映画「イニシェリン島の精霊」試写会


「何もしてないさ ただ嫌いになった」
/ 映画「イニシェリン島の精霊」


試写会にはよく行くんだけれど、この映画はあまりにも印象に残ったので note に感想を書いておく事にした。ネタバレはしないようにしようと思うけれど、ある程度は推察出来てしまうだろうから、真っ白な状態で観たい人は読まない方がいいと思う。あらすじなんかはサイトを見てください。

ネタバレはしない、と言いながら、書いてある内容は観てないと通じないような内容になってる。なんで?

ただ、ヨコオが混迷に至った(至ったんです)雰囲気なんかを知った上で、観たい、という人だけ以下をどうぞ。


この映画。観終わった後、結構衝撃を受けた。
最初の感想は「面白かったんだけど、人には勧められない」という感じ。

アート系でよくある「何言ってるかわからない」というタイプじゃない。
出来事の理解は出来るが、腑に落ちない。そう、「腑に落ちない」という表現が自分の中で一番しっくりくる言葉だった。

この監督が撮った「スリー・ビルボード」っていう前作も似たような話題作だったらしいけど、観てない。それも原因かもしれない。

もちろん、ヨコオがアホで何も理解出来てない、という可能性もある。
わからない。


この映画、要約すれば「おじさん二人のケンカ」という内容なんだけれど、一部登場人物(老人)の動機がわからないまま、行動だけ見せられ、放置される。

正確に言えば、老人は「動機」や「気持ち」を口にするものの、観てる側は全く本心だとは感じられない。だから、裏に何か「本当の理由」があるのでは?と勘ぐる。が、それはいつまでも見つからない。

あまりにも分からなくて、帰ってから色んな感想を見たが、どれもこれも腑に落ちない。

ケンカを、民族紛争のメタファーとして捉える感想も見たし、自分もそういう話になるのかな?と思って観てたんだけど、最後に至るまで全くそう思えなかった。

民族紛争にはそれぞれちゃんと理由があってモメるんであって、この映画みたいに理不尽じゃない。仮に「片方の視点から観たら理不尽である」という事を言いたいとしたら、「いやそれを描くには別の方法が良くない?」と思ってしまう。


伏線のような謎掛けは沢山あり、それはまあ、このタイプの映画ならよくあるよね、で終わるようなモノも多い。きっと何かの比喩だったり、ハイコンテクストな設定だったり、あるいは単なる無意味さなんだろう、と思える。

が、老人の行動動機に関してだけは、とにかく、腑に落ちない。
老いや人生を語ってるように見えて、実際のところ、どの理由に対しても行動が破綻している。そしてそれを、当人は納得した顔で過ごしている。


一体何なんだ!何の為にこの映画が存在するんだ!
という思考をグルグル回しながら、なんとかたどり着いた解釈が以下だ。

あの老人は、監督そのもの。
老人にとっての音楽は、監督にとっての映画。
中年の友人は、観客や評論家。

という置き換え。

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監督は、商売だから映画を作っていた。
が、アホ面下げた観客や評論家にうんざりはじめる。
監督は観客から「どうして?何なの?」と答えばかりを聞かれる。
そのアホさに絶縁状を叩きつけ、映画(音楽)制作に没頭しようとする。

だが、監督自身にとっての映画もまた、過去の偉人を例に出すような、薄っぺらい映画論しか持ってない事に気づく。その絶望から目を背けるように、観客への憎悪を言い訳に、やがて、映画を作れないほどの自傷行為に走る。
そしてそれは、監督にとって、ある種の救済行為となり得た。
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つまり、あの老人は監督自身の理不尽さと、閉塞感を自虐的に描いたものではないだろうか?もしくは、無自覚に出てしまったのでは?という想像。


という感じで、この想像を振り返ると、自分(モノ作りに関わるヨコオ)自身を振り返っているみたいな結論になっていてゾッとした。

人間は理不尽だったり、意味不明だったりすることを耐えられない。
私達は、凶作や死などに対して、科学的根拠や、神や悪魔という「理由」を求めてしまうように出来ている。

映画に於いても同様で、自分がわからないモノに対しての防衛反応として、比喩や解釈を生み出さずにはいられない。「きっとこういう意味があるだろう」「面白くないから駄作だ」「観る必要がない」。そうやって、見出した答えの形は、自分自身を鏡で映したようになっている。

考え過ぎなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
映画は面白かったけど、何もわからない。
それも、誘導された答えなのかもしれない。

この日記が全部「考え過ぎ」って事で閉じて良ければ、気が楽なのに。

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