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【エッセイ】 藝大デザイン科とわたし(後編)

~役に立たないものをつくるスタンス~

修士研究のバックグラウンドである東京藝術大学デザイン科での学びや生活を、学生である僕の目線から考察し、紹介します。
この記事は前回からの続きです。前回の終わりに発表した予告から内容を変更して、今回は 3.「役に立たないものを作る」スタンス のみを紹介します。

予定していた「デザイン科は何処へ向かうのか」は内容が多くなってしまったため、独立させて次回公開する予定です。

3. 「役に立たないものをつくる」 スタンス

藝大デザイン科 企画・理論研究室 の教授である藤崎先生のツイートによる一連のスレッドからの引用です。
藝大デザイン科の授業における教育方針をよく表現されているなと思い、引用しました。

この藤崎先生のツイートでも述べられていますが、藝大デザイン科は「身体感覚」をとても評価しています。
その理由はおそらく、デザイン科がもとは工芸科であったことに起因する(※コメント欄に補足あり)ものと思われます。学生たちはデザイナーである以前に、表現者であることを尊重されます。
学生たちの美的な直感知や、言葉では言い表せない感情的なものごとの価値を創造する能力を育てるために育まれてきた環境を創立以来大切にしている大学であると感じます。

そのため、ある種社会から隔離され、自分自身の感性の内側の奥深くに潜り込み、自分自身と対話をする時間のようなものが多く設けられています。
世間一般的にはこれをモラトリアムの期間とややネガティブに見られがちですが、表現者にとっては自分自身の感性を醸成するために必要不可欠でとても大切な時期であると感じます。

作品の価値についても、論理的思考で想像しうる価値より、身体的・直感的に身体を動かした先にある価値、言い換えれば普通に思考しうる諸々のステップを飛び越えた先にある、天才的な、誰も予測し得なかった価値と、それを探求する身体的・直感的な姿勢を尊重しています。
そのため、コンセプトは後付けでいいとまで言われることすらあります。世界的なデザインスクールの教え方を見ても、このような指導をしている国立レベルの大学はないのではないでしょうか?

赤ちゃんがなにかものを覚えるときにはじめから「役に立つかどうか」を意識していないように、このプロセスは人間の発達としてごく自然であると感じます。
それゆえ、(社会的プレッシャーに目をつむれば、)学生がのびのびと制作できる環境としては日本最高レベルであることは間違いありません。
教授たち自身がそのような環境で育ってきたからこそ、成り立っているスタンスであると感じます。

僕はこのスタンスを藝大デザイン科の長所であり、同時に短所でもあると思っています。

ⅰ) 長所であると感じる理由:

この一連のツイートで述べているような感じで、デザイン科の学生は藝術バックグラウンドのデザインプロセスにおいて、自分でさえ認知していない価値を、天性の勘でつくり上げているということが多くあります。藤崎先生はこのことをよく「創造的な飛躍」という言葉で表されます。須永先生流に言えば「超能力」です。笑

「役に立つ」というのは、社会がそのものの価値をすでに認知している事によって初めて言われることですよね。
故に、はじめから「役に立つ」と言われるアイデアはもちろん多くのところで歓迎されるでしょう。ですが、その先にある誰も思いつかなかったようなイノベーティブなアイデアまでもその都度認知しながら作り上げていくには、限界があります。

学生の制作の裏には、その作品が役に立つか立たないかという議論は介在していません。その時の自分自身の心地よさ、興奮、感動をかたちにして、それを人に伝えられるという表現力をもっていることは、とてもすごいことなのです。

藝大デザイン科は変態の集まりですが、それはつまり社会に変態を起こす可能性を秘めた人間の集まりなのです。

ⅱ) 短所もあると感じる理由:

「役に立つか」を考えずにものを作り続けていると、どうしても言葉をもって作品の説明や自分の探求の意図を相手に伝えることが苦手になりやすいです。

また、論理的な判断や言語的な対話を取る機会が少ないため、他分野とのコミュニケーションに不安があります。

つまり、‘‘デザイナー’’じゃない人や、感性が自分と違う相手と何かを一緒にデザインするときに、自分のアイデアの価値をうまく伝えられる力が育ちづらいということです。

昨日の投稿の「10の力 The power of 10」でも触れましたが、藝大デザイン科の学生は自分から仕事を取りに行くことが苦手なようにも感じています。
社会に出れば、なにかプロジェクトの予算を持ってくるためなどで、はじめのうちからある程度そのプロジェクトの価値や期待できる成果を言葉で説明させられることなどは多くあると思います。
例えばビジネスの話をするときに…「私がこう感じたから」「きれいだと思ったから」など、感性がどうとかだけでは、交渉相手も納得できないでしょう?

デザイナーという職業にはもちろん様々な段階がありますが、少なくとも自分がやりたいことを選ぶ事ができるデザイナーには、自分のデザインの価値を自分で説明することができ、それを相手に伝えることができる技術が必要だと思います。

その点のケアが、藝大デザイン科の教育のどの部分に入る余地があるのか…までは、今のところ僕の知るところではありません。
ひとつ思いつくことを言うなれば、学生の希望者は自分の卒業制作に関する論文を書いて学会に発表するとか、したら良いと思います。

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次回は明日、「デザイン科は何処へ向かうのか」を公開いたします。

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最後までお読みいただきありがとうございます! 7月からは、徐々にINTRODUCTIONから研究内容にシフトしていく予定です! Twitter:https://twitter.com/44_ktz Facebook:https://www.facebook.com/44ktz

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Yoshikatsu Hirayama

東京藝大 デザイン科 修士2年。デンマーク留学中🇩🇰 進行中の修了制作テーマ→「東京藝術大学の学生や職員を巻き込みながら、この大学での彼らの学び方・働き方・暮らし方のco-creationをどうデザインするか?」 noteにて、その探求のプロセスを順次公開していく予定です。

コメント1件

【補足】
(※)文中で、藝大の工芸科が表現力ばかりを追求しているとも取れる記述をしてしまいましたが、一概には言えませんね。
そもそも工芸の歴史を顧みれば、ひとの生活を支える知恵や工夫の積み重ねであるという側面は無視できませんので、日本の工芸という言葉にはデザイン的な意味が含まれていると言えるでしょう。
しかし実際、藝大の工芸科は実用面より表現的な魅力を追求しているように、僕の目線から捉えられますので、文中の表現を用いています。
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