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【連載】服部半蔵 天地造化(1) 第一巻 神託編 第一章 忍び術比べ

第一章 忍び術比べ

    一

 昔、南都と呼ばれた奈良の町に、陶器や焼き物を売る立派な陶物屋(すえものや)があった。
 早朝、表に水をまこうと、桶を手に薄暗い店を出た小僧が、びっくり仰天して柄杓(ひしゃく)を取り落とした。小僧の目の前には、背丈を超えるほどの大きな水甕(みずがめ)がある。
「ばっ、番頭さん! 昨日売れた大甕が、また外にあります!」
 驚いた店の大人達がやってきた。番頭が、おそるおそる甕に触れ、じっと見る。
「確かに、あの甕だ。幻じゃない」
 しばらくすると、店の中から女中の悲鳴が聞こえた。
「番頭さん! 番頭さん! 昨日盗まれた茶碗八つが全部、元に戻っています」
 店の奥からゆっくりと出てきた老齢の主人は、整然と並ぶ茶碗を見て腰を抜かした。
「出た……! とうとう、この町にも忍術使いが出た」
「忍びの者の戯れというのですか」
 番頭が問い返した。
「うむ。それに違いない。盗っ人ならば、盗(と)った物を返しはせん」
「では、表の大甕は?」
「さて──」
 主人は首をひねった。
「金で買ったものを返して寄越すとは、一体、何の悪戯だろう」
 この光景を屋根の上から見て笑う、二人の若者がいた。
 一人は駒八(こまはち)という二十歳くらいの大柄な男で、もう一人は市平(いちへい)といい、まだ十七、八に見えた。いずれも伊賀の忍びだ。
 日本のちょうど真ん中あたりに、山に囲まれた田園地帯、伊賀国がある。当時、都の置かれていた京、山城国の東南だ。西は奈良を中心とする大和国と接しており、東隣は伊勢国。
 古くから、都と伊勢神宮に挟まれた伊賀は、役人や神官、僧侶、商人、文人、芸能者などの行き来が盛んな場所だった。同時に、国境はすべて見通しの悪い山道であるため、富貴な者や権力者をねらった夜盗の類が多く棲(す)む国でもあった。
この英明さと隠微の性が混ざり合う土地で、忍術という独特のものが生まれた。
 伊賀で育った駒八と市平は、幼い頃から自然と術を身につけてきた。駒八は、いかにも腕っ節が強そうで、早くも山賊の親玉のような貫禄がある。それに比べて市平は、やや小柄で身が細く、陶物屋の若い者と、さして変わらない風貌だ。
「昨日はお前に負けたが、今日は絶対に負けんぞ」
 駒八が威勢よく言った。
 二人は今、伊賀で一番の忍びを決める「忍術九種・術比べ」に参戦している。昨日出された最初のお題はこれだ。
「あの陶物屋の前にある大甕(おおがめ)を盗んでこい。誰にも怪しまれず、先に盗った者の勝ちじゃ」
 術比べを取り仕切る、伊賀の有力な地侍、赤場影吉(あかばかげちき)がそう命じた。
 術を競い合っている若い忍びは八名。伊賀の村々で百人を超える忍びの中から勝ち残った勇者達である。
 市平は、駒八には何も応えず、ただ涼しげにほほえんでいる。だが、これでも精一杯、対抗しているのだった。
 八名の勝ち残りの顔ぶれを見た瞬間、市平は駒八だけが別格だと、すぐに感じた。
 忍術といえば、若い者達は皆、五体の働きや強さを自慢する。しかし、市平は、「ものを見る目」こそが、忍びの根本だと考えている。人に限らず、生き物でも、草木でも、天の雲の動きでさえも、その特性や本性が分かれば、万事、先が見通せる。これこそが勝ちを決する要だ。
 市平が事前に仕入れた噂によれば、駒八の祖父は伊賀の出だが、室町幕府の管領、細川家に仕える侍であったという。管領とは、後の江戸時代でいえば老中のようなもので、幕府の全権をほぼ握る要職だ。
 駒八の父は、都で暴れ回った挙げ句、伊賀へ帰って忍術修行に没頭。その後、京や近江国あたりで暗躍したらしい。
 伊賀の北に位置する近江国は、琵琶湖があるため、「都に近い江(うみ)の国」と名付けられた。近江国の南端には甲賀の忍びが住んでいる。 
伊賀と甲賀は親戚のようなものだ。争うことはめったになく、合戦ではしばしば手を組んできた。
 駒八は、豪気な家柄のせいか、人を恐れるところがない。忍び云々という前に、男として、腹の奥が強く厳(いか)つい。
奈良に棲む鹿は、立派な角を持つ雄が雌を得るというが、まさに駒八はそういう雄なのである。市平は、己は知恵で勝負するしかないと、心を定めていた。

  二

 昨日、陶物屋が見える川の舟の上で、大甕を盗めというお題が出された時、駒八は縄などの忍び道具をもって一番に町へあがった。陶物屋の裏手へ回り、そこから屋根へ登って、表の様子をうかがう。
二番目の忍びは、茶人の弟子のような格好になり、店の中へ堂々と入っていった。 そして、番頭と談笑し始める。皆が思い思いに動き出す間、市平は最後まで舟に留まっていた。
 頭の中でじっくり策をまとめると、ようやく腰をあげる。まず、小奇麗な商人の姿で背に荷をかつぎ、静かに陶物屋を訪れた。中へ入るが、店の者に声はかけず、いろいろな陶器や焼き物を興味ありげに眺めた後、陶物屋を出た。
 しばらくすると、着物を替え、別の商人の格好で、今度は荷を背負わずに店へ行く。
「誰か」
 市平は店の者を呼んだ。
「いらっしゃいまし」
 若い者が応えた。
「表にある一番大きな甕は、いかほどでしょうか」
 若い者は市平の耳元で値をささやく。市平は懐から銀を取り出し、気前よく渡した。若い者は喜んだ。
「では、甕を受け取りに、すぐ後から人足を寄越します」
 市平は穏やかに言って、陶物屋を出た。
 店で番頭と話していた忍びは、市平を尻目に見ながら何もできず、屋根の駒八も呆れた顔で見送った。
 舟から若者達の様子を眺めていた影吉は、首をひねった。
「金で買うとは……あやつ、何を考えておるのか」
 やがて市平は人足の姿になり、店へ戻ってきた。そして、大甕を荷車に積み、堂々と運び去ったのだ。
 夜──。
 町の船着き場に忍び達が集まった。輪の真ん中には、荷車に結びつけられた大甕がある。
 駒八は市平に、遠慮なく不満をぶつけた。
「大甕は盗めといわれたはずだ。金で買うなら、小僧の使いでもできる」
 日中、店の中にいた忍びも口を開いた。
「そうだ。俺は、店の主をたぶらかして、何とか甕を手に入れようとしていたんだ」
 皆に責められても、市平は悠然と構えていた。
「俺は、己の金を一文も使っていない。店から品物を盗み出しただけだ」
 忍び達は不思議そうな顔をした。
「まず、店の中から、高値で小ぶりな茶器を八つ盗み出した。それをよその店で売り、得た金で大甕を買ったんだ」
「そうか──」
 駒八が膝を打つ。
「くそっ」
 他の忍び達も悔しそうだ。
「勝負あり!」
 と、影吉が手をあげた。
「一本目は市平」
 市平は、勝ち誇ったような顔はせず、生真面目に言った。
「では、この大甕を店へ返して参ります」
 荷車の把手(とって)を持ち上げると、
「駒八、悪いが手伝ってくれないか」
 屈託のない声でそう頼んだ。
 駒八はふくれつつも無言で荷車の後ろにつき、大甕を支えて押し始める。
 夜の通りで二人になると、駒八がぼそりと言い出した。
「何で俺なんだ」
「力がありそうだったから」
 細い市平はにこりと笑った。
 陶物屋の前まで来て、荷車を止めた二人は、静かに息を合わせ、大甕を元の場所に下ろす。
「ちょっと待っててくれ」
 そう言った市平は、鉄釘(くぎ)で店の木戸を器用に開け、中に忍び込んだ。帳場にあった金箱を、これも針一本で巧みに開け、大甕の代金を取り戻す。
 その金と荷箱をもって、隣町の茶道具屋へ走った。茶道具屋に金を置き、先刻売った茶碗をすべて取り戻した後、再び陶物屋へ帰ってきた。
 駒八は、店の前で仁王立ちになっている。
「面倒くせえな。いつまで待たせる気だ」
「すまん、すまん」
 頭を下げてから、市平はぺろりと舌を出した。
「明日の朝が楽しみだ。一緒に店を見に来ようぜ」
 市平はそう言いつつ、駒八の表情を見る。
「子どもじゃあるまいし」
「だって、面白いだろ?」
 市平は、忍術で人が驚くのを見るのが大好きだ。驚く者は、たいてい何かの思い込みを土台に日々を生きている。それをひっくり返された瞬間に現れ出る、人の本性は興味深い。
 駒八に声をかけた訳は、もちろん、遊び心だけではなかった。この強敵の正体をできるだけ早く突き止めたいと思ったからだ。それには、長く接するのが一番である。
 先手を取った己を追い抜くために、この大男が何を仕かけてくるか──。
 しかし、駒八は、今朝になっても何の駆け引きもしてこない。市平の忍術に慌てふためく町民達を見て、ともに笑うだけだ。頭には、真っ向勝負しかないらしい。市平は先の読めない敵に不安を感じた。
 すべてはお題次第ということか。
 市平は神仏に祈った。
 どうか、力勝負に持ち込まれませんように──。

   三

 伊賀の忍び達の間で、昔からこのように、国を挙げての術比べが行なわれていたわけではない。影吉が仲間に話をもちかけ、今回、初めて催された戦いなのだ。
 事の起こりは数年前に遡る──。
 伊賀国のある神社で、巫女(みこ)が神を拝んでいると、突然、風が荒れ、厚い雲が流れてきて、怪しげな雰囲気が殿社を包んだ。祭事に立ち会っていた地侍や村の長老達の間に、緊張が走る。
 雲間には小さな穴があいており、妙に鋭い日の光が、神殿の前を照らしていた。巫女は何かにとり憑(つ)かれたらしく、髪をふり乱して立ち上がり、光を仰いでくるくると身を躍らせたかと思うと、やがてぐったりと倒れた。男達は固唾を飲んで見守る。
 しばらくの後、巫女は顔をあげた。次の瞬間、老いた男のような低い声で、しかし、誰もの耳に染み入るような囁(ささや)き方で告げた。
「わしは武の神じゃ」
 皆は畏れ崇める。巫女は神の代弁者であった。
「この国で当代、最も優れた舞いを舞う巫女を見出(みいだ)し、男と契らせよ。男は、伊賀で最上の武勇と徳を有した若者であること。そこに生じた子は無双の才を表出(ひょうしゅつ)し、天下を取るであろう」
 聴衆はどよめき、長老達は顔を見合わせた。
「天下を取る──」
「伊賀の男が……」
 皆の瞳に高揚が表れた。
 巫女は大きな筆をとり、武の神のお告げを勢いよく、無垢な板に綴った。それを皆の前に掲げる。日輪の光が、ご神託を目映(まばゆ)く浮かびあがらせた。
 次の刹那、にわかにその場が静まりかえり、男達の顔色がかげる。
「何たることか」
「ご神託が……」
「ご神託が、逆さまじゃ」
 男達はひそひそと話した。
「これは不吉なお告げだ」
 やがて日の光も細くなって、雲に閉ざされてしまった。皆に動揺が広がる。
 逆さまに書かれた文言は、意味が逆になるという考え方があった。
 間もなく、長老賢者が大きな声で一同に言い渡した。
「よいか皆、神は我々の欲心を試しておられる。『天下』などという言葉にまどわされてはならん。無用の野心は捨て、今まで通り、落ち着いた暮らしをせよ」
 村の男達は、どこかほっとしたようにうなずく。残念そうに下を向く者もあった。
 この場に、影吉がいた。歳は三十。彼だけはうつむかず、不敵な眼でご神託を見据えたのである。
   
 術比べの二日目、影吉が次のお題を口にした。
「この近くに名主の家があるのを知っておるか」
 若い忍び達はうなずく。
「そこへ忍び入り、家屋敷の見取り図を作ってこい。早い者が勝ち。ただし、雑な図では負けじゃ」
 暗くなるのを見計らって、またもや一番乗りの駒八が、名主の家の生垣を、ひとっ飛びで越えた。素早く庭を渡り、床下へ潜(もぐ)り込む。「道糸(みちいと)」と呼ばれる忍び道具を巻尺(まきじゃく)として用い、建物の採寸を始めた。
 しばらく経つと、同じく生垣を跳び越えて市平が潜入、音もなく床下へ忍び込んだ。床づか、ぬきといった木の支えを、うまく縫って進む。
 その市平が、急に息を詰めた。暗い床下に、水平に張られた糸があり、それが顔面に当たったのだ。
 気配を察した駒八が、
「谷」
 と、厳しく声をかけた。今朝、笑っていた男とは別人で、臨戦の構えだ。
「水」
 市平は素早く返す。
 駒八は、床下のいたるところに糸を張り巡らせていた。夜目を凝らし、かすかな線を見て取った市平はぞっとした。これでは誰も床下を探れない。
 しかし、市平は息も乱さず、軽く苦笑して見せた。
「何をするのも勝手だが、同士討ちにだけは気をつけろよ」 
 床下を諦め、庭へ出る。
 忍びは、犬のように耳が利き、猫のように夜目が利くという。実際、修行次第で、暗いところのものもかなり見えた。
 野生の獣達のほとんどは、夜に動く。その目は本来、夜も見えるようにできている。人の目も、他の獣と何か格別に違うわけではないから、見えると信じ、見ていれば、忘れ去っていた獣の力が蘇り、昼とは別の眼が開くのだ。
 忍び達は、自らが他の生き物より劣っているとは考えない。犬にも猫にも猿にもなれるし、宙を飛んだ瞬間には鳥にもなる。水に入れば魚にでも、龍にでもなれるという信念があった。
 生き物だけではない。静かに忍び、隠れる時は、岩にも木にも草にも化ける。それが忍術だ。
 庭へ追い出された市平は、縁側から苦無(くない)という金箆(かねべら)状の忍び道具を使って雨戸を開け、そっと部屋へ入った。種火程度の忍び明かりで辺りを見る。抜き足、さし足……ゆっくりと歩いて次の間へ進んだ。
 すると、そこには名主夫婦らしき者が寝ていた。寝床の脇を「深草兎歩(しんそうとほ)」という忍法で通り抜ける。手の甲の上に足を乗せる、最も音のしない歩法だ。廊下や女中部屋なども、一通り歩いて回った市平は、間もなく、生垣を飛んで外へ逃れた。
 その後、家の中で騒ぎが起きた。駒八が慌てて飛び出してくる。別の忍びが一人、家の男に捕まっていた。灰色の手拭いを頬かむりにして、まるで盗っ人だ。
 市平は近所の家の屋根の上で、その様子を見ていた。やがて手元に紙を広げると、矢立てを出して、見て来たものをかき留め始めた。

   四

 影吉ら大人達は、近所の寺の堂で待っていた。
 まず市平が戻り、駒八は五番目、最後に、名主の家で捕まった忍びが、命からがら駆け戻ってきた。
 忍び装束は、皆さまざまだ。昼間は平服で動くことが多いし、夜の闇にまぎれたい時でも、全身を黒で固めることはめったにない。たいていは藍染めの濃紺だ。頬かむりも手拭い程度で済ませることが多かった。万一、見つかった時、野良着のように見えれば、正体を知られにくいからだ。
 今夜、捕まった忍びも、どこにでもいる食い詰めた若者が盗みに入った、というくらいの印象しか、名主の家に残していないだろう。
 市平は、八名とも帰還したのを見て、
「無事でよかった」
 と、眉を下げた。
「術比べでなかったら、助けに行ったんだが」
「情けなどいらん」
 不覚をとった忍びは、灰色手拭いをくしゃくしゃに握り締め、吐き捨てた。
「俺にも意地がある」
 市平は、悪いことを言ってしまったと後悔した。無事を願っていたのは嘘ではない。しかし、人に情けを表わすのは難しい。男同士は特にそうだ。
 市平は、幼い頃から人を助けたいという気持ちが強かったが、そのやり方は未だ模索中だ。人は、救われたいと願う反面、誰かが手を差し伸べると、嫌がるところがある。
 若い忍びは頑なな表情で、駒八に言った。
「お前、罠を張るとは卑怯だぞ。皆が来ると分かっていて、よくもあんなことができたなっ」
 駒八は悪びれずに言い返した。
「これは命がけの勝負だ。それに俺は、ちゃんと符牒(ふちょう)を言った。お前が勝手に慌てて、つかみかかってきたから、あんな騒ぎになったんじゃないか」
「内輪もめはやめろ」
 影吉が二人を叱った。
「忍びはあらゆる場合を考えておかねばならん」
 重々しく言って、腕を組む。
「それより、皆、見取り図はできたか」
 灰色手拭いの忍びは、力なく首を横にふった。駒八は懐から紙を出す。
「途中になりましたが、家の骨組みは大体、調べました」
 影吉は図を受け取った。
「うむ。丁寧に測っておるな。しかし、部屋の中の詳しい様子が分からん」
「市平は?」
 駒八は負けん気をあらわにして問いかけた。
 市平は大きめの紙を、皆の前に広げた。駒八は仰天する。家中の見取り図が、すべて綺麗に描かれていたのだ。
 影吉ら見届け役の大人達も瞠目し、精巧な図を見下ろした。
「お前、いつの間に?」
 駒八がきく。
「目測(もくそく)だ。歩きながら一度見れば、尺はだいたい分かる」
 皆はうなった。
「これより良い図を描いた者は?」
 影吉が尋ねたが、誰も手を挙げなかった。
「ここまでは、市平が図抜けておるな。他の者も負けるな」
 発破をかけられ、若い忍び達の目が燃える。
「ちくしょう、平家の落ち武者ごときにやられるとはな」
 駒八が舌打ちをした。他の忍び達は、市平に食ってかかる勇気がなく、一様にうつむき、黙っている。
 市平は困った表情になった。
「平家……? いつの話をしている。もう三百五十年も前のことではないか」
 駒八は引かない。
「だが、そうだろう。お前は壇ノ浦(だんのうら)で源氏に滅ぼされた平家一門の末裔(まつえい)だ」
「俺は平家長(たいらのいえなが)の直系ではない」
 市平が応えると、灰色手拭いの忍びが話に入ってきた。
「庶流(しょりゅう)ではあっても、お前達がどんな血筋かくらい、皆、分かっている」
 忍びは、蔑むような目をしていた。
 市平は腹立たしく思った。
 どうして今さら、落ち武者などと辱められねばならないのか。己は勝負に勝った。勝ったのに、なぜ──。
 だが、顔にはいっさい出さず我慢した。市平は十歳ごろから、どんなに怒りが湧いても、その気持ちを外に表わさない稽古をしている。初めは顔が赤くなったり、身体が勝手に相手を殴(なぐ)ろうとしたり、その場では我慢しても、すぐ後から別の者に八つ当たりをしてしまったり、なかなかうまくいかなかった。
 こつをつかんだのは、三年目くらいだ。腹のあたりがかっと熱くなるのをじっと味わい、五つくらい数えていると、それは消える。頭に来た時は、脳天に氷を乗せたような夢想をして、また五つほど待つ。
 その後、しばらく置いてから、なぜ己が怒ったのか、訳を徹底して考えた。たいていは、物事が思い通りにいかないから、腹が立つのだ。ならば、そもそも己の望みや期待が正しかったのか──この点をまた掘り下げてみる。
 頭と心の修行を繰り返しているうちに、己に相応(ふさわ)しくないものは、望まなくなってきた。
 今、腹が立ったのは、遠い先祖の名を汚(けが)されたためだ。勝負に勝った己は、むしろ、「さすが平家の末裔」と褒め讃えられるべきところ、存外にも蔑まれた。
 だが、駒八のような明らかな敵に、褒めてもらおうと考えていた己が馬鹿なのだ。逆に、駒八はこちらの心をかき乱そうとしているに違いない。
 無言になった市平の向かいで、八人中、最も小柄な忍びが口を開いた。
「今は、忍びの術比べをしているんだ。血筋なんて関わりないだろう」
 その忍びを見て、駒八は吐息をついた。
「柘植(つげ)の宗次郎(そうじろう)か。早駆けが得意らしいな」
「え?」
 忍びの表情が変わる。
「俺のこと、知ってたのか」
「ああ、もちろん。まだ十七だが、一角の術者だと聞いている」
 宗次郎は頬を緩めた。
「実は、俺も家屋敷の目測はできるんだぜ」
 皆は驚き、駒八は怒ったような顔をした。
「なら、なぜ描いたもんを出さない」
「それは……」
 宗次郎は口を歪めながら、懐に隠していた紙をそっと見せた。皆がのぞき込む。
 影吉は眉を寄せた。
「何じゃ、これは? これで目測ができるなどと、よう申したな」
「はははっ」
 駒八が遠慮もなく笑う。
「落書きか?」
「違う!」
 宗次郎は顔を赤らめて反論した。
「俺が屋敷から抜け出した時、もう市平が悠々と屋根の上で絵を描いているのが見えたんだ。それでちょっと焦ったのさ」
「何を言い訳してやがる」
 駒八は取り合わない。
「俺は絵が下手なだけだ。もう一度、あの家へ忍び込めって言われたら簡単だし、人を案内することもできる」
 市平は、宗次郎の見取り図をよく確かめた。なるほど拙(つたな)いが、間違っているわけではない。この図を手がかりに、詳しく家の形や尺を説けば、建物の全容が伝わるかもしれない。
「絵が苦手か……それは残念だったな」
 影吉が冷たく言い捨て、皆は必死で笑いをこらえた。
 宗次郎のことはよく知らなかった。小柄な上、童顔でへらへらと笑っているため、まだ十四、五の子どもかと思っていた。しかし、こういう者こそ侮れないと、市平は心中、兜(かぶと)の緒(お)を締め直した。

 平家長というのは、伊賀では有名な武将だ。否、全盛期には諸国へ名を轟(とどろ)かせていた。
 古くからの武家に、源氏と平氏という二大勢力があるが、四百年近く前、平家が皇族、貴族との結びつきや異国貿易などで力をつけ、隆盛を極めた。その頃は伊賀国にも平家の武士が数多くいて、目覚ましい活躍を遂げたという。
 しかし、長年、平氏に屈していた源氏が、東国から猛然と攻め上ってくると、平家の侍達は京の都を追われた。ついには本州と九州の境、壇ノ浦の合戦で敗れ、滅びてしまう。この時、平家長も没したといわれるが、密かに伊賀の山中へ落ち延びてきて隠棲(いんせい)した。土地の者達はそう伝え聞いている。
 伊賀は昔から、落ち武者が難を逃れて生き延びるのに、格好の国だった。そのため、山中や田園の端(はた)の小さな土地に、名族の末裔が暮らしていることも珍しくはない。
 市平は、今は地侍の一人に過ぎないが、平家長の庶流、つまり分家筋の子孫とされている。平家の末裔というのは、誇りでもあり、哀しい話でもあった。
 落人(おちゅうど)伝説の多い伊賀では、世の陰の面が、むしろ人々の心に留まってきた。「伊賀の子が天下を取る」というご神託が、逆さまというだけで、ほとんどの者があっさり鎮まり、諦めてしまったのは、そのせいだろう。平家の隆盛と没落は、実に衝撃の出来事で、「驕れる平家は久しからず」「諸行無常」といった言葉が、深く心に刻み込まれている。
 その後も都の権力闘争を、常に隣国から見てきた伊賀の長老達は、たとえ天下を取っても、それは永遠でないことを知っている。「盛者必衰」こそが、むしろ自然の理だと悟っているのだ。昔から伊賀に根付いている仏教の教えとも相まって、「無欲が一番」と考える者は多い。だから、長老賢者の「野心にかられるな」「落ち着け」という話が、すぐに通ったのかもしれない。
 影吉は、これを密かに覆そうと考え、ほとぼりが冷めた頃、術比べの話を皆にもちかけた。「伊賀で最上の武勇と徳を有した若者」を探し出すためである。
 同じ年、「この国で当代、最も優れた舞いを舞う巫女」は、すでに現れ、伊賀の男達を虜(とりこ)にしていた。

 この若い男女の子として生まれることになるのが、後に伊賀の忍びの頭領と呼ばれる服部半蔵保長(やすなが)だ。服部半蔵という通称は、保長を初代として、代々、襲名されていく。
 今は十六世紀の初め、京の都では室町幕府の権威が揺らぎ、争いが絶えない。室町といえば、花の御所に象徴されるように、貴族風の華やかな文化が生まれた時代と思われがちだ。しかし、実のところは武家の隆盛期にあたり、諸国には武骨な男達が溢れかえっていた。
 侍はもちろんのこと、村々に住む民も、旅の商人も、得体の知れぬ流れ者も、皆が皆、刀や自衛の具を携え、戦いを辞さない。喧嘩を売られたら、買う。どこかに強い武士がいれば、行って庇護を求め、その武家の雑兵ともなる。そんな時代だ。
 やがて世は戦国時代へ突入、諸州の大名、国人(こくじん)達が壮絶な戦いを繰り広げるのである。

                             つづく

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