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共感できないことを理解しよう

理解と共感と賛成と納得はすべて違う。政治的な場面では「国民の理解を得る」という表現が使われるが、それは「賛成」という意味だろう。しかし「その事柄の欠点を理解したから反対する」こともあるはずだ。「賛成」を「理解」と言っている人は、こう思っているのではないか。

「私の意見は正しい。私の意見を丁寧に説明すれば、賛成してくれるはずだ。反対する原因は、正しい知識の欠如だ。勉強不足だから私に反対するんだ。正しい知識を与えれば、理解が得られるから、賛成してくれるはずだ」

このような考え方は、科学技術コミュニケーションの分野では「欠如モデル」と呼ばれている。科学技術コミュニケーションの分野では「欠如モデルは間違っている」との考えが主流だ。

政治や科学技術に限らず、もっと日常的な事柄でも同じだ。

学生のコメントに「共感しました」とか「共感できる」っていう表現が凄く目に付いて妙に不安な気持ちになるんだけど、君ら共感も良いけど理解もしてよね。共感出来ないときに、どう理解するかが大事なんだから。少なくとも、共感を守るために、理解を拒絶するのはやめてね。

上記の文章は、久保田裕之先生がTwitterに投稿したものだが、久保田裕之先生のTwitterアカウントが今では凍結されているため、元の投稿にはアクセスできない。しかし上記のツイートが多数のリツイートといいねをカウントしていたと記憶している。

たしかに、理解と共感と賛成と納得を混同する人、つまり区別しない人がいる。なぜだろう?この問いを変換するとこうなる。なぜその人たちは「賛成・共感・納得できないことを理解したくない」と思うのだろう。

理由は主に3点あるのだろう。

1点目の理由は、その人たちは「他者との対話で互いの考えを深める」というアプローチを取らないからだ。言い換えると、「自分のことを分かったつもりになっている」からだ。

2点目の理由は、その人たちは「賛成・共感・納得できないことを理解すると、自分の正当性が揺らいでしまう」と思うからだ。つまり自分の間違いを自覚したり、他人から指摘されたりする可能性がある。自分のカッコ悪い姿を他人に見られてしまう。しかし賛成・共感・納得できないことを理解しなければ、自分を安全圏に置いて他人を攻撃することができる。もちろん、私、街河ヒカリは、そうは思わない。

3点目の理由は、自分たちの共同体を楽に維持したいからだ。賛成できないこと・共感できないこと・納得できないことを理解するには、時間と手間がかかってしまう。めんどくさい。要するに楽をしたいのだ。あうんの呼吸で生きられる相手を隣に置きたいから、賛成でき共感できる相手だけと付き合いたいのだ。

と、ここまで書くと、読者の皆様に「街河ヒカリは理解が大切と主張している」と解釈されるかもしれない。たしかに理解が大切なのだが、しかし、社会学の質的調査や、文化人類学、貧困問題などの分野では、以前から「他者を理解することの暴力性」が問題提起されていた。代弁の問題やサバルタンの問題が議論されてきた。しかしこれについて考察を始めると膨大な字数になってしまうので、手短にまとめよう。

暴力といっても、様々な種類、様々なレベルがある。まず相手が調査や対話を「うっとうしい」と感じることもある。調査によって相手のプライバシーが侵害されるリスクもある。

そもそも相手を本当の意味で理解することはできない。だから相手のことを分かったつもりになる暴力性がある。「この人はこんな人なんだ」とわかったつもりになり、その人を勝手に代弁すると、本人の現実とはかけ離れた「幻想」が社会に流通してしまう。本人が置いてけぼりにされてしまう。本人が自分の力で問題を解決することを妨げてしまう。

理解は大切だ。しかし本当の意味で他者を理解することはできない。理解には暴力性がある。じゃあどうすればいいのか。

一つの道は、<「人びと」ではなく「人びとの対峙する世界」を知る>ことだ。この言葉は社会学の有名な教科書『質的社会調査の方法 他者の合理性の理解社会学』において石岡丈昇先生が書いた言葉である。石岡丈昇先生はフィリピンのマニラでボクサーの参与観察を行った経験を基に、教科書の中で次のように書いている。長くなるが、引用する。

「人びと」を知ることに照準すると,そこで論じられる対象者はどこまでも受動的な存在となってしまいます。「マニラのボクサーとはどんな人びとなのか」と調査内容を設定すれば,ボクサーの収入や家族構成や出身地や学歴など,あらゆる背景情報を収集することに躍起になってしまいます。もちろん,こうした作業は,調査の初期で実施しなければならない重要なものではあります。しかし最後までこの背景情報に拘泥するのでは,参与観察の特徴を十分には活かしていないと思います。いつまで経っても,ボクサーは受動的な存在に留まるのです。しかし「マニラのボクサーはどのような世界に対峙して,日々を過ごしているのか」と調査内容を設定すれば,ボクサーの能動的な側面が視野に入っていきます。ボクサーたちにはそれぞれの眺望があり,その眺望の先に見えている世界とはどのようなものかが調査者の視野に入ってくるのです。
出典:岸 政彦,石岡 丈昇,丸山 里美『質的社会調査の方法 他者の合理性の理解社会学』p.129,有斐閣、2016年

以上は参与観察について書いた部分だが、私たちの日常生活においても、共感できない他者、賛成できない他者、納得できない他者を理解するにあたり、有効なアプローチになると私は考えている。

秋葉原事件の加藤智大を調査・取材して本にした中島岳志先生も、石岡丈昇先生と似たアプローチを使っていた。

2018年に出版された、『ソーシャル・マジョリティ研究 コミュニケーション学の共同創造』という本がある。あまり有名ではないが、私はかなり画期的で斬新な本だと思っている。本の帯をそのまま引用すると「発達障害の側からソーシャル・マジョリティ(社会的多数派)のルールやコミュニケーションを研究してみました。」との趣旨だ。

第1章「人の気持ちはどこからくるの?」が非常に面白かった。感情の現象学の観点から、感情のわかり方の違いを「理解」と「感受」で区別し、考察している。私はここまでの文章で「理解・共感・賛成・納得」の4点に分けたが、感情の現象学の手法のほうが適切かもしれない。

第1章によると、人の感情は社会的につくられる。「どのような状況でどのような感情をどのくらい表出するのが適切か」というルール、「感情規則」が社会に存在している。感情規則は文化圏によって実に多様である。人が他者の感情をわかるためには、他者の表情や身体を知ると同時に、その他者が生きる社会的文脈と感情規則を知ることが必要である。

以上が『ソーシャル・マジョリティ研究』第1章の主張だ。『ソーシャル・マジョリティ研究』と『質的社会調査の方法』は、分野と方向性が異なるものの、「他者を理解することの暴力性」を回避する道を探るアプローチにおいては、似ている部分がある。


さらに深く考えるために

この文章を書くにあたり、様々な方からの影響を受けたので、一部を紹介する。

岸 政彦,石岡 丈昇,丸山 里美
『質的社会調査の方法 他者の合理性の理解社会学』
有斐閣、2016年


綾屋 紗月 [編著]
澤田 唯人,藤野 博,古川 茂人,坊農 真弓,浦野 茂,浅田 晃佑,荻上 チキ,熊谷 晋一郎 [著]
『ソーシャル・マジョリティ研究 コミュニケーション学の共同創造』
金子書房、2018年


中島 岳志
『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』
朝日新聞出版、2013年
(2011年に単行本が出版されたが、現在販売されているものは2013年に出版された文庫のみ。内容はほぼ同じ)


早稲田文学会
『早稲田文学増刊 女性号』
2017年

ここに収録された柴田英里さんの論考「いつまで〝被害者〟でいるつもり?――性をめぐる欲望と表現の現在」において、共感の欺瞞、共感によって疎外されるマイノリティがいることが問題提起されている。つまり柴田英里さんは共感を批判的に捉えている。


そもそもこのページは、2019年1月26日に私・街河ヒカリが投稿した文章を短縮したものです。当時の文章は長すぎました。元の文章はこちら。

理解と共感と賛成と納得は違う。共感できないことを理解しよう。他者を理解することの暴力性。


こちらは私が過去に書いた記事です。テーマに関係があります。

自己責任論への反論の一つに「自分で選ぶことはできないから」があるが、それだけでは足りない。本人の主体性が奪われる。


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連載企画「街河ヒカリの対話と社会」について

誰もが日常的に体験する悪口、嫌味や皮肉、詭弁、ネットスラングについて考察します。一見すると個人の問題に思えることでも、実はよく考えると社会の問題とつながっているのではないか、との仮説を立て、個別具体的な事柄から普遍性を発見したいと思います。1か月に1回から4回程度の更新です。マガジン「街河ヒカリの対話と社会」にまとめています。

以上です。今後も街河ヒカリをよろしくお願いします。

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