「個」のアピールは?

 以前たまたま読んだ「SIGNATURE」という冊子の中にあった、狂言師、九世野村万蔵さんの言葉の入った記事で印象に残っているものがあります。記事のタイトルは「名前に足るだけの名前になる『覚悟』」

「このごろ、自分のプロフィールや肩書から、あえて「九世」の文字を、外してしまおうかと考えているんです。九世と名乗ることは、自分は9番目の万蔵だ、という「個」のアピールですよね。はたしてそれは必要なんだろうか、と」
 性格も考え方も、声や体つき、身体能力も違う人間が、代々同じ名を受け継ぎ、名乗り続ける意味に、あらためて思いを馳せる。
「それぞれに違う素晴らしさが、万蔵というひとつの名前の中に積み重なっていく—。襲名とは、ひとりの人間の一生では叶えられないことを可能にする、特別なこと。いつか死ぬ間際に、個人の芸をほめてもらうよりも、『9番目の万蔵は狂言のために頑張った人だったね』と言ってもらえるように。万蔵としての今を生きていきたいと思います」

 以前から、日本の伝統芸能などで、一つの名前の下に入ることって日本独特なのかな?って思っていました。小川 治兵衛など庭師もそうですよね?この記事を読んで、そのことについての当事者の考え方を垣間見たようで、とても興味深く感じました。貴重な文章だと思います。先日、能を観た時も、「ひとりの人間の一生では叶えられない」芸のすごみのようなものを感じました。

「個」をアピールしない方が良い、目立つことをしない方が良い、というのは、日本人の価値観のベースにあるような気がします。「出る杭は打たれる」ということわざもありますし。そういった国民性があってこそ、一つの名前の元で受け継がれていく伝統芸能が築かれてきたのかなと思ったりします。

 正直なところ、これを読んだ時、「個」をアピールする必要があるのか?という問いかけに対し、少し違和感があったのです。個のアピールは悪いこととは思っていないので。でも、考えてみれば、九世野村万蔵さんのような人たちが置かれている状況は特殊ですよね。先祖代々から続いていることをやらなければならず、それを自分の子孫にも受け継いでもらわなければいけないという条件の中で表現行為をしている。最初から自己の表現だけ考えることが許されない立場なのでしょうから、野村万蔵さんの言われる「個」のアピールと私の考えるそれとでは、あまりにかけはなれている。

 とにかく、「個」のアピールの是非について悩まなくていい気軽な立場でよかったなあと思います。

  

 

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今村陽子

二度見した言葉たち

これまで読んだ本や記事などの、気になって何度も読み返した部分について書いていこうと思います。それらは共感したもの、気づきを与えてくれたもの、感動したものなどで、私の感じたことが読む人にやんわりと伝わっていくといいなと思います。
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