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ものの捉え方を更新するか?何でも自分の既知の枠組みに回収するか?

何でも自分の既知の枠組みに回収してばかりで何も学ぼうとしない人は、つまらない。他者との対話を通し、自分が持っていた暗黙の価値観やバイアスを発見し、自分の中にあった「ものの捉え方」をバージョンアップする人は、おもしろい。世界は変わらなくても、「その人の目を通して見る世界」は、変わる。私、街河ヒカリは、そう思う。

出典:https://twitter.com/rmsi_isng/status/868658097660715012

余談だが、私はrmsi_isng先生から多大な影響を受けている。

これも余談だが、Internet Exploreではnoteに挿入したTwitterを見ることができないという不具合があるらしい。この上にrmsi_isng先生のTwitterが見えない人は、Google ChromeやFirefoxなどの他のブラウザを使ってほしい。

また、有名な本『人はなぜ物語を求めるのか』からも引用しよう。

人はできごとの理由を自分の知っているパターンに無理やり落としこみたい

出典:千野 帽子『人はなぜ物語を求めるのか』第3章、ちくまプリマー新書、2017年
ほんとうのことを知りたいというよりも、未知のできごと(異なるもの)をすでに知っているパターンの形に押しこめて消化(同化)してしまいたい、という感情です。つまりこれが、強引にストーリー化してしまう、とういうことなのです。
出典:前掲書第3章


『質的社会調査の方法 他者の合理性の理解社会学』という社会学の有名な教科書がある。著者の一人である石岡丈昇先生は、「ものの捉え方のバージョンアップ」という尺度を主張している。

事実を調べることを通じて、「ものの捉え方」のバージョンアップを図るのが社会調査の醍醐味です。事実を詳細に調べても、旧態依然の「ものの捉え方」が保持されているのであれば、充実した論文に仕上げることができません。
出典:岸 政彦,石岡 丈昇,丸山 里美『質的社会調査の方法 他者の合理性の理解社会学』p.104、有斐閣、2016年
参与観察で重要になるのは、既知の「ものの捉え方」を手放すことです。未知のデータを既知の「ものの捉え方」で解説するのではなく、未知のデータを未知の「ものの捉え方」の獲得へと解き放つ努力が要請されるのです。
出典:前掲書 p.105

まったくその通りだ。

私は「その人が持っていた『ものの捉え方』を、その人はどのようにバージョンアップ(更新)するか」ということに関心がある。


「ものの捉え方」の一例として、「かわいそうランキング」がある。


「かわいそうランキング」とはテラケイさん(別名 御田寺 圭(みたてら けい)さん、 白饅頭さん、 terrakei07 さん)が提唱した概念である。

 クモやヘビのような気色悪い生き物より、シロクマやパンダといった愛くるしい動物たちの保護のために資金は集まる。近所を徘徊するホームレスの衣食住よりも、遠いアジアやアフリカの貧国に生きる恵まれない子どもたちの屈託のない笑顔のために、人はお金を届けたくなる。

出典:御田寺 圭『矛盾社会序説』p.22、イースト・プレス、2018年

子どもたちの熱中症による事故は問題視されているが、建設業や交通整理に従事する大人が炎天下で長時間働くことは問題視されない。過労死がもっとも多く発生している業種は運輸・郵便であるが、ニュースにはならない。

これらの現象をまとめてテラケイさんは「かわいそうランキング」と名づけた。私なりにまとめると、かわいそうランキングとは、弱者救済の優先順位や弱者救済にかける質量が決定されるときに使われる序列であり、人から「かわいそう」という感情を抱かれる弱者ほど上位に置かれ、「かわいそう」という感情を抱かれない弱者ほど下位に置かれる。

ある人から誰かへの「かわいそう」という感情は、対象となる人の行動、容姿、性、生死、国、職業など、複数の要因から惹起される、とテラケイさんは考えている。

「かわいそうランキング」という言葉の初出は、2017年2月3日にテラケイさんがnoteに公開した「「かわいそうランキング」が世界を支配する」という文章である。その後、テラケイさんは2018年に「御田寺 圭」というペンネームで出版した『矛盾社会序説』という本でも「かわいそうランキング」を問題提起した。

「かわいそうランキング」が世界を支配する


『矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る』

「かわいそうランキング」についてはまだまだ語るべきことがあるが、この文章の本筋ではないので、ここまでにしておこう。私は2017年に「かわいそうランキング」の解説文を書き、全文を無料で公開したので、詳しく知りたい方は読んでみてほしい。このページの最後にリンクを載せた。

脱線したので元に戻すが、ようするに私、街河ヒカリは、「ものの捉え方のバージョンアップ」の一例として、「かわいそうランキング」による解釈があると考えたのだ。


Twitterなどのネットでは「かわいそうランキング」の観点から社会問題を捉える投稿が散見された。

「テレビのニュースでパンダを見ると『かわいそうランキング』を思い出してしまう」と書いた人もいた。

捕鯨問題や絶滅危惧種の問題について、「これはかわいそうランキングなんじゃないか?」と書いた人もいた。

税や社会保障、所得の再分配の問題について考える場合にも、「個人的な寄付に頼ると、かわいそうランキング上位ばかりに金が集中して偏ってしまう。所得の再分配は感情を排して機械的に一律にすべき」と書いた人がいた。

病気の子どもの治療費用を目的とした募金活動に対し、「病気の子どもはかわいそうランキング上位だから、簡単に寄付金が集まるでしょう?」と冷めた目で見るような投稿もあった。

それらの投稿のすべてに私が賛成できるわけではない。

しかし、「かわいそうランキング」という「ものの捉え方」を手に入れたことで、人々の社会問題への捉え方が変化した。

人は他者を「かわいそうかどうか」でランキング化し、救済するかを決めている。「かわいそうランキング」という言葉を知ったことで、自分の中にあった無自覚の先入観やバイアスを再発見することができた。

社会構造の中にさえもランキングが埋め込まれ、自分も他人もランキングに置かれている。今まで見過ごしていた社会問題と社会問題を線で結び、輪郭線を与え、議論の土台を作ることができた。

見えなかったものが見えるようになった。

こうして私たちは「ものの捉え方のバージョンアップ(更新)」をすることができたのだ。だから、おもしろい。


さらにもう一段階ある。

何でも短絡的に「これは『かわいそうランキング』だ!」と既知の枠組みに回収して満足することは、「ものの捉え方のバージョンアップ」ではない。それでは自分の先入観やバイアスを強化するばかりで、新発見がない。逆にむしろ、「今まで『かわいそうランキング』だと思っていたことが、実は別の現象なんじゃないか?」と問いを立て、「ものの捉え方のバージョンアップ」をすることが、もっとおもしろい。


新しい物事に出会ったとき、従来から持っていた「ものの捉え方」に無理やり当てはめる行為は、はっきり言ってつまらない。

出典:https://twitter.com/rmsi_isng/status/868658097660715012

「ものの捉え方」は、「モノサシ」、「枠組み」、「フレーミング」と言い換えてもいいだろう。「地図」でもいい。

たとえば、ホームレス生活をする人への支援のボランティアに初めて取り組んだ人がいたとしよう。

その人が

「ホームレスには暗いイメージがありましたが、実際は普通の人で、明るい人なんだと思いました。ホームレスへのイメージが変わりました」

と言ったとしたら、それは「ものの捉え方」をバージョンアップしたと言えるのだろうか。

私は「バージョンアップした」とは言えないと思う。

なぜならその人はホームレス支援をする前から「暗い・明るい」というモノサシを持っており、ホームレス支援をしてもなお、ホームレスの人に対して「暗い・明るい」というモノサシを当てはめて解釈しているからだ。「明るいことがいいことだ」という固定観念に囚われている。暗かったらダメなのか?

「暗いイメージから明るいイメージへの変化」で、「ものの捉え方」が途中まで変化している。私はその人を批判したいわけではない。しかし、それだけでは、足りない。あと一歩、前へ進むべきだ。

ちなみに、私はホームレス支援の活動をしていた。「明るいことがいいことなのか?」という問題は、意外と複雑なのだ。これを読んでいる皆様からの要望があれば、詳しく書きます。

脱線したので元に戻そう。

その人がたどり着いた結論がたとえ「1+1の答えは2だ」のようなありきたりなものだったとしても、答えを探す過程で新しい「ものの捉え方」を獲得したのであれば、「1+1の答えは2だ」という結論にたどり着いたとき、その人はもう既に過去とは違ったアプローチで世界と対峙している。

「1+1の捉え方」や「ホームレスへの捉え方」といった個別具体的なことはどうでもいい。

個別具体的な内容よりも上位の概念に抽象化した「ものの捉え方」を手に入れたとき、世界はかつてのようには認識されない。

その人が新しい「ものの捉え方」を獲得してゆき、新しい「地図」を自分の力で描いてゆくときこそ、最もおもしろいし、私を仲間にしてほしいと思う。

そして私もまた、

「その人は従来のモノサシをその対象に当てはめるのか」

という従来のモノサシを他人に当てはめているのである。「『貼り紙禁止』という貼り紙」だ。まったく、私はつまらない人間である。


そして今この文章を読み、「街河ヒカリっていう人は、平凡なことを書いているなあ」「よくある話だね」「それなら私も昔から考えていたよ」という感想を抱き、従来の枠組みに押し込めて解釈する人がいるのだ。



さて、「ものの捉え方のバージョンアップ」をするためには、どのような方針があるのだろう?これについては、私のような素人が考える以前に大昔から世界中の人が考えていたのであり、とても私の力では書き尽くすことができない。

かなり大雑把であるが、「ものの捉え方のバージョンアップ」に有効な方針をまとめよう。

一つ目は、一次データの重視である。一次データを生データと呼んでもよい。

自分の心身の感覚を分かりやすく他者に伝えようとしても適切な言葉が見つからないこともある。そこで聴き手が業を煮やして「それってこういうことでしょう」と手垢にまみれた言葉で表現して既知の枠組みに回収してしまってはいけない。

理系的な分野や技術的な分野であれば、さまざまなデータの中で都合の良い部分ばかりを拾うのでなく、解釈が容易な部分だけを拾うのでなく、全体を広く見渡したうえで、重要なデータを見極める。統計的に有意な差が出なくても、相関が弱くても、無視しない。ノイズのようなデータさえも拾う。

要するにセレンディピティのようなものが、「ものの捉え方のバージョンアップ」に有効なのだ。

二つ目は、他者との双方向の対話である。一人相撲でなく、一方通行でなく、双方向だ。言い換えれば、支配と抑圧がない場を作ることだ。一次データ・生データは本人が一番よく知っているが、その解釈は一人では困難だからだ。

一つ目と二つ目をセットで成立させる必要がある。

と、このような短すぎる説明では、読者の皆様に十分には伝わらないだろう。この部分を書くにあたり、私は『つながりの作法』という本からアイディアをいただいた。『つながりの作法』は、発達障害を含めたマイノリティの人々の生き方やつながり方について書かれているが、発達障害でない人にも読んでほしい。第四章と第五章では「ものの捉え方のバージョンアップ」をするためのヒントとなる実践が、詳細に述べられていた。

綾屋 紗月、熊谷 晋一郎『つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく』NHK出版、2010年


以上です。


今回の文章と関連がある文章を私は過去に書いていたので、それらを紹介しよう。


なぜ物語を求める人と求めない人がいるのか


自己責任論への反論の一つに「自分で選ぶことはできないから」があるが、それだけでは足りない。本人の主体性が奪われる。


理解と共感と賛成と納得は違う。共感できないことを理解しよう。他者を理解することの暴力性。


私は2017年にnoteで「かわいそうランキング」についての解説文を公開したことがあった。当時は『矛盾社会序説』の発売前だった。私がこの文章を公開したあとに作家・ジャーナリストの佐々木俊尚さんがSNSでシェアしたため、閲覧数が急増し、ちょっとした物議を醸した。その後、佐々木俊尚さんは『矛盾社会序説』の帯に推薦文を書くこととなった。

<「かわいそうランキング」が世界を支配する>を考える


今回のヘッダー画像には、けいろーさんの写真を使いました。文章の内容と調和すると思ったので、この写真を使いました。ありがとうございました。けいろーさんのnoteページはこちら。


今後も街河ヒカリをよろしくお願いします。


連載企画「街河ヒカリの対話と社会」について

誰もが日常的に体験する悪口、嫌味や皮肉、詭弁、ネットスラングについて考察します。一見すると個人の問題に思えることでも、実はよく考えると社会の問題とつながっているのではないか、との仮説を立て、個別具体的な事柄から普遍性を発見したいと思います。1か月に1回から4回程度の更新です。マガジン「街河ヒカリの対話と社会」にまとめています。


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