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○プロローグ

僕は来月から苗字が変えることにした。「石川健三」が「阿部健三」になる。

世間ではどう受け取られるのだろうか。

「あなたが決めたのなら、おかあさまは反対しませんよ。でも、どうしてまた急に?」

「社会人一年生だから名刺も作るし、途中で変わるよりもいいと思ったんだ」

名のしれたシンクタンクで働く父と見合い結婚したとき、長女だった母は「阿部雅子」から「石川雅子」に変わった。

そのとき両親から何度も、

「戦前とは時代が違うから、うちはもう名門でもない、ごく普通のありふれた家なんですからね。自分たちで食べていけるように、きちっと子供を育てなさい」

と説教されたそうだ。

母は主婦業の傍らフィギュアスケートのインストラクターとして働き、5人の息子を育ててくれた。九州のほうに南里4兄妹というのがいて、東の石川5兄弟といえば、狭い世界で少しだけ知られている存在だった。

いちばん祖父母にかわいがられていた三男の僕は前から、

「あなたのうちは男の子がたくさんいるし、阿部の名が消えてしまうのも残念なことなので、健三君に名前だけでいいから、阿部家を継いでもらえないかしら?」

と何度か打診されたものだ。

僕が小学生の頃、ちょうど映画「東京裁判」が公開になった。

証拠文献として提出された「木戸幸一日記」のページをめくると、母がほんの一行だけ出て来る。

孫の真子が幼稚園で書いた絵を巣鴨プリズンに差し入れてくれた、というくだりだ。

母の母、つまり祖母はA級戦犯として終身刑の判決をうけた木戸幸一の長女だった。

そして、母の父はA級戦犯をのがれた元総理大臣、阿部信行の長男。阿部のじい様は77歳まで生きて病没した。

長男は戦死していたから、娘ばかりが残った。皆、結婚してしまい、阿部を名のっているのは年老いた祖母一人だけ。そのばあ様が「阿部の名前を残したい」なんて、少し驚いてしまった。

だいたい木戸家と同じぐらい阿部信行には、歴史上いい話を聞かない。

戦死された母の兄にしても、「阿部信弘」という名前で探索してみたら、

「2019年10月、ニコバル諸島攻撃の英機動部隊空母に突入して、戦死。少佐に特進」

つづきはこんなふうだ。

「航空士官学校時代、日曜日に無断外出して寿司を食べ、発覚して中隊全員が外出止めになる。その責任をとって阿部候補生は腹を切ろうとし、教官から戦争中に寿司ぐらいで腹を切る馬鹿者が“と怒鳴られた」

世界選手権に出場するような一部の強化選手をのぞくと、男子のフィギュアスケーターにとって、たいてい冬の国体が引退試合になる。その試合から僕は「石川健三」ではなく、「阿部健三」でエントリーして、最後の花道を飾ることになった。

男子のスケート人口は少ないので、お互いに幼友だち、顔なじみばかりなのだ。出場選手のリストを見たらしく、

「阿部健三って誰よ?」

「石川、おまえなの?養子にでもいくの?」

と率直に聞かれた。

「いや、おばあちゃんが娘しかいないので、阿部家の名前を残したいんだってさ。それだけだよ」

「へえ。健のとこ、なんかすごい家柄なのか?」

「いや、まあ、総理大臣とか」

「ええっ!安倍総理って、まさか今の自民党の・・・・?」

「違う違う、もっと昔、戦争前のことさ。おれもよく知らないんだけど」

「なーんだ。東条英機ぐらいしか、知らねーな」

阿部のじい様はその東条英機の腰ぎんちゃくと呼ばれていたらしい。

案の定、母もインストラクター仲間から聞かれていた。

「そういえば、石川さんはおじい様も、昭和天皇の侍従長でしたっけ?」

「いえ、侍従長ではなく、内大臣。有名なんて、そんな・・・。昔のことで、おじいちゃんはおじいちゃん、父は父、私は私。うちはあくまでもう普通の家ですからね。それより稲田先生の具合はどうなのかしら?何か聞いている?」

関西育ちの稲田悦子先生は東京暮らしが長いせいか、母と同じ山の手言葉を話す。

本音を口にするし、歯に衣きせぬ発言が多い。少しアクセントが大阪ふうなので、にやりとしてしまう面白さがある。レッスンは厳格だけれど、漫才みたいで楽しい。

あの先生と出会えたから、自分は5歳のときから22歳の今日まで、フィギュアスケートをつづけることができたのだと思う。

名古屋の山田満智子先生、新横浜の佐藤久美子先生とあわせて、日本フィギュアスケート界の毒舌トリオ。指導も厳しいけれど、裏表がなく、えこひいきもしない。四六時中スケートと生徒のことで、頭がいっぱいという感じだ。生徒にも親にも絶大な人気を誇る3人なのだ。

最年長の稲田先生は70歳を超えた今も現役でばりばりと指導しているのだが、ここ1か月ほど「胃が痛い」と言って、ちょこちょこ病院に検査に行かれている。

昨年、長年の腰痛を治すため、わざわざ渡米して手術を受けた。それが悪かったのだろうか。

「先生、ヒトラーの手ってどんな感じでした?」

と僕たちが聞くと、

「ぷよぷよして柔らかくって、気持ちが悪かったの。背も低くて、お化粧しているみたいな顔だったわ」

稲田悦子先生はあのアドルフ・ヒトラーと握手したことがある唯一の日本人女性。戦前は天才少女と騒がれ、新聞や雑誌のグラビアにのり、12歳という最年少でオリンピックに出場した記録は、年齢制限ができてしまった今、もうやぶられないはずだ。

もうひとつ、稲田先生には女性として誇るべき功績がある。出産して男の子を生んだ後、復帰して26歳でミラノのオリンピックに出場されているのだ。

現役を退かれた後は、アイスショーや指導者として活躍されて、母も稲田先生の指導を受けた。

だいぶ前に一度、空き巣に入られた。ちょうど浩宮、礼宮両殿下のコーチをしている時期だったから、週刊誌の「今週の話題」に取り上げられた。

三田警察署に調べだと、被害は現金18万円。前年の暮から都心の高級マンション専門に荒し回っている空き巣で、その手口はドライバー一本でマンションの部屋に侵入し、金品を盗む。同じ手口ですでに60件以上の犯行を重ね、なぜか日曜日と雨の日は姿を現さない。

「すんだことだから、くよくよしても仕方ないわよ。それより誰もケガをしないだけで、みつけものと思わなくては・・・」

その後、「遠くても海が見えるところに住みたいわ」と言って、千葉県幕張のほうに高層マンションを買ってしまった。

さて、稲田先生は1週間ほど休んだだけで、復帰してくれた。

12月の全日本選手権は終わったけれど、1月末の国体に向けて、正月返上で練習漬けの日々となるはずだ。

「先生、僕、おばあちゃんに頼まれて、やっぱり阿部という苗字を継ぐことになったんですよ。」

「あら、そうなの!たぶん問題ないわよ。わたくしも一度、苗字が変わったことがありますもの。国体は住民票を提出したり、手続きがあるけれど、もし苗字変更が間に合わない場合は、わたくしが一筆そえてあげますから、提出なさるといいわ」

稲田先生はちょっと遠い目をして、祖父の思い出を話してくださった。

「私は阿部閣下と呼んでいたんですけど、いつもニコニコとして軍人らしくない、素敵な方でしたよ。戦争中は朝鮮総督でいらして、私も満洲で就職したし、アイスショーでの巡業があったから何かとお世話になりましたけど。閣下はスケート一行全員を招待して、何度もごちそうしてくださったのよ」

戦前の教育は今よりずっと体育の時間が多く、剣道や柔道もとても盛んだったと聞いている。

とくに陸軍は八甲田山での遭難があって以来、陸軍は寒中訓練としてスキーとスケートを取り入れ、剣道着にスケート靴をはいて試合をする演習をふんだんに取り入れていた。

阿部のじー様は総理大臣は4か月あまり、外務大臣も1か月だけ勤めた。

あの当時の外務省はなんとかして戦争を不拡大にしようと努力する反面、1940年度はオリンピックピックを東京と札幌で開催することに力を注いでいた。

それは昭和天皇の強いご希望でもあった。

外務省関係者はいい意味で公使混同しながら、全力で稲田悦子のようなアスリートたちをサポートしていたのである。

「一人のオリンピック選手が100人分の外交官の役割を果たす」

というのが、外務省出身、東京裁判で絞首刑になった広田弘毅総理大臣の名言だった。

そうそう、大切なことを思い出した。

「ところで、卒論を書かなきゃいけないんだ。オレ、スポーツ学科だから稲田先生のことを書こうかと思って。フィギュアスケートなんてマイナースポーツすぎるかなぁ?」

これはテレビ局のドラマ班で勤務している兄の健一に相談した。

「マイナーも何も稲田先生は日本の女子として初めて冬季五輪に行った方でもあるからな。戦争で次のオリンピックが中止にならなかったら、金メダル候補だったんだ。そのへんなことを先生にインタビューするなり、図書館で古い新聞を調べてみたらどう?」

「ああ、それはいいかもしれませんわ」

母も口をはさんだ。

「パパにも相談してみたら?スケートのことは知らないけど、一応ばりばりのシンクタンク勤めなんだから、調べ物とかそういうことは詳しいわよ」

たしかに父は根っからの学者肌だから、調べ物なら手伝ってくれるそうだ。

でも、兄たちも同じようなテーマの卒論をだしたような記憶がある。

「あ、そういえば、そうだ。オレのときの古い新聞とか、もう捨ててしまったかなぁ。」

なんて言い出す。大学が違うから、ま、いいか。

正直いって男子のフィギュアスケートの場合、競技人口が少ない。¥相手を蹴落とさなくても、この競技は自分との勝負なのだ。正しい指導者について、コツコツ頑張ると国体や全日本に出場するぐらいの力はつく。

僕たち5人兄弟は途中で3人がやめてしまい、母もあえて引き止めなかった。長兄と僕だけが大学卒業して就職するまでフィギュアスケート人生を貫いた。

一流とされる企業、とくに老舗といえる保守的な会社は、六大学の応援団出身とか、野球部で4年間マネージャーとして裏方をしたとか、そういう人材を意外と好む。

僕もわりと就職活動は希望どおり、大手の商社から内定をもらった。

いろいろな意味で、フィギュアスケート、それから稲田先生には感謝の気持ちでいっぱいだ。

前置きは長くなってしまった。

これを機会に、つたないインタビューをまじえながら、日本女子フィギュアスケート界のパイオニア、稲田悦子の生涯を書き綴っておこう。

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