連載「静岡から愛知へ①」~記譜のフォーマットを変える~

……演劇論について考えている。が、寂しいかな、誰も同じ話題について話し合ってくれるような、便利で好都合な対話者は存在しないのだ。

そこで、思いついたことは、こうして寂しく独白されるよりほかないのである。

(以下、真面目な演劇論です。ご高覧ください。)

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「篠田 2012 年に書いた戯曲をこの戯曲賞ならいけるかも、と思って応募してきてくれたんでしょ。そういうのは歓迎したい。もうちょっとフォーマットを工夫して応募してきてほしいなあ。」(「第16回 AAF戯曲賞選考会レポート」

『日曜日』という2012年に書いた戯曲を、2016年の戯曲賞に応募した。ほとんどの戯曲賞では、コメントをもらえないが、この戯曲賞は素晴らしく、応募作に対してコメントがもらえる。それにいたく感動した私は、改めて「記号の動性を感じるためのトレーニング」と副題のついた、この戯曲の意味を考え直したいと思った。

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『日曜日』(2012)には、元になった戯曲がある。『Sunday』(2011)である。この戯曲について紹介していく。

この戯曲は、言葉の劇的潜在性を掘り起こすためのトレーニングとして書かれた。分析したいことは山ほどあるのだが、今日は「わたし」の形態について、分析してみたい。

例えば、

「わたし は いま あるいている」

という文章がある。この文章は、直示deixisと言われ、舞台上にいる俳優を名指す性質を持っている。

「わたし」を繰り返すことで、舞台上にいる俳優(A)と「わたし」という登場人物(B)の間で、意味論的な乖離を引き起こす。この乖離が、(舞台上の)現実と、(言葉の上での)フィクションを作り出す契機となる。

「わたし」(B)は、三語のまとまりとして発せられる限りは、物語を作るための言葉として作用する。しかし、「わ・た・し」と音で分けると、フィクション(B)と舞台上での出来事(A)が、混在するようになる。

この混在こそが、記号の動性である。つまり、上位レヴェル(A)と下位レヴェル(B)の間を記号が動くのである。

俳優の演技は、この記号を形態素に分解したときに、いかにアクセントづけるか、いかに旋律づけるか、いかに空間と構成づけるか、などといった様々な作業をすることで作られる。

例えば、「わたしわたしわたし……」と単語を繰り返すことで、「わたし」は「たしわ」のグループに変換される。「たしわ」が(A)に属するのか、(B)に属するのかは、俳優の演技に委ねられるが、それも戯曲の進行に左右されることは間違いない。例えば、「たしわ」に意味が生まれれば、これは(B)に属する言葉に変わる。そして「たしわ」の物語が始まるのである。

俳優は、戯曲の構成を鑑みた上で、「わたし」を「たしわ」にしたり「わたし」に戻したりする。これが、いわゆる解釈というものである。

■3

さて、以上のような目論見で書かれた戯曲だが、篠田さんに「フォーマットを」と言われてしまったので、「わたし」の部分だけだが、新たに記譜しなおしてみた。

……だいぶ、わかりやすいはずである。少なくとも、文字で「わたしわたし……」と書かれているよりは、何を俳優が読み取るべきかは、ハッキリとしている。

そして、音楽にすると、以下のようになる(google driveからのダウンロードになります)。

「Sunday」wavファイル

……「たしわ」の物語が始まってこないだろうか?

(ちなみに、2011年に双山あずささんに、演じてもらった『Sunday』の動画)

■4

演劇の場合、言葉のグループを変化させるたに必要な要素は(音楽の場合と異なって)、リズムや旋律、音質に加えて空間と身振りがある。

本来、演劇の記譜にとっては、空間と身振りに関する記号というものが開発されるべきだ(そういった試みは1950年代に盛んだった)。

私の目指しているのは、戯曲の読み方、言い換えれば戯曲のソルフェージュを系統だったものにすることだ。

AAF戯曲賞には、落選してしまったが、もちろん戯曲賞に受賞することが目的なのではなく、この問題について議論し、理論を深めていくことが大切だ。

是非とも、この問題について話し合ってくれる人がいたら、声をかけていただきたく思います。

■『日曜日』テキストがgoogle driveよりダウンロードできます(こちら)。