、「原稿」は原稿用紙の画像が、「記事」は雑誌や新聞の記事の画像がたくさん出てくる。画像検索のほうがイメージに近い。

前回のnoteで、以前に著者から激怒された一件を書いた。激怒されてからしばらく、僕は編集者なのに編集というものがわからなくなってしまった。そして都合よく「編集とは何か?」という疑問をそのまま雑誌の企画にした。

(編集という概念は昨今かなり拡張しているけど、ここでいう編集とは主に原稿編集のこと)

そして、そのときに雑誌に寄稿してもらった人から届いた原稿に、こんな一文があった。

「原稿」は必ず編集者の手を介して「記事」になります。つまり、編集者は書き手にとって最初の読者であり、責任をもってその先にいる読者により伝わりやすいコンテンツを提供するアンカーマンでもあるのです。

「原稿」は必ず編集者の手を介して「記事」になる、という一文に、「そうか、編集とは『原稿』を『記事』にするものなのか…!」と気づかされた。

とはいえ、いまや誰もが書き手になれて発信できる時代。「原稿」は編集を経ないと「記事」にならないと言われても、しっくりこない人も多いだろうとは思う。

実際、数年前から編集という行為を介在する必要はあるのか?と言われるようになっても久しい。編集者の必要性が改めて問われるのは、誰もが書き手になれて発信できる時代になった以上、当然のことでもある。

もちろん、原稿編集という限定的な意味でも、本とか雑誌とか新聞とかウェブとか、メディアによって編集者の役割は違うし、一概に編集者は不要ということではない。

ただ読者の立場になって考えてみると、まず編集という行為はブラックボックスだ。読者はそもそも編集が何をするものなのかがよくわからないかもしれないし、編集を経ることによって何がどう変わったのかも知り得ない。

何より読者が読むのは常に「記事」であって「原稿」ではない。その記事が編集されたものであるかどうかさえわからない。

いずれにしても、「原稿」は編集を経て「記事」になる、というのが本当ならば、編集者には編集によってどんな価値を出せるのかが問われていることになる。

そこで考えるべきは、編集者としての役割だ。編集者は書き手と読者の間に立っている。その立ち位置からどんな役割を担うことができるのか。

おそらく書き手にとっては「読者代表」という役割を求められることになる。一方の読者にとっては、編集者という存在は見えないけれども、「翻訳家」のような役割が期待されているのかもしれない。

そう考えると、編集者にとって大事なのは「理解」だ。読者のことを書き手以上に理解していて、書き手のことを読者以上に理解していないと、本来編集という行為はできないように思う。

仮に理解がイマイチでも、ファクトチェックだったり、伝えたいメッセージを際立たせたり、読者に響く見出しをつけたり、校正・校閲をしたりなどはできないことはない。でもその精度は必然的に低くなる。

一方通行だった「伝える」(原稿)を編集によって、相互通行の「伝わる」(記事)に変換するためには、やっぱり解像度の高い理解が欠かせない。実際にそれを欠いた失敗例が前回のnoteでのエピソードだった。

ここまで書いてみて思うのは、「編集」という行為はやっぱり難しいということだ。

たとえば、書き手への理解が深い編集者ほど、「原稿」を「記事」にするだけでなく、ときにはあえて「ボツ」にする勇気が必要なケースもあるんじゃないかと思う。

このnoteだって誰に編集されることもなく、僕が勝手に記事として公開している。もしかすると人によっては突っ込みどころ満載かもしれないし、仮に編集者がいたとするならば記事ではなくボツにされる可能性だってある。

僕は自分を編集者だと思っている(思いたい)けど、このnoteを書いている以上は書き手だ。編集者としての自分が納得できる記事を、書き手の自分がいかに書くことができるか。

それをnoteを通じて日々試し(され)続けたい。

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