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2/9 好きというのが恥ずかしくて言いづらいタイプの作品たち

今日は出勤日、よく働いたがやるべきことは山積みというか、一つ解決したと思ったらまた問題が発生して振り出しに戻るみたいなことばかり。仕方ない、新しいプロジェクトをやるというのはそういうことだ。何事も一筋縄ではいかない、トライアンドエラー。
人と話したり考えたり手を動かして色々試したりというタイプの仕事は、パソコンに向かって作業するよりも仕事してる感がないが、その割にあっという間に時間が過ぎてしまって焦る、ただおしゃべりして遊んでるだけみたいに見えるし。

仕事を健康的な時間に終えて帰宅して、まずは今朝見つけた演奏会のライブ映像を見た。フィリップ・セリヴァノフという指揮者とロシア国立ユース管のチャイコフスキーの4番。ライブ配信の後アーカイブが残らなくて見逃したかと思ったら、後半だけ公開されてた。ラッキー。

フィリップのことは最近知ったのだが、彼にはテノール歌手のお兄さんがいて、今はボリショイに移籍してしまったのだが以前はマリインスキーで歌っていた。彼がヴァインベルクの『白痴』でムイシュキン公爵役で歌っていて度肝を抜かれ、それ以来推している。とはいえボリショイに移籍してからしばらく経つので全然生で聴けてない。モスクワまで聴きに行かねば。

指揮者の弟の方は昨年開催された第1回ラフマニノフコンクールの優勝者、ゲリコンオペラで振っているらしい。30歳くらい。
ラフマニノフコンクールの配信を聞いた時には、派手なところは勢いがあっていいけど他はまあまあ、くらいにしか思っていなかったのだが、今回のチャイ4はフレージングにものすごいこだわりを感じた。意地でもぶつ切りにならない1stヴァイオリン…。4楽章は持ち前の疾走感という感じ。バイアスかかっているかもしれないが、やっぱりオペラ向きなのかもしれないな、と思ったりもする。好みど真ん中かと言われると即答で首を縦には振れないが、引き続き気になって入る。それにしてもユース管は相変わらず上手くてビビる、どういう人たちが集められているんだろうか。


『リリィ・シュシュのすべて』という映画を観た。岩井俊二の映画は高校生の時に触れてからかなり好きなのだが、アニメ化されていたりとか、世界観がいかにもサブカルというか、斜に構えた若者が好きなタイプの雰囲気を醸しているので好きと公言するのは少し恥ずかしい、という自意識が働きがちである。同様のことが村上春樹やサリンジャーにも言えるが、最近は吹っ切れて好きを公言してもいい気もしてきている。

映画内ではハンディカメラで撮ったようなカットが多用されている。以前義兄が実家のビデオカメラのデータを突然データ化してくれて、それをみんなで視聴するという謎イベントが発生したのだが、その時に「ハンディカメラで撮った映像はひとつひとつが長く、ずっと回しているような撮り方をされていて、今我々がスマホで撮影するような動画とは全然違う。今は本当にいい瞬間だけをパッと撮る、ひとつひとつは数十秒と言ったものが多いが、いわゆる90年代から00年代にかけてのビデオは前後の無駄な時間が含まれていたり、撮影する対象が具体的に定まっていないものがあったりする」というようなことを言っていた(かなり私の主観的な補足が多いしその割にうまく説明ができていない、彼はもっと短い言葉でふわっとこんなことを言っていた)。

つまり、きっとみなさんのお宅にも眠っているであろうビデオテープというものには、なぜその日にわざわざビデオカメラを取り出して撮ったのか不明ななんでも無い日にただ子供が遊んでいるだけの特に映像映えしない動画が数十分にわたって撮られていたり、「撮ってるよ」なんていうお父さんの声が入っていたりすることでしょう、ということだと解釈した。幼稚園の入園式とか、ピアノの発表会とか。今は長くとも1分以内のいわゆる「映える」瞬間だけ撮影するけれど、昔のビデオほど、よくわからないシーンが残りがちなように思える。

映画内の、登場人物たちのビデオカメラによって撮られているであろうカットにも似たようなものを感じた。そしてそれらが脈絡なく切り替わっていく様子も、子供の頃のビデオを彷彿とさせる。尤もこの映画が撮られたのは2001年ということなので、こういうホームビデオが現役の時代ではあるのだが、映画としてこういうカットが残っているのは面白いというか、まあとても雑な言い方をすれば懐かしいといったところだろうか。めちゃくちゃ若い高橋一生が見れます。バラバーノフよりも岩井俊二の方がノスタルジー。そりゃ日本人だから当然だ。

今日昼間に一瞬オフィスを出たら太陽が眩しくて感動した。写真は出勤時刻のもの。だいぶ明るくなってきた。

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