ぼくは世界からきらわれてしまいたい #8

「ちょっと、あなた」

振り向くとアオマブタが気付かぬうちに、ぼくを突き刺すことができるくらいの距離にまで近づいていた。

「ずいぶん姿勢悪いわね、真っすぐに立てないの」

「え、すいません、緊張して」

「一回裏に来なさい。それじゃ立たせられない」

ぼくは地下の休憩室に連れられていった。テーブルの上にあった煎餅を戸棚にしまいながら彼女は言った。

「上半身の服を一度脱いで。テーブルに置いていいから」

そう言って女は奥の仕切りの向こうに消えた。ロッカーを開ける音やビニールの擦れる音が聞こえて、遅れてきた女の言葉の意味が、ようやくぼくの身体を動かした。シャツ一枚で待っていると、戻ってきた女は手に長いアルミ製の定規を持っていた。

「間抜けな恰好してないでそれも脱ぎなさい。誰も見やしない」

水の上でもがく虫のようなぼくの羞恥心を、駆除するみたいにアオマブタは言った。ぼくの上裸を、露出狂を落胆させる商売女の目つきで彼女は眺めた。

「歪みきってるわね」

そう言うと女はぼくの背後にまわって両肩を掴んだ。往年の重機のような力でぼくの肩と腰の位置を矯正し、均衡したポイントが見つかったのか、「動くな!」とぼくの腰をバチンと叩いた。身体を強張らせていると、肩甲骨のあたりに冷たい感触が伝わった。アオマブタはそうして、横一文字に定規をぴたりと押し付けると、テープでそれを固定した。同様に、背中の軸を定めるように縦一文字に定規が固定された。

「それがあなたの軸。常に意識なさい」

その言葉によって、突然背中に押し付けられたTの字は、呪いのような力をもってぼくにひとつの、馴染みのない骨格を与えた。

スーツを着なおして立ち位置に戻ると、ほどなくして目の前の往来がぼくに無関心なまま流れていくのを感じた。溶け込んでいる、とぼくは思った。与えられた骨格は、建物を構成する鉄筋コンクリートや、ディスプレイの服の下のマネキン、そういうものと同じ地平にぼくの存在を組みこんでいた。人間は人間の顔をしたまま、それを崩すことなくぼくの前を通りすぎていった。少なくともそこには犬の糞のようなものは落ちていないらしかった。

ぼくはインフルエンザの後のようなありがたい平静さで、往来の様子を眺めた。向かいのハイブランドのロゴが網膜から押し入ってくる強度、石畳の歩道をさまざまな足取りで進む男と女の、身に着ける装飾の輝きの度合い、それらは肉の腐食から人間を隔て守っていた。あるいは車の塗装の厚み、重力におうじたボディの上下運動の激しさ、それは人間の精神の推進力を祝福していた。

事物、装飾、肉体、精神、それらが人間の形を複雑に編みこんで、精巧な意味を彫琢する。クリアカットな価値の周辺を漂うものたちが、なじみやすい顔で世界に寄与している。

背後からの視線が値踏みし切り捨てるまなざしではなくなって、包みこむまなざしになっているように思われた。問題が解決した児童を見守る教師のような微笑みを、女たちは浮かべているのではないだろうか。その中心には、経験による洞察から問題を解決に導いたベテランへの敬意、アオマブタへの再認された敬意があった。敬われるべきもの、管理されるべきもの、それらが円満な関係を築き、理想上の社会主義共同体のような温和さを感じさせた。

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