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ようこそ、シンガポールへ

空港はどこの国も似ている。近代的で、清潔で、よそよそしくて。それでも、不思議なことに一呼吸しただけで、ここは異国なのだと分かる。

シンガポールについたのは朝。夜のフライトでろくに眠れなかった体に、南国の朝の日差しはとげとげしい。化粧もせず、髪も整えず、薄手のストールで顔を半分隠して、朝からすでににぎやかな空港を出る。タクシーに逃げ込む。効きすぎたクーラー。甘い匂い。アクセントの強い英語。外を眺めると、濃く太く高い南国の樹々。その先に屹立するぴかぴかの高層ビル群。

ようこそ、進歩と未来の国、シンガポールへ。

朝のシンガポールは、真新しいスーツのビジネスマンのように自信あふれている。今の私には、そのエリートぶりが厭わしい。眠ろう。現地の駐在員が、ホテルの仮眠室を押さえてくれている。チェックインまで、そこで穴熊のように潜んでいよう。

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フライトの8時間前、私は恋人と話し合いをした。何度目かの、気の滅入る話し合い。明るい未来を目指して話し合うたびに、泥沼により深く沈み、より遠く離れていくような虚無感。それでも話し合うしかないと思っていた。その日も、二人は言葉を尽くした。もうこの泥の中ではどちらの声も届かないと、うすうす気づいていたが。
ふいに彼がもう別れると言った。私はそうしようと言った。突然の終わり。合わなかった歯車がいよいよ外れたような、潔さ。必然だよね、とお互い思った。

私は家に帰り、コーヒーを飲んだ。しばらくテレビを見て、パックしておいたスーツケースを持ち空港に向かった。空港の和食屋で一人飲んだ。友達に別れたと報告メールを送った。

もう30代後半。仕事もプライベートも同じようにこなせる。マニュアルに従い、スケジュールをたて、納期を守り、ホウレンソウもかかさない。そして私は失恋というトラブルに対処し、澄みきった心で出張に行くのだ。水茄子を勢いよく噛みきった。

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ホテルでの仮眠は心地よかった。つかみどころのない夢を2つ見たが、それはそれできれいだった。

お昼前、現地駐在員が迎えに来た。若くてくったくのない笑顔。シンガポールがよく似合う。
さてさて。仕事仕事!シンガポールのような笑顔を返した。

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仕事は上々の出来だった。お客様にも喜ばれた。
私はきりりとした緊張感とオープンな笑顔で、自信に満ちたビジネスウーマンという役割をきっちりこなした。

軽い食事のあと、一人でホテルに戻った。
ふらりと、ホテルのバーに行った。テラスに席を取った。いつの間にか降っていた雨で、道路は濡れてきらきらしていた。雨上がりの夜の風は涼やかで、熱帯の樹の大きな葉が揺れる度に、ネオンを反射し、遮り、複雑な模様を描いた。遠くのクラブの喧騒も、この夜の中では柔らかく響く。

ビールが来た。
よく冷えているが、泡はほとんどない。
グラスを持ちあげる。水滴が指を濡らす。光が反射し、グラスのふちがきらめく。金塊よりも魅惑的な金色が、私のアクセサリーになる。

ああ、今の私、好きだ。

かつて夢見ていたのは、子供3人の肝っ玉母さん。それは、私の母そのものでもある。どこかしら、そうなれない自分がみじめだった。だから、合わない歯車をはめようとした。結婚してくれそうな人に飛び付いた。
でもその私を、私は少しも好きではなかった。二人で交わした結婚後の生活プランも、どこか他人事で心踊るものではなかった。

今の私。
独身で、失恋して、仕事して、異国で一人でビールを飲む。これが私。これが私が好きな私。よかった、ここに来て。よかった、仕事をしてて。
ビールを勢いよく飲んだ。おいしい。冷たいビールが私の心を踊らせる。

ようこそ、進歩と未来の国、シンガポールへ。

ビールの向こうにが色とりどりの光がきらめく。歯車がかちりとはまる。夜はこれからだ。

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