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Yoichi Murata with Ivan Lins 《Janeiro》

2010年に村田陽一がイヴァン・リンスを迎えて制作した旧《Janeiro》リリース時に中原仁氏がアルバムに寄せて記したライナーノートを、2019年の《Janeiro》リイシューを記念して再録いたします。

 村田陽一が、ジャズを自分の音楽表現の基本言語としながらも、ジャズだけにとどまらずクラシックからJ-POPまで、音楽のジャンルという堅苦しい枠組から解き放たれた自由で多彩 な創造性を発揮し続けていることは、このCDを手にした方なら十分にご存知だと思う。しかし彼が、キャリアの初期からブラジル音楽とも関わりをもっていたことは、あまり知られていない事実かもしれない。当時から彼を知る者として証言しておこう。

 80年代半ば、プロの音楽家としてPIT INNなどのジャズ・クラブに出演を始めた村田陽一は、同時期に森本タケル&エラ・ヂ・エスチというサンバとショーロのバンドにも在籍していた。ちなみにそのバンドには、後にブラジル音楽のプロデューサーとして活躍することとなるドラマーの吉田和雄、ショーロクラブを結成し個人としても多彩なフィールドで活躍する笹子重治(ギター)と秋岡欧(カヴァキーニョ、バンドリン)、ジャンルも国境も超えて地球の鼓動を叩き出すヤヒロトモヒロ(パーカッション)など、今思い返せばそうそうたる顔ぶれのミュージシャンが揃っていた。
 1997年、初めてブラジル・リオデジャネイロを訪れた村田陽一は、 滞在中、エラ・ヂ・エスチ時代の僚友である吉田和雄がプロデュースしたミウシャ(ジョアン・ジルベルトの二人目の妻、ベベウ・ジルベルトの母)のアルバムの録音に参加。同年、小野リサのアルバム『エッセンシア』のプロデューサーをつとめた。また、自身のリーダー作を通じても何度か、アントニオ・カルロス・ジョビンの作品を取りあげてきた。
 このように、古くからブラジル音楽を愛聴し、関わりを持ち続けてきた村田陽一が、アントニオ・カルロス・ ジョビンと共に最も敬愛しているブラジルの音楽家、それがイヴァン・リンスだ。

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 イヴァン・リンスは1945年、リオデジャネイロ生まれ。70年代初頭から作曲家/歌手/キーボード奏者として活動を始め、『Somos Todos Iguais Nesta noite (今宵楽しく)』『A Noite(ある夜)』『Novo Tempo(ノーヴォ・テンポ)』などのリーダー作を通じてMPB(ブラジリアン・ポピュラー・ミュージック)を代表する音楽家となった。

 歌心あふれる美しいメロディーと洗練された高度なハーモニーに根ざしたイヴァンの音楽性は、USAの音楽シーンにも届いた。70年代末から80年代にかけて、クインシー・ジョーンズが自身のアルバムやジョージ・ベンソン、パティ・オースティンのプロデュース作でイヴァンの作品を取りあげ、他にもマンハッタン・トランスファーをはじめ大勢の歌手やグループがイヴァンの曲をカヴァー。彼自身もデイヴ・グルーシン&リー・リトナーの『ハーレクイン』やクルセイダーズのアルバムなどにゲストとして招かれ、リーダー作をUSA向けにリリースするなど、活躍の場を広げていった。

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 今世紀に入ってからも、スティングが歌ってグラミーを受賞した「シー・ウォークス・ジス・ アース(Soberana Rosa)」など、イヴァンの曲を取りあげる海外の音楽家は後を絶たず、 英語の歌詞がついた「ラヴ・ダンス (Lembrança)」「アイランド(Começar de Novo)」は現代のスタンダード・ナンバーとなった。今や、アントニオ・カルロス・ジョビンに次いで海外で最もカヴァーされる機会が多いブラジルの作曲家が、イヴァン・リンスなのである。

 さて、村田陽一とイヴァン・リンスの出会いは今から11年前、1999年にさかのぼる。
 この年の初夏、村田陽一は沖縄出身のシンガー/ソングライター、比屋定篤子のアルバムで数曲のサウンド・プロデュースとアレンジを行なっていた。 その中の「振りかえれば」という曲にイヴァンの音楽との相性の良さを感じとった彼は、「この曲にイヴァン・リンスのピアノとヴォイスをフィーチャーしたい」と熱望した。ちょうどこの録音の時期に、イヴァンがバンドを率いて来日し、 東京のブラジル・ライヴ・レストランに出演中というタイミングでもあった。突然のオファーではあったが、イヴァンは快諾してくれて録音への参加が実現。しかも彼は、その日の夜のライヴに比屋定、村田の両名を迎え、 録音したばかりの曲をライヴで初披露した。
 この時から2人の交流が始まった。村田陽一のイヴァンへの想いの深さは言うまでもないが、 イヴァンも村田陽一のCDを聴いて彼の才能に感銘を受け、その後も来日公演を行なうたびに会い、メールでのやりとりも続けてきた。そして「いつか一緒にアルバムを作ろう」という共通の意識が高まってきた。

 2009年3月、長年の夢を実現する時期が来たことを実感した村田陽一 は、来日中のイヴァンを訪れた。その際、彼がイヴァンに伝えたのは、 これはプロダクションやレコード会社が主導するのではなく、自分が制作費を負担した上で、純粋に音楽家同士のコミュニケーションを通じて行なうプロジェクトである、ということ。これにはイヴァンも両手を上げて賛同した。というのはイヴァンも現在は大手プロダクションに所属
せず、マネージャーはいるが活動はすべて自分自身のジャッジと責任において行なっている。2人の考え方も、お互いを取り巻く環境も一致していたのだ。
 そして準備期間を経て、2010年1月下旬から2月上旬、例年以上の猛暑が続く真夏のブラジル・リオデジャネイロで、このアルバムの録音が行なわれた。僕も2人を古くから知る者として、またブラジル録音を数多く経験してきた者として、相談役的な立場で同行させてもらった。

 グアナバラ・バンドという名前で録音に参加したミュージシャンは、プロジェクトのブッキング/コーディネートとスタジオでのディレクションも担当した名ドラマー、テオ・リマをはじめ、ほぼ全員がイヴァンのバンドのレギュラー・メンバーで、村田陽一とも懇意の間柄だ。初対面のベーシスト、ボロロー(ヂメルヴァル・フェリッピ)も、テオ・リマが率いるインストゥルメンタル・カルテットのメンバー。言わば、イヴァン のファミリーの中に村田陽一が飛びこんでいった構図になるが、海外のミュージシャンとの共演経験もプロデューサーとしてのキャリアも積んできた彼だけあって、自らしっかり舵を握りながら、和気あいあいとしたアットホームな雰囲気の中、録音が進行していった。

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 いっぽう、イヴァン・リンスは今までにも日本人の音楽家の録音にゲストで参加したことは何度かあったが、完全なコラボレーションという形で1枚のアルバムを作ったのは、もちろん今回が初めてだ。
 曲目は、村田陽一の新曲とイヴァンの既発の曲が5曲ずつ、そして2人の共作が1曲という構成になっている。
 村田陽一が、この3年あまりの間に書きためた100曲以上にのぼる新曲の中から約20曲をイヴァンに送り、アイディアを交換しながら選曲を絞りこんでいった。5曲ともイヴァンがキーボードを演奏、うち3曲ではスキャットも披露している。MPBを代表する作曲家のイヴァンが、自作ではない曲をここまでまとめて録音したのも初めてではないだろうか。彼のコメントを紹介しよう。

「ムラタのオリジナル曲をレコーディングすることは、私にとって新しい挑戦だった。ムラタの音楽という世界の中に入る、初めての経験だからね。事前に送られてきた候補曲をすべて聴いて、どれもムラタのスタイルとストーリーに根ざしたユニークな曲で、選ぶのに苦労したよ」。
 村田陽一のオリジナル曲の中には、いわゆる“ブラジルらしさ”とは異なるタイプの曲も多い。しかし、だからこそ、イヴァンをはじめとする共演者には新鮮に響き、創造性を刺激したことが、録音している時の彼らの楽しげな表情を見ていてハッキリと感じられた。そして彼らとの演奏を 通じて完成した曲からは、まぎれもないリオの空気、カリオカ(リオっ子)の息吹が伝わってくる。

 イヴァンのオリジナルからは、トロンボーンが生きることを念頭に置きながら、同時に彼の多彩な音楽性を俯瞰できる5曲を選び、村田陽一が新たなアレンジを施した。出典を紹介していくので、機会があったらオリジナル・ ヴァージョンと聴き比べてみてほしい。

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「セテンブロ」は「ノー ヴォ・テンポ』(1980年)で発表した歌詞のない曲で、クインシー・ ジョーンズが『バック・オン・ザ・ブロック』でカヴァーした。
「デゼスペラール・ジャマイス」は『ある夜』(1979年)から。今もイヴァンのライヴのフィナーレを飾ることが多い定番曲に、村田陽一のアレンジが新たな色調をもたらしている。
 イヴァンがアフリカ的なヴォイス・ハーモニーを加えた 「ヘイ・ド・カルナヴァル」は、初期のアルバム『モード・リヴリ』 (1974年)から。
 秋が深まる5月のリオを描いたサウダージ感あふれる「ヒ オ・ヂ・マイオ」は、アントニオ・カルロス・ジョビンに捧げたアルバム『ジョビニアンド』 (2001年)から。
「ポントス・カルヂアイス」は『アウア・イオ』(1991年)で発表した、切ないラヴ・ソング。
 そして最後に、2人が共作した「センチメンタル・フレンズ」。村田陽一が作曲、イヴァンが友情をテーマに歌詞を書き、デュオ+弦楽四重奏で録音した。10 年を越す交流を通じて培われた2人の厚い友情の証であり、このアルバムにこめられた物語のテーマ曲と言えるだろう。

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 こうして長年の夢と構想が形になったわけだが、これは決して到達点ではなく、ひとつの出発点だ。録音の1カ月後にあたる2010年3月、イヴァンはバンドを率いて来日し、 村田陽ーはオフィシャル・ゲストとして全ステージに参加した。また、その際に雑誌「ジャズライフ」 が企画し た2人の対談の席で、イヴァンは最後にこう言った。
「私にはもう、ムラタとの次のプロジェクトのアイディアがあるんだ。実現したら、さらにいインターナショナルな展開になるよ」。
 お楽しみは、これからだ。

2010.6. 中原仁/Jin Nakahara

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