老夫婦

価値と環境。

 その日は学友との卒業旅行へと参加したのち、札幌へと帰る学友らと別れ次の目的地へと向かうべく、関西のとある地域を電車で移動していた。二人がけの席が左右に対になって並ぶ形の車両で、幸い僕は座れたのだが席はほぼ埋まっている状態であった。年の頃60〜70歳であろうか、車内に立つ1組の老夫婦が僕の目を惹いた。正確には男性のいでたちが洒落っ気に満ちていて、特にアウトドアブランドのロゴが入った明るいグリーンのハンチングがなかなか小粋であったのだが、それが何故だか僕の関心を強く呼び起こしたのだ。奥方らしき女性も、旦那の着ている春らしい薄紫のストライプ柄シャツと同系色のブラウスが、年相応の美しさを醸しているようだった。


 なんとなしにその二人に注目していると、やがてその夫婦の立っていた位置に近い一席だけが空いた。すると男性の方が、迷わず、といった歩調で進行方向やや前方にあったその席を占めた。奥方は黙っていたし、特に改めてその席の側に寄り添って立つ事はなかった。旦那も特に気にとめる風も無かった。


 旦那の方が座ってから一駅、二駅ほど過ぎた頃だろうか、ちょいちょいと旦那の方が妻のいる方向へ手招きし、それから親指を車両の後方に向けた。奥方にはこの合図の意味が伝わっていないようで、意味を図りかねる、といった顔をしてみせた。旦那はこの動作を3回繰り返し、なおも奥方には伝わらなかった。旦那はとうとう業を煮やして呼び寄せ、ほんのわずかな間だけ自分の妻に耳打ちした。すると奥方は車両の後方へするすると歩き、80歳以上と思われるかなり高齢な女性に一言だけ声をかけ、その二の腕を掴んで旦那のいる席へゆっくりと近づいていった。旦那の方は、妻に腕を掴まれたその女性が席に近づくと黙って席を空けた。高齢女性の方も余計な押し問答などせず、二人に対して軽く礼を述べると滑らかな所作で席に着いた。しばらくは二人並んで横向きに走る外の風景に目を細めていたが、僕の気がつかないうちにいなくなっていた。


 昨年亡くなった僕の祖父も、身内に厳しいが弱い立場の人をほっとかない人だった。主に男性的なさっぱりした性格、粋な様子を表す「いなせ」という言葉があるが、僕に祖父を思い出させた小粋なハンチングの男性はまさに、そんな人生を送ってきたのだろう。


 日本は今、「男性は〇〇である」「女性の幸せ」などという表現に最大限の配慮が必要な国である。一人一人が自分の幸せを追求できること以上の価値など考えられない今の僕としても、そのような変化はどちらかといえば望ましいものである。それでも、歴史や社会的な背景を一切無視した画一的な価値観でしかモノを観ることが出来ないとすれば、男女同権や性の多様性を認めることを求める声もまた、人間の築いてきた文化と、その中で生きてきた人間に対する暴力になり得る。僕の大好きな落語の中にも、男性優位的な価値観や結婚制度の中でこそ生まれた滑稽噺が多くある。それを肯定するでも否定するでもなく、ただそのようなものとして情景を切り取り、楽しむだけの文化的深さ、社会の懐というものは、今の日本にはあり得るのだろうか。

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