見出し画像

根の深い毛の悩み 生えていても生えていなくても

髪の毛がなくても悩むし

最近、ヘアドネーションもルッキズムの助長ではないかというハフィントンポストの記事を読んで、私も苦しんでいた(私は生えているほうの悩み)、毛の有無を巡る大変さを思い出しました。

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_633f7364e4b04cf8f36bffc5

ハフィントンポストの記事は、「ウィッグをつくるということは、髪の毛が生えているほうがいいという価値観の押しつけになるのでは」という問題提起と、必要なのは、ウィッグをつける/つけないを当人が自由に選べるような寛容な社会になることが大事なのでは、という論旨の内容でした。
どうして、生えているべきと思われているところに生えていないと人知れず悩み、生えていては格好悪いと思われているところに生えていると必死に"処理"しなければならないのかな、といつも思っていました。本人がこの闘いから降りればいいだけかもしれませんが、こと「毛」に関しては降りにくい。

大学に入るまで毛深かったから

大学入学後に、母が大枚をはたいて(その当時は、今のようにリーズナブルなレーザー脱毛はなかったので)両手足をニードル脱毛(医療針脱毛)させてくれました。細い針を毛穴に入れて電流を流し、発生した熱で発毛組織を破壊する脱毛方法なので、レーザーより時間もかかり(1年ほど)、痛みもかなり強くて、皮膚科で施術してもらっていましたが、通うだけでも大変でした。
このお陰で、思春期までの苦しさを忘れつつありますが、小中学校ではブルマーで太ももまで晒すのはいつも憂鬱だったこと、プールの時期は「テープ脱毛しなきゃ」とか「脱毛器で処理しなきゃ」と母娘で奮闘していたことを、いまだにほろ苦く思い出すときがあります。多分、髪をアップしたときなんかに襟足が綺麗だったり、何のためらいもなくホットパンツ(!)を履ける人なんかには、わからない辛さです。こういう類いのコンプレックスの方が払拭しにくいと思う。

「みんなちがって、みんないい」になればいいけれど

かく言う自分が、こうやって永久脱毛をして、社会の固定観念や無意識の差別に乗っかっているわけですが、最近は、顔のうぶ毛(ヒゲ的な…)を何とかしたいから家庭用光脱毛器を買おうかと検討していたり、年老いたときのためにVIO脱毛をしておいたほうがいいんじゃないかといった具合で、まだまだ「毛退治」を終わりにできていません。
「あるがままの自分を愛する、認める」というキーワードが、近年よく話題になりますが、どの時点の自分を、どう受け入ればいいものか、程が決められずにいます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?