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数学者としての自覚

少し以前まで、自分のことを数学者と名乗ることは勿論、数学者として紹介されることにも凄く自分の中で抵抗があった。
私には、既にある現行数学への強烈な拒絶という、あまりにも生々しい『体感覚』が先にある。その『体感覚』に数学のほうを【解体・変形】しながら自分に近づけていこうとしているのが私の取り組みであるから、私の数学は「こういう数学もあったらいいなあ」という絶望の淵に微かに見つけた《希望》をなんとか実現しようとする道である。
だから未だ数学以前、数学になる手前のもの、岡潔先生の言われる“情緒“を耕し豊かに育んでいるような段階。そして、私の情緒がようやく数学になっていく具体的な気配を感じ始めたのが最近なので、私はようやく自分を数学者として認識し始めたように思う。
その証拠に、ちらほら数学者と名乗ったり、数学者として紹介されることに抵抗が薄れていったりしている。
自分の『体感覚』が果たして数学になるのか、ならないのか。そもそも、そういうギリギリなところを掘っている。これは生涯を賭けた命懸けの取り組みである。私はどこまでも正気で生きたいと思っているが、常識的に見れば正気ではなく狂気でしかないように映るであろう。それでも別に構わない。どちらが正気でどちらが狂気なのか、もうすぐすれば自然と答えはわかるであろう。
また、肝心の『体感覚』は私個人の体験なので、基本的には孤独である。しかし、孤独のない独創はあり得ないし、それに同じく孤独な人と出会えば、孤独は消えぬがとにかく嬉しいものである。仲良しこよしは逆にお互いの足を引っ張り合う。孤独と孤独がぶつかり合う火花の中に、真実は現れると思う。
で、既にある数学を全く無視すれば、それは単なる空想、デタラメに過ぎなくなる。既存の数学体系の中に居ながらにして、しかしそれに染まることなく、自分の信念と歩もうとする道を見失わず、淡々と生きていくことが求められる態度である。
瞑想において、仙人のように山奥に籠るのではなく、社会という娑婆の中で過ごしながら、しかしそれに染まらず意識を高めていくことが重要で在る事と、よく似ている。
既存の体系・システムと、それが何であれ、染まらず飲み込まれず、その中に居ながらにして適切な距離を置くこと。静かに眺めるようように。戦わずして勝つ。戦ってしまえばもう、相手の思う壺である。罠にハマったようなもの。相手はいろんな罠を仕掛けてくる。よく意識を研ぎ澄ませて、なにが罠で、なにが道なのか、適切に識別すること。
私の探究は、数学ありきではない。極言すれば、なにも数学でなくともよい。だけれども、数学との接点を持つようにしたい。そういうものを生み出したい。創造したい。数学の範疇を遥かに超えたものへ関心がありながら、同時に数学との接点を持つように私の情緒を表現したい。なぜか?地球に生きている人間だからである。身体を持っているからである。神様に数学は必要ない。でも私は人間だから、数学を欲する。只それだけである。
天に高く伸びながら、地にも足を付けている状態。表現する喜びを見失わぬことが大切。意思と覚悟をもって、使命を生きること。私にとって数学は、使命をこの惑星と今世に於いて現すための、格好の素材・武器なのである。

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