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30代を終えた

今年の3月8日で30代を終えた。3月9日に40歳になったと言うべきだろう。ただ、自分の中では30代が終わったという感覚の方が強い。30代最後の日は日常と地続きのよくある金曜日だった。

色々あった30代を無事終えた記念に10年間を振り返ることにした。

2014年 30歳

30歳の誕生日は台湾で迎えた。30代は特別なものにしようとしていたのか台湾旅行を3泊4日で組み、誕生日を間に入れた形にした。

私は以前から過眠してしまうことがときたまあったのだが、このときもそれに悩まされていた。

当時、Twitter のように使っていた Facebook を掘り返したらこんなことを書いていた。

『つい先日30歳になったわけですが20代を振り返ってみるとなんか保守的だった気がします。30代はアグレッシブに自分のやりたいことをちゃんとやろうと思います。で、何やりたいの?っていうのを探すところからスタートするので、最初の1年目は迷走するかも知れませんが何卒よろしくお願いいたします。なにやろ』

雨の台北

2015年 31歳

31歳は以前から悩まされていた過眠について向き合うために睡眠外来に行くことにした。ただ、あまり過眠については扱っている感じでもなかったため1回行っただけでやめてしまった。過眠の症状は変わらず、たまに1日だけでて次の日には何事もなかったかのように回復する感じだった。

カメラは以前からもっていたが、メカ好きなので入門機はないカメラを持っていた。カメラを使う機会が旅行ぐらいしかなく、この年を振り返ると福岡や松本に行ったりと旅行を楽しんでいる一年だった。特に梅雨直前に行った京都の寺に苔は綺麗だった。

カメラの被写体を求めて前から興味があったグラビアアイドルの撮影会に飛び込んでみることにした。撮影会の雰囲気が全く分からず怖かったが、いい方が多く純粋に楽しめた。ただ、写真の公開がNGのことが多く見せられないのが残念である。

そういえばこの年、上野東京ラインが開通したようだ。高崎線沿線で育ったため、終点と言えば上野、もしくは池袋だった。それが両方とも崩れ、「ここが変わるんだ!」と感慨深かった。

苔の海

2016年 32歳

新卒で入って約8年間勤めていた会社を辞めた。一般的に、転職というと転職先と入社時期を決めてから勤めている会社に辞めることを伝えるらしい。私の場合、なぜか辞める時期だけ決めていた。転職先を探していたが色々と折り合わず、辞めると決めた時期が近づいてきた。結果、自分の気持ちを優先して転職先が決まっていない状態で辞めることにした。

有休消化期間にちょうど Maker Faire Bay Area が行われた。本場の Maker Faire を見に行く企画が同僚内で立ち上がり、4人で見に行った。宿泊代や場所に困るが、転職でアメリカのシリコンバレーに引っ越した元同僚にお願いし、泊まらせていただいた。Maker Faire Bay Area はサンマテオで行われた。サンマテオはシリコンバレーど真ん中の街である。その環境でアメリカ西海岸の広さを感じた。また、ほとんどが晴れで空気が乾いていること以外は大変過ごしやすかった。

転職先は結局決まらず、1ヶ月ほど無職になり、スタートアップに転職した元同僚に拾ってもらう形でフリーランスになった。順調に仕事をこなし10人にも満たない会社の社員になった。社員にならないかと言われたのは恵比寿横丁で、飲みの場にしてももうちょっと静かな場所でも良かったのでは? と思った。

本場のMaker Faire では柵もなく火を噴きまくっていた

2017年 33歳

この年は休む日はあるものの順調に仕事をこなしていった。今までと変わらず旅行もしたしグラビアアイドルの撮影会に行っていたりもした。

ただ、年末にかけて身体の具合が悪くなり、とうとうたまに1日ほぼ寝た状態になったりした。1日経てば復活するため、疲れが残る日があるんだぐらいに考えていた。この症状がひどくなり、3日ほぼ寝た状態に変わった。その後、2週間ほどろくに生活ができていない症状に変わった。どういったことになるのかというと3日に1回ご飯を食べるだけになり、あと水を飲むのとトイレに行く以外何もしない生活を送る感じになる。2週間このような生活を送っていると顔の形が変わる。体重が 5 kg ほど落ちていたようだ。

夜に寝て、起きたら夜になっているため症状が出ている時間に病院に行くことは難しい。ただ、何か異常はあるはずなので症状が出ていないタイミングでMRI込みの人間ドックを受けた。結果、異常はなかった。栄養が足りていないのではと思い、近くの薬局に行き漢方薬を処方してもらった。ただ、症状は改善しなかった。

症状が出たがなんとか17時前後に起きられた時があった。外に出る準備をし5分ほどにある内科クリニックに行けた。疲労感がすごく夜に寝て夜に起きていることを先生に伝えた。その症状だと橋本病の疑いがあるとのことだった。そのため、血液検査をすることになった。1週間後、検査結果を聞きにクリニックに再度行った。橋本病の診断では甲状腺ホルモン値を確認するが、しきい値よりギリギリ低いけど問題ない範囲ということだった。

クリニックの先生から「また症状が出るようだったら心療内科を受けてください」と告げられた。特にストレスとかを感じていたわけではないので心療内科がピンと来ず、不思議に思った。ただ、率直に受け止めて比較的元気なときに心療内科を受診した。疲れが取れない感じがしよく寝てしまうこと、ストレスに感じているものは他にないと伝えたが、適応障害という診断になった。うつ病薬を処方され、言われたとおりに飲んでいた。この薬は副作用がひどく身体が慣れる2週間ほどずっと吐き気、おなかがはる感じに苦しめられた。

薬を飲みながらなんとか働いていたが結局症状が再発し休職することになった。

当時住んでいたところより

2018年 34歳

この当時も10人にも満たない会社に勤めていた。この規模で休職中のサポートできる余力がないということで双方合意の上辞めることになった。

働いていないので埼玉の実家に帰った。都心から1時間半ほどの場所にあるので東京の部屋も残しておいた。残したと言うより片付けられる状況ではなかったこと、実家に荷物を入れるスペースがなかったこと、引っ越し資金がなかったことなどの理由があった。ただ、正直に言えば面倒くさいというのが強かった。

部屋を残したので東京に用事があるときはその部屋に戻ってくる生活をしていた。趣味で撮影会に行っていたが行く日は東京の部屋に泊まった。この当時の撮影会参加は生きる糧のような存在だった。ただ、お金がすごくかかった。

長く休むことになったので身体の不調の解消を計った。

人生でほぼ初めて歯科に行くことにした。学校での検診で虫歯がないこと、今まで痛みが出たことがないことから用事がなかったが、区から定期健診のお知らせが来たので見てもらうことにした。親知らずが原因で虫歯がちょっとだけあると言うことで親知らずを片方だけ抜いた。顔が半分だけ四角くなって面白かった。

ずっと便秘がひどいので便秘外来があるクリニックに行った。診断の結果よくある便秘っぽかったが「一応大腸の検査しますか?」といわれ大腸内視鏡検査を行った。大腸内視鏡検査は大腸の中を自分でも見ることができる。大腸ポリープが見るかりその場で切除した。切除する様子を見ていたが変な感じがして面白かった。切除したポリープは検査に出され、結果何もなかった。ポリープができる原因にストレスがあるらしく、やっぱり知らずにストレスがかかっていたのかと思った。

大腸ポリープの件からもストレスがかかっていそうというのは分かったが何が原因か全く分からない。もしかして仕事がずっと合っていなく身体はアラートを出していたのに無視していただけなのでは、と思い始めた。自分のやりたいことばかりに目を向けて自分自身には向き合ってこなかったのでは、と考えはじめたらとても悲しい気持ちになった。15歳からずっとやってきたことなのにだいぶ残念だな、と。

実家近くより

2019年 35歳

昨年から元同僚とちょくちょく会って話すようにした。エンジニアの経験を生かしてコミュニケーターみたいな仕事はないかという話もした。ほとんどの人に「エンジニアほど合っている仕事はないと思うのにもったいない」と言われた。そのたびに悲しい気持ちになった。

医者からは就職活動を、といわれてもどうにも治った気がしない。元同僚のつてもあって最初の会社を受けたりもしたが落ちた。正直な話、そうだろうなと思い、ショックではなかった。とにかく万全な状態ではなかった。

そうはいっても再就職しなければならない。エンジニアの仕事はストレスがかかるかもしれないが、社会に求められている仕事であること、今の生活を崩さなくて良いこと、なにより他の人から見ると向いているらしいということからこの職種で再就職することにした。

6月に転職エージェント2つに登録し、片方のエージェントがとにかく大量に登録したため30社ほど受けることになった。6月の下旬から1日3社ずつほど受け続けた。このときはリモートでの面接がほとんど行われておらず、1つずつ会社に出向いて面接した。面接を繰り返し8月にやっと1社だけ決まった。

ちょうどこのころ、起業した元同僚が「プログラムが書けるのは分かっているからうちに来ないか」と誘ってくれた。

私はうれしかった。少し考えたあと元同僚の会社に行くことに決め、行くと行った1週間後に仕事を始めた。心機一転ということで10年住んだ荻窪の家を引き払い新しい部屋に引っ越した。引っ越し先はよくある2年契約の賃貸ではなく、たまたま存在したマンスリーマンションのようなサービスをつかうことにした。入居日と退去日をWeb上で入力し、審査がなく引っ越し先を決められた。私には審査がないというのが魅力であった。

仕事は私の希望で以前のものと少し変えてもらった。ブランクがあることと環境の変化でキャッチアップが大変だったが、なんとか食らいつくことができていた。

心機一転引っ越した直後の部屋

2020年 36歳

去年住んでいたマンスリーマンションのような賃貸の更新に失敗した。更新書類の期日をしっかり把握できていなかった。とにかく更新ができなかったわけで引っ越し先を急いで探すことになった。またマンスリーマンションのお世話になるわけだが、なんとなく日暮里という場所を選んだ。どうやらここは荒川区で、荒川区には荒川が流れていないらしい。自分の中ではそのぐらいの認識な場所だった。

内見もせずに物件を選んだ。その物件は狭く、また窓が小さく天気が良い日でも日が入らない場所だった。気が滅入った。次引っ越すときは内見をし、日当たりがよく、できれば広い物件にしようと心に誓った。

この年は自分の中の何かを変えたいと思っていた年だった。

写真を趣味にしていたが自分の中で飽きが来ていた。一念発起して中判フィルムカメラを購入した。デジタルではなくフィルムで、長方形ではなく正方形で写真を撮ることで何かが変わることを期待してこの選択をした。

また、マッチングアプリで出会いを求めたりもした。なんとかして5, 6人と話す機会ができたが、話を回すことに必死でどんな人か覚えていなかった。これは向いていないし、そもそもパートナー欲しいのかなと疑問に思えたため数ヶ月で辞めてしまった。

髪の色をシルバーに染めたりもした。シルバーカラーの評判は良かったが、1週間ほどで色が落ち、ほとんど金髪だった。シルバーから金髪の流れは2年ほど続くことになる。

日暮里の物件は全く良くなかったが荒川区はすごく居心地が良かった。10月に期限が来て引っ越さなければならなかった。荒川区を選び、しっかりと内見をし、大変日当たりが良く、家賃の割に広い物件を選んだ。都電荒川線沿いの物件は若干不便だが広さの割に安いというのが良かった。

シルバーに染めたが1週間も経たずに落ちた

2021年 37歳

リモートワークの環境も整い順調に仕事をしたが、また体調を崩しやすくなった。社員が少ないため関わる人数が少ない上リモートワークですっかり人と会わなくなったことが影響しているのかもしれない。

通院していた病院は勤務先に近いところにあった。リモートワークはすぐに開けるだろうと踏んでいたが、長くなったことで通うのが大変になってきた。そこで通院先を近場に変えることにした。

薬での治療は転院前、転院後も続けていた。心療内科の転院は紹介状を書いてもらうのが一般的らしく、私も書いてもらった。転院先で紹介状を渡し、それを読んだ先生が双極性障害があるかもしれないと言うことで、同じクリニックでより詳しい先生を紹介していただいた。

最初は薬を一部双極性障害のものに入れ替える形で効果を見ることにした。体調が改善したのを実感した。次の通院で完全に薬を入れ替えることにした。もっと体調が良くなった。そのためこの治療を続けることにした。

双極性と言うからにはうつ状態と躁状態があるはずである。躁状態として散在したり先のことを考えずに仕事を辞めたりと思い当たるところはいくつもあり、「そうかそうだったのか!?」という発見が大きかった。また、これでやっと悩まされずに済むのか、という喜びがあった。

写真の趣味は継続していた。写真仲間が欲しいなと思ったいたところで「写真喫茶エス」というオンラインサロンがあることを知った。そういうものが存在するのかと思いせっかくなのではいることにした。今まで一人で撮ってきて定期的に飽きて他の趣味に手を出したりしたが写真の趣味一本にしようと思った。

オールドレンズに入門した

2022年 38歳

昨年から体調不良でまともに働けていない時期があり、休みを取ったらどうですかと社長から言われていた。そのことを医者に報告した。そのとき、はっきりと双極性障害の薬が効いていた「休んだら回復すると思いますか?」という質問に「そうは思いません」と返した。休職の手続きは取らず退職することにした。

今回は求人サイトとエージェントを使い1日2〜3社ほど受けた。コロナ禍だったためリモートでの面接が当たり前になり、会社巡りをした以前の苦労はなかった。コーディング試験があることも分かっていたので LeetCode でコードを書いていた。LeetCode は楽しく、趣味として取り組む人がいるのも分かった。

就職活動をしている間、ぼくデリ(現 shokujii)を作っている安川さんにランチに誘われ DMM.Make AKIBA に出入りしていた。

ちゃんと準備して取り組んだので5社ぐらいから内定をいただいた。最終面談にはもっと進めたのでもっと増えていたのかもしれない。どの企業に行くか悩み、その結果、興味があるスタートアップ、大手Web企業、まったく異業種の3つに絞った。

企業に返事を出す日が来た。どこに行くのかはランチを食べたDMM.Make AKIBA で決めた。

実のところ異業種のところが一番興味があり、また、このタイミングでしか入れないんだろうなと思っていた。ただ、気になることとして異業種であることと休みが減ることがあった。異業種に飛び込むのは私にとってチャレンジだった。ただ、ずっとチャレンジしてきたつもりだしここもチャレンジしようと奮い立たせることにした。

休みが減ることはすごく気がかりだった。近くにいた安川さんに相談したら「休みとかないんじゃ〜」といわれ、スタートアップってそうだったよなと思い、異業種のエンジニアになることにした。ちなみに条件は一番悪かった。

安川さんにお世話になったため副業としてぼくデリ(現 shokujii)の開発を現在も手伝っている。

フィルムさんぽ展に出展した

2023年 39歳

写真のオンラインサロンとフィルムさんぽというイベントに顔を出すようになり、写真仲間が増えた。機会を増やすと趣味は楽しくなってくるものである。違う世代や違う表現をする人に会うと大変刺激を受ける。オンラインサロンは抜けてしまったがこの趣味はいい感じに続けていこうと思っている。

去年受けた診断はやっぱり合っていたようで、月に1日程度ダメになるがそれ以外大きな不調はない。薬を調整しているので基本良くなって行っている。新しい職場では使う道具や環境が変わったことでどうなるか少し心配していたが次第に慣れ、順調に仕事をこなしていった。

ところでうちの家全体に言えることだがお金を使うのが下手くそな傾向がある。双極性障害の例で借金を作るというものがよく出てくるが、例にも漏れず私にもあり、その返済めどを立てたりした。

そんな中、下腹部が出っ張ったり出っ張らなかったりすることがあった。日に日に頻度が高くなりいよいよ痛くなったため病院に行くことにした。ソケイヘルニアという症状らしく手術しないとダメらしい。左そけい部だけかと思っていたが検査の結果、右そけい部とへそも出ているらしい。その結果手術を3回することになった。

1回の手術で3カ所切るのはできるらしいが、社会保険の適用外になってしまうためやらないということらしい。手術はすべて1泊2日であり、抜糸をするタイミングが2週間後だからそれに合わせて手術をするスケジュールになった。

まずは左そけい部の手術をした。一番広がっていたため痛みもすごいだろうと思っていた。ずっと痛いし筋肉を動かすとより痛く、夜中トイレに行きたくなったがいつもの3倍以上の時間がかかってしまった。

その2週間後、右そけい部の手術をした。自覚症状がなくCTスキャンで発覚した場所であった。今回はどのぐらい痛くなるのか不安だったがほとんど痛くなく拍子抜けしてしまった。

その2週間後、へそのヘルニアの手術をした。自覚症状がなく、本当によく見ないと分からない大きさだった。そのため、痛くないだろうと踏んでいたが一番痛かった。退院できるか分からないぐらいずっと痛く脂汗をかきながらタクシーに乗ったことを覚えている。この日は大雨でタクシーの運転手さんは優しかった。ちなみに、抜糸は退院直前の傷口に確認ついでに行われた。まったく痛くなかった。ただ、元々休みがちだった上に1泊2日の手術を3回やったため、有休がすごい速さでなくなった。

この年の後半は仕事をするだけでいっぱいいっぱいになり、家に帰ってきたあとに作業をできる感じではなかった。そのため、副業の収入が減ってしまった。このことと手術を受けたことが重なったため、お金がなくなった。人生で初めて友人からお金を貸してくれないかとお願いをした。

冬に入り、尋常じゃないほどふくらはぎ周りが冷え、痛くなることがあった。自律神経系の問題かもしれないということで心療内科の先生と相談した結果、そのクリニックで行っている鍼灸治療を受けることにした。効果はゆっくりと出ていると思うが、自由診療であるため費用がかかるのが気がかりである。

三倍ホップの十%の苦いビール

2024年 40歳

この年の誕生日は土曜日であり、いつも行っている写真コミュニティーのイベントに参加した。帰ってくる途中、スシローがたまたまあったため、入ることにした。一人で3,000円弱ほど食べ、誕生日は終了した。30歳の誕生日とは大違いである。

誕生日から1ヶ月が経ち、この身体で今後10年何をしようかずっと考えている。今までキャリアプランなど考えたことはない。私にはパートナーがいたことがなく、ましてや子供もいるはずがなく、守るものがないというのが影響しているのかもしれない。ただ、考えない性格だったためこの10年を生きてこられた気がするし、計画をしっかり立てるタイプだったらどうなっていたのか怖い。

30代後半ぐらいから「これって死ぬまでの暇つぶしなのかな」と思っている。もうテンションが跳ね上がることはないと思うと少し悲しくなるが受け入れている。


さよなら30代、そんなにいい10年ではなかったよ


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