#影 帽 子
生まれて最初に住んだ家は、あちこちから廃材を集めて、祖父が建てたと訊いている。
プロの大工でもないのに、よくできた平屋だったと思う。
今となってはこのことが本当なのか、疑わしい。
それくらい良く出来ていた。
ちゃんと庭もあり、手作りの小屋があった。
それは真っ白な犬のスピッツの小屋。
果物が実る木があった。
柿と、イチヂクだけ覚えている。
まだ幼稚園にも通えない年齢。
一番、遠くにある記憶。
家の前の道、その下に空き地があった。
そこには家があり、その中の一軒に入ったことがある。
ほとんど覚えていないが、とても狭い部屋に、数人の人がいた気がする。
あれは蚊帳だったのか、透き通った、緑色の物が天井から、垂れ下がって、まるでのれんの代わりにしているようだった。
その家には、私より一つ歳上の、女の子が住んでいた。
何故、年齢だけは覚えているのか、と云えば、その女の子は幼稚園に通うようになり、私は唯一の遊び相手が昼間に遊べなくなって、寂しかったからだ。
私は無理を云って母に、おにぎりを作ってもらい、その日は遠足だった幼稚園に紛れ込んだ。
整列している園児たちに混ざり、シレッと並んだ。
直ぐに追い出された。
✳️✴️
近所には他に子供がいなかったのだと思う。
一人でつまらない私は、トボトボと、歩いていた。
すると、たくさんの鶏を飼育している、おじいちゃんの家があった。
私は、遠巻きに鶏たちを見ていた。
中にとんでもない鶏が一羽だけ混ざっているのが見えた。
その鶏には、何故だか首輪が付いていたのだが、キツキツの状態だった。
幼くても、動物好きな私は、どうしても鶏から首輪を外して欲しく、おじいちゃんに頼んだ。
おじいちゃんは、何と答えたのか、その鶏は、どうなったのか、残念ながら忘れてしまった……。
だいたい、本当に首輪を付けた鶏がいたのかすら怪しい。
鶏をたくさん育てている、お年寄りがいたのは、確かなのだが。
家の斜め向かいには、当時としては、かなり洋風の白い家が見えた。
庭は芝生が青々としてキレイだった。
どんな家族が住んだいたのだろう。
一度も人の姿を見たことがない。
いや、私が覚えていないだけか。
✳️✴️
ぼんやりとした、夢のような遠い時間。
これほど幼いのに、ところどころ記憶にある不思議。
そういえば、友達の妹さんが、自分が赤ちゃんの時を覚えていると云っていた。
赤ちゃんの自分だけ、お布団に寝かされていて、他の部屋から笑い声が聞こえてきたそうだ。
その時、“みんな、楽しそう。いいなぁ”
そう思ったことまで、覚えているという。
《記憶》って分からないことだらけだ。
当時、家には、まだ独身の叔母も住んでいたことは、私にはまるで記憶にない。
けれど、坂道を降りて行くと、酒粕を売っているお店があったことは、頭の中に残っている。
私にとって、叔母の存在は、酒粕以下だと云うことか?
なんだか申し訳なくなる。
✳️✴️
一つ歳上の女の子。
顔も名前も、何も思い出せない。
日本人だったのだろうか?
それすらハッキリしたことは、私には分からない。
ただ、私が常に、一番会いたいのは、この彼女なのだ。
元気でいるだろうか。
今、何処に住んでいるのだろうか。
幸せにしているだろうか。
自分でも、何故これほどまでに彼女のことが気になるのかが、分からない。
忘れているだけで、彼女と私の間で何か大切なことがあるのではないのだろうか。
私の家は、たぶんこの1、2年後に引っ越した。
その時、その女の子は、まだそこに住んでいたのか、何処か他所へ行ったのかすら思い出せない。
だいたい、何をして遊んでいたのだろう。
それでも、私の中には、彼女のことが好きだったことだけは、間違いのない確信めいたものがある。
私は飼っていた白くて可愛いスピッツのことが大好きで、一緒に小屋に入って寝転んだことがある。
「おんぶがしたい」、母に無理を云って、背中にワンちゃんを、おんぶして紐で支えたことを、その時のワンちゃんの顔が嬉しそうに見えたこと。
懐かしく思い出す。
ただ、ワンちゃんが、本当に嬉しかったのかは、定かではない。
たぶん、困惑していたのでは、ないかと想像する。
✳️✴️
その女の子が、私の家に来たことは、たぶん無い。
ん?
それとも、例の如く、私の記憶にないだけか?
何故、写真が一枚も無いのだろう。
カメラはあったはずだ。
母に抱っこされている、赤ちゃんの私、その写真は残っている。
引っ越した先で友達になった、女の子との写真もある。
けれど、一番会いたい、その子の写真だけが、すっぽりと抜けている。
真夏、庭で一緒にアイスクリームを食べた人は誰なんだ。
輪切りにしたパインの形をした、丸いパイン味のアイスキャンディー、丸くて薄い緑色の器に入っていたメロン味のシャーベット。
当りが、出ますように。
そう思いながら食べた、ホームランバー。
これらを私の家のに庭で、一緒に食べた人は誰ですか。
家族ではない誰か。
男の子か女の子かも、忘れてしまった。
私の一番会いたい彼女。
私は貴女のことを、顔も名前も覚えていない。
けれど、『私は貴女が大好きだった』
この想いだけは強く持ち続けている。
あの時代、あの場所に、確かに存在していた一つ歳上の女の子。
まるで『影帽子』のように、掴みどころの無い、私の中の記憶でだけ確実に生き続けている女の子。
《会いたいです》
(完)
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