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悲しくて尊い時間

あの時、空にはまだ星が残っていた。


早朝、気が向いた時だけ散歩をする私は、この日ある光景を目にして直ぐに引き返そうとした。


 (戻らなくていい)

でもそれは。

   (ここに居ていい)

……。

   (居て欲しい)


ーー判ったよ。

私は“その子”の傍に行くと、地面に座った。



私と圭吾が一緒に暮らすようになって、もう直ぐ五年になる。

大学で知り合い、交際するようになった私達は、卒業後に圭吾は広告代理店、私は商社に就職した。


新人が受ける研修は、かなりハードで、私は着いていくのがやっとの毎日。

気がつけば六キロ痩せていた。

研修が、ここまで厳しいとは、予想外だった。

それでも、何とか最終日を迎えることが出来た時、泣いてる新入社員が何人もいて、私もその内の一人だ。


久しぶりに会った圭吾も、かなり厳しい日々を送っていることが、窪んだ目、痩けた頬を見ただけで、容易に想像がついた。


就職してニ年が経った頃に、どちらともなく、同棲しようということになった。


休日は、二人で、ひたすら寝て過ごす。

「こんな土日ばかりじゃ良くない。少しは身体を動かさないと逆に疲れは取れないし、第一不健康だよ」

圭吾にしては、珍しく建設的な意見を云うので私は、いささか驚いた。

「と、誰かがテレビで云ってるのを、見た」

なんだ。


「茉莉花、この辺りには野良猫が
たくさんいるだろう?運動も兼ねて、猫巡りに行かないか」

私も圭吾も猫好きだ。

私たちは、出かけることにして、マンションを出た。


陽が傾き始めると、今の時期は気温が、グッと下がる。
私は冬が好きだけど、圭吾は寒さに強くない。


そんな圭吾から、外に出ようと誘って来るなんて、かなり珍しい。
仕事で嫌なことが、あったのかもしれない。

家では仕事の話しはしないようにと、二人で決めた。
だからかもしれないが、圭吾が愚痴を云うのを訊いたことがなかった。


10分ほど歩いたところに、廃校がある。
門には鍵がかかっており、中には入れない。

「エーール!出ておいで」

私は大声で叫ぶ。


女の声の方が通るらしく、ニ、三回呼ぶと、雑草が生い茂る花壇から、一匹の猫が小走りで、私達のところへやって来る。


「よ〜しエル、元気だったか」

エルは圭吾のことが、大好きな猫だ。
私にも甘えてくるけど、一番は圭吾のようである。


エルは飼い猫だったと、地域猫活動をしている人達から訊いた。
人に飼われたことの無いまま、野良猫になった猫と、暖かい家の中での暮らしを経験した後に、放り出されたエルのような猫。


私はエルの辿った運命の方が、残酷な気がする。

地域猫活動をしているグループの皆さんにも、エルは決して自分を触らせはしない。

撫でようと手を伸ばせば、エルは本気で威嚇し、噛み付く。

毎日、食べ物や水を与えてくれる人にもエルは決して、心を開くことはない。


けれど私と圭吾には、少しずつ警戒心を解いていった。
圭吾はエルのことを、“友達”と呼ぶ。


たぶん、エルも同じなのではないか。
私はそう思ってる。


雌猫だがエルはボスだ。

体も大きく、厳しい顔をしている。
ケンカもするのだろう。顔には傷が絶えない。

捨てられてもエルは自分の力で、ボスにまで這い上がってみせたのだ。


ベンチに座る、私の膝に乗り、毛繕いをしているエル。

「あなたは凄いね」

そう云って触ろうとしたら、エルは牙を向いた。

(それ以上、近づいたら知らないよ)

エルの目は、そう云ってるようだった。


エルと会った日の夜はいつも、私に中々睡魔は訪れない。

何故なんだろう。

考えたところで、答えは出て来ない。

いや違う。

体の奥底で、燻り続けていることから、目を背けているのに、エルに会うと、背けていられなくなる。


[茉莉花は直ぐに人に頼ろうとする。
それはよくないことよ]

頑張っても出来ないんだもの。

[お兄ちゃんを見なさい。誰にも頼らず、一人で最後までやり遂げるでしょう]


でもねーー。


[言い訳しない。茉莉花はただ甘えてるの。いつだって、依存してるの]


甘えては、いけない。

出来なくても、頼ってはいけない。

私は依存している。
それは、よくないこと。

助けてって云ってはいけないーー


 【私、エルになりたいんです】


頭から布団を被って、私は夜明けを待った。

眠れないまま。


次の休みの日にも、私と圭吾は、猫巡りをしに出かけた。


この日は坂に沿って建つ、銀行の下にある空間に住む、姉妹の猫に会いに行った。

白地に茶色模様の猫が、たぶん姉で、私達は“コンさん”と呼んでいる。

鼻が少し尖っていて、キツネを思い出すから、私が付けた。

妹猫は、キジ猫で、私達を見つけると、撫でて、と言わんばかりに地面にゴロンとなる。


よしよしと、体を撫でると反対側を向き、「こっち側も」と、催促するので、“おかわり”と名付けた。


コンさんは優しいお姉さんだ。

おかわりの面倒を、よくみてあげている。

ペロペロペロ。

毛繕いをしてあげてる姿をよく見かけた。


ある休日、圭吾は友達と会う為、出かけて行ったので、私は一人で猫巡りをしようと外に出た。


坂沿いの、銀行に行こうと決めて、歩いていた。

今日みたいな暖かい日には、姉妹猫は、日向ぼっこをしていることが多い。


すると、先客がいた。

中学生くらいの女の子。

何やらぶつぶつと話してる。

そこには、脚をたたんで寛いでいる、コンさんがいた。

女の子は、しゃがんでコンさんに向かって話しているようだ。

その子は、こう云っていた。


「あなたは、わたしの先生。あなたは、わたしの友達……」

コンさんは、目を閉じて、静かに女の子の話しを訊いてあげてるように見えた。


私はそっと、その場から離れた。


夕方から降り出した雪は、真夜中には吹雪になり、風の唸り声を私は訊いていた。

それから寝ている圭吾を起こさないように、静かに着替えてると、表に出た。


何故だか、コンさんと、おかわりのことが気になった。

向かい風の吹雪のなか、私は下を見て歩き進む。

銀行に着くと、私は下を覗き込んだ。

二匹は抱き合っているように見えた。
コンさんが、おかわりを守っているかのように。
寒さから
風の唸り声から

コンさんは、大丈夫よと妹を抱き締めていた。


吹雪の夜がコンさんを見た最後だった……。


姉に守られて生きていた妹は、その一年後に、姿を消した。


圭吾によく云われる。

「もっと茉莉花には、甘えて欲しいな」

「男は頼られると嬉しいものなんだよ」

私が黙っていると、圭吾は
「ゆっくりでいい」

「少しずつで構わない」

そう云った。


まだ星が出ていた、あの日の早朝。

散歩していた私が見たのは、猫が
天に帰るところだった。


“その時の猫”は、誰にも知られない場所で、ひっそりと命の幕を降ろすと、私はずっと思っていた。


だから、そこから立ち去ろうとしたのだ。


あれは何だったのだろう。

その猫は、傍に居て欲しいと、
そう伝えて来た気がした。

それを信じて、私は猫の傍に居たのだった。


その子は黒猫で、いつも少し離れたところから、私や圭吾、エルなどの猫たちを、見つめていた。


「おいで」
そう云っても、来ることはなかった。


(本当は、ボクも混ざりたかった)


(でも、出来なかったんだ。怖くて)


(何か、ひどいことされたらって)

(ボクも近づけば良かった)


そう伝えると、その子は苦しそに顔を歪め、大きな声で、


   『ヤーーーーーー!』


と鳴き、

そのまま動かなくなった。


チラチラと、雪が舞い始めた。

この冬、最後の雪かもしれない
そんな感じがした。

甘えても、いいのかも知れない。

困ったら、誰かに頼ってもいいのかも知れない。


怖くても、そうして見るよ、黒猫くん。

よく、勇気を出して私を呼び止めることが出来たね。

頑張ったんだ。

キミは、


   よく生きました


      了
















































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