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命がけで海外に渡った人たち⑤ 日本人初のハーバード大学ロースクール卒業生の悲しい結末 井上良一

ハーバード大学に1度行ったことがあります。10年ほど前でしたね。ボストンに行く機会があったので、せっかくならとキャンパスを訪ねたのでした。

この大学って、もう伝説の存在ですよね。教育水準はもちろん、学費の高さ、入学の難しさも米国、いや世界でも指折りでしょう。

最近、日本の高校生も卒業後、そのまま海外の大学に行くケースが増えていますが、ハーバードに入るのは今も至難の業でしょう。

さて、それでは、日本で最初にこの大学で学んだ人は誰なんでしょうか。

正解は、福岡出身の井上良一です。帰国後は、日本人初の東京大学教授になり、法律を教えました。ええ、そんなキラキラ経歴なのに聞いたことがない? それもそうかもしれません。

彼は、ボストンに馴染み、米国社会に慣れ親しんだゆえか、最後は非業の死を迎えてしまったからです。

井上良一(よしかず、通称は六三郎)は福岡藩出身です。貧しい家の生まれでした。

幼くして父を喪い、一時僧籍に入りましたが、元治元(1864)年13歳の時、筑前藩主黒田長溥の命により長崎および江戸で英語を学ぶことになりました。

今から200年近い前のこの時代に、英語の重要性を見抜いていた藩主の判断は、見事というしかありません。

将来性を見込まれ、慶応3年(1967)、16歳の時に藩の留学生に選ばれ、ボストンで英語を学んだあと、現地のハイランド・アカデミー(ウースタ—兵学校)に入学。優秀な成績で卒業しました。

政治学や法学に関心を持ち、猛勉強の末、日本で巴婆土法律校と呼ばれたハーバード・ロースクールに入学したのでした。

ハーバード・ロースクールの若き講師オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュ二アと出会ったのもこの時です。後にハーバード教授、さらには最高裁判事となる逸材でした。

井上はホームズの弁護士事務所で勉強することになりました。

明治7年(1874)23歳で法学士の学位を取得した井上は、日本人初のハーバード大学卒業生として帰国し、東京英語学校教諭、東京開成学校教授補を歴任します。

明治10年(1877)に東京大学法学部が設立されると日本人として唯一、教授に就任しています。

慶応大学の創始者、福沢諭吉も、その才能に注目していたという井上。猛勉強で人生を切り開いただけに、勝ち気で同僚と論争することもしばしばしばあったようです。

また、子供時代からあまりにも長く英語だけの世界にいたため、日本語を書く能力が身についておらず、論文はほとんどありません。

彼の授業は英語が交じることが多く、学生は聞きにくかったそうです。

日本の社会に馴染めず、孤立することが多くなっていきました。いったん静養しますが、その後も「世間の様子が変って、何だか自分を除け者にする様に感じていた」との指摘もあります。
井上は明治12年(1879)に突然発作を起こし、屋敷内の古井戸に身を投げて、28歳の短い生涯を閉じています。

 青山霊園にある井上家の墓所には、井上良一の顕彰碑が建立されています。彼を育てようとした福沢諭吉、同郷で、ボストン留学の後輩に当たる金子堅太郎、團琢磨、菊池大麗など、著名人の名前が刻まれています。

参考
明治史研究雑纂 手塚豊著作集 慶応通信
最初の東京大学法学部教授井上良一略伝


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