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冷えとりファッション展を終えて

冷えとりファッション展に向けて準備をしているときにこの氣持ちの変化は残しておきたいな、とちょこちょこ下書きにしていたものをやっとまとめることができました。
長いですがお付き合いいただけたら嬉しいです^^


春分を超えて数日たった頃からか少しずつ少しずつ不安に包まれていった気がする。
(ついでに春分の数日後ものすごく眠い日があったのはなんだったんだろう。そのあたりは氣持ちの重さも手伝って何も縫えなかった)

情報に触れすぎたのも原因のひとつかな。
それから、わたしは怖かった。コロナちゃんに対する不安は皆無なのだけれど、コロナちゃんに対する人の反応、政府に怒ってる人の言葉や波動、そういったものたちに触れすぎて怖さと不安でいっぱいになってしまったのだ。
(わたしが自らその波動につっこんでいったし、そこに反応するということは同じ氣持ちがわたしの中にもあっただけであって怒っている人たちが悪い、ということではないですよ)
みんなでみんなを監視し合う風潮。人が集まっていることへの不安からの怒り。ガイドラインなるものがはっきりしないのだからいろんな選択があって、そこにも不安がある人は怒っていた。
だから、こんな時期に開催してどう思われるだろうか、、久しぶりに外からの視線が氣になって氣になって。いま思うとそれは子どもの頃の息苦しさのようだった。自分を見つめずにどうしたら周りに受け入れられるのかを基準にしていた自分の子ども時代を。ああ、だからあんなに苦しかったのだ。

今思えばそれはたった数日のことのはずなんだけど、とても長く感じた。
自分の重さに氣がついたわたしはまずツイッターを見ることをやめた。言葉にやられていることがわかっていたから。そして、内観。

そこにはさまざまな種類の怒りがあった。
重い重いジャッジと共に、、
その怒りを観察するうちに一筋の光が感じられた。
「自分の態度を自分で決めることが必要だ」 

その氣づきと共に少し軽くなって息もしやすくなった。そこで、いかに重い波動をまとっていたかに改めて氣がついた。

運良く次の日は素敵なティータイム。
明日のティータイムを過ごした後に自分で決められるだろう。そう思った。

態度を決める、とはどういうことか。自分の中ではずっと決まっている。自分に違和感なく過ごすこと、のみ。
普段の生活ならわたしの場合そんなに難しくないことだった。自宅でミシン仕事をしているからもともと引き篭もり生活みたいなものなのだ。
ただ、今週末からのポップアップをどうして良いかわからなくて迷子になってしまったのだ。

コロナちゃんに対して不安を感じたことがない(ゼロではないかも?でもそこにフォーカスする氣がないの)から自粛は違和感がある。かといって、準備は若干滞ってる、、自粛するならのんびりできる??という悪魔のようなささやきが聞こえてくる。でも、それはなんだか逃げてるみたいで昔の自分のようで心地悪い。そして、ポップアップへのワクワクはしっかりある。でも、周りの反応は、、

と、堂々巡りを頭の中で繰り返してたら疲れてきた。すでに周りの反応とか言ってる時点で外向きになってて、自己一致なんかない、のにこのときは考えすぎてわからなかった。

そのわからなさ、先の見えなさから外への怒りが募ったのか。もんもんむんむん、時間だけが過ぎてゆく。

一筋の光を感じながら参加したティータイムは素晴らしい時間だった。
いつもと変わらずおしゃべりできたことがすごく良かった。怒ってることをそのまま話せたのも良かったな。この日わたしは、ポップアップ開催の有無に関わらず、準備を楽しむ、と決めた。

急に視界が開けていくようだった。(この日、気持ち悪くて一晩眠れなかったのだけど、自ら纏った怒りや重い波動を出していたのかも、と後から思う)
次の日も友達と自分が怒ってることを話せたのが良かった。感情を俯瞰で見ることができた時点でその感情をすでに手放しているのかもしれない。

数日進んでいなかったポップアップの準備も思ったより進んでた。
そして、さらに次の日声のメルマガ配信日。
びっくりすることが起きた!

葉書が読まれたのだ!!

嬉しいやら自分の文章が氣になるやらそわそわ、居心地が良いんだか悪いんだか、、
そわそわは相変わらずの無価値観からだ。もうほんとこの無価値感、飽きてきた。淡々と統合するしかない。

それよりも!この流れがすごい。

なにかを打ち破ったからこういうことになってるのかも、と友達からの言葉にまた目が覚める。思想が先か結果が先か。

いままでは、壁というか新しい道に頑張って到達していく意識があった。
でも、いまは淡々と自己一致にフォーカスしていたらいつのまにか新しい道に出ていた、そんな感覚。新しい道というのは結果であって、目的ではないのだなぁと。うまく説明になっているかわからないけれど、そもそもの間違いをしていたのだといままでの苦しみを想う。それもこれも必要なドラマだったに過ぎないのだけれど。

そして、ポップアップの開催に際して、ひるねこさんと相談は特にしていなかった。でも、SNSで毎日わたしは作品をアップしていたし、ひるねこさんのSNSからもなにか感じるものがあって、楽しむと決めた後は、開催に関してはただただ決定を受け入れようと決めていた。
そうして、声のメルマガで紹介していただいた後くらいだったかな。
SNSで予定通り、の文字を読む。ああそうなんだ、とひるねこさんへの深い感謝の氣持ちとともにただただ自分にできることをやろうという落ち着いているわたしがいた。表現できる場所があるのは幸せなことだ。

コロナちゃんのおかげで毎日何が起きるかわからなくて、結果それは常に「いま」をわたしに意識させた。そのことがすごく良かった。
開催されるかどうか不明なのだから本来なら出てきそうないろんな心配や欲が出てくる隙きがなかったのだ。(お客さん来てくれるかな、売れるかな、もっと縫ったほうが良いかな、、などの期待と心配のまぜこぜのものたち)
結果、余分な力が入っていなくてわたしは毎日リラックスして、その日その日を楽しむことができた。

来客もそもそもがないのが前提だから一人でも来てくれたらそれは嬉しくて、本当にありがたい氣持ちがあふれた。
こんな時期だからこそ同じ感覚でおしゃべりできることがとてもご褒美のようだった。

行きたかったけど外出に難しさを感じて、と連絡をくれた方も何人かいて、もうその氣持ちだけで嬉しかった。
そんなやり取りひとつひとつにも愛を感じて、あれ?なんて幸せな世界にいるのかしら?なんて思ったり、嬉しくニヤニヤしたり。

本当にご褒美の3日間だったなぁ。

ぜんぶぜんぶ必要なことが起こっている、ただそれだけなんだと思う。
いまも不安にやられそうな方は、まずは不安がっている自分を抱きしめてから、その後その不安を覗いてみてほしい。何かヒントになることがつまっているはずだから。

コロナちゃんは光が強くて全部を照らしてくれるから、見たくなかったことまで浮き彫りになっている、そんな風に感じます。

わたし自身、この期間にたーくさんいろんな自分と向き合うことになっていて、それは今も続いています。
若干しんどいときもあるけど、俯瞰で見ると全部ギフトだし必然に思える。
もうね、感情のドラマに入ろうにも一瞬しか入れない(浸れない)わたしがいるのですよ、、

あら、わたしったらちょっとは頼もしくなったのかしら♪
なんて思います。

もちろんいろんな外の情報に反応することは多々あります。
その反応している自分を観察するのが大事だなーと思うようになりました。
まだまだきっと世界は変わっていきますね。
こんなときだからこそよりグラウンディングを意識していこうと思う日々です。

この時期を経てまたわたしのものづくりは変化していくのでしょう。

それでは、また!



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