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ENIGMAーHole_vol.2

リサーチの参考資料として、マルグリット・デュラスの『モデラート・カンタービレ』 を読了。


美しい言葉たちが作り上げた、詩的で不思議な世界の穏やかで緩慢な時間のなかで、徐々に現実と幻想の間で浮遊する存在となっていくブルジョワ階級の女性アンヌの物語。

港町のある酒場で情痴殺人事件が起こる。その酒場の近くで息子のピアノのレッスンに来ていた主人公アンヌが事件直後の現場を目撃、それ以降毎日繰り返し酒場を訪れ、酒場にいる男と毎日繰り返し事件について語る。彼らはほとんど事件の実体も真相も知らず、会話の中身は根拠のない噂話を超えるものではないのだが、事の真相は彼らにとってどうでもよいのであって、事件について語ることそのものが二人の関係を形作っていく。二人の会話は、内容より語ることそのものが重要で、語ること=行為なのだ。彼らは次第に、自分たちが虚構の「事実」を語っていることに『モデラート=普通の速さで、カンタービレ=歌うように』無意識から自覚へと移行していく。

アンヌは殺人事件の被害者である女の物語を、言語によって、あたかも自分自身の物語として象徴的に体験する。それは、すでに終わった物語を鏡の中で生きる体験のようだ。それはイメージが反転する世界、割れた鏡の破片に歪んだ自己像が映し出されるような自己分裂の世界。
アンヌは時間のない幻想空間を作り出し、そこに自らを閉じ込め、現実と幻想の価値を逆転させていく。他人の生きた時間を共有することや、自分自身が経験しなかった出来事の原因へと至ることは不可能だ。他者に属する時間を所有するために、幻想や想像によって実体験とは別の回路を作り、未体験の出来事の代替をつくる。

この小説では、時間の規則性を印象付けるような指標が並び、強調された時間の反復表現は、主人公アンヌを圧迫するような存在として機能している。
行間からは少年の弾くピアノ曲がモデラート・カンタービレのニュアンスを帯びて流れてくる。何度も繰り返される旋律のリフレイン。知っているような、知らないような、聞いたことのあるような、ないような、優しいような、悲しいような、夢なのか、現実なのか。無意識に何度もめぐってくる情景は、自分自身がどこにいるのか曖昧になり、透明な空間にふわっと落ちていくような感覚になる。

幻想と現実の間の透明な穴に向かっていったアンヌに思いを巡らせた。


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