金大中さんのこと

 今年は、日韓パートナーシップ宣言が出されて20年になります。未来志向の関係構築を示したもので、韓国の金大中大統領が小渕恵三首相との間で結びました。金大統領は、北朝鮮や日本との関係の改善を果たしたことなどが評価され、韓国人として初めてノーベル平和賞を受けています。今年に入って北朝鮮をめぐり、緊張緩和の動きが生まれています。金大統領のまいた種が、実を結び始めているのです。

 その日の夕方、私はソウルの自宅でテレビのスイッチをいれ、固唾をのんで発表を待っていました。
 ノーベル平和賞の発表でした。画面が切り替わり、ノルウェーからの特別番組が始まりました。担当者が、その年の受賞者の名前を読み上げます。
 「キム・デジュン」
 心臓に傷みを覚えるほど、ドキンとしたのを覚えています。うれしくて小躍りしました。
 2000年10月13日のことです。
 私は政治家としての金大中氏に心酔していました。ソウル特派員になる前には、彼の本をほとんど読んでいました。
 金氏は40年を超える政治生活で5回も殺されそうになりました。弾圧に負けず、民主化運動に生涯を捧げた政治家です。
 さらに4回も大統領選挙に出馬し、1997年には遂に勝利し、大統領になった苦労の人でもありす。

●あだ名は忍冬草

 あだ名は「忍冬草」です。冬の寒さをじっとしのぐ姿から、そんな名前がついたのでしょう。
 任期中、歴史に残る仕事をいくつも成し遂げています。
 2000年6月に平壌で開かれた金正日総書記との南北首脳会談は今でも印象に残っています。
 それだけではありません。1998年に小淵恵三首相との間で日韓共同宣言をまとめ、歴史問題でジグザグしてきた両国関係を安定させています。
 私がソウルに赴任した1999年3月、金氏はすでに大統領職にいました。近くで接する機会が何回かありました。
 最初は金氏が訪日を前に、日本メディアの在ソウル特派員と懇談会を開いた時でした。
 テーマはもちろん日韓関係です。金氏は日本語も話せるはずでしたが、全て韓国語で通していました。
 時々、自分の話を日本語に訳す通訳に向かって「今の訳は正確ではなかった。こういう意味だ」と、小さく声をかけていました。日本語は子供時代から習っていたので、我々よりも発音がきれいなほどでした。

●見習いたい寛容の精神

 話を聞いていると、剛胆な民主運動家というより、繊細な思想家といった印象を受けました。
 もう一度は、青瓦台(大統領府)で開かれた式典でした。金氏は夫人とともに招待客の方に歩いてきたのですが、歩き方はぎこちなかったのです。
若い頃テロの疑いの濃い交通事故に遭い、足がやや不自由なのでした。
 金氏は軍事独裁政権下で6年間収監され、読書に打ち込みました。歴史書を数多く読み、思想を深めたといいます。
 その刑務所の部屋は、いまも保存されており、私も見学に行ったことがあります。
 ソウルの自宅の地下には膨大な蔵書がありました。今その本は、自宅脇に建設された図書館で一般に公開されています。
 金氏は、「相手に対して寛大な国が栄える」「平和的に話し合い、双方に利益を」と説き、北朝鮮との南北関係や、日韓関係を見事に動かしました。
 北朝鮮の核問題をめぐって緊張していた北東アジアは今年に入って、対話ムードが生まれています。
 金大中氏が説いた「寛容の精神」を見習い、真の和解を実現したいものです。

地域紙への寄稿です。数年前のもの

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