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第4章 大阪歌舞伎座ビル


「朝からスケートをやる。戸外で食事をして愉快になり、滑りそこねて、水中に落ちた」と書いたのは、ドイツの詩人、28歳のゲーテだった。

 日本では明治になってすぐゲーテの名が紹介された。たちまち「若きウェルテルの悩み」がブームになり、島崎藤村、尾崎紅葉、堀辰雄らに大きな影響を与えた。

 悦子の毎日は文学ではなく、スケート一色だ。

ABCリンクに少し遅れて、大阪難波新地に7階建て、地下2階の歌舞伎座劇場ビルが完成した。正面はこれまで見たことがないほど巨大な丸窓、玄関ホールにはこれもまた巨大なシャンデリアがぶら下がっていた。

中村鴈治郎の人気も相まって、こけら落としはたちまち売り切れ。

劇場は1階から4階を占めた。これが東京よりも切符は手に入りやすく、客席も見やすい、という評判を呼ぶ。

芝居がない日も、屋上庭園、スポーツランド、観覧席、休憩室、美容室が軒を並べ、半年遅れてスケート場も営業を開始した。

なんと5階と6階にサブリンクとメインリンクの2つができて、メインのほうは50平方メートルという広さ。ABCリンクは20平方メートルほどの広さだったので、悦子はこちらでも練習するようになった。

玄関ホールほど大きくはないが、いくつもシャンデリアがぶらさがり、大人の社交場らしく、高級感を漂わせていた。

 ときどき光次郎が見に行くたびに、悦子はまるで何かが憑依したかのようなスピードでぐんぐん上達していた。そういう娘を見ることは誇りだったし、何にも代えがたい喜びとなった。

 悦子が滑りはじめると、周囲の大人たちも唖然として、見とれてしまう。今はもうすっかりABCリンクでも、歌舞伎座のリンクでも顔となり、もう誰も面と向かって怒鳴りつけたりはしない。

 折も折、レイクプレシット五輪で惜敗した老松と帯谷が中心となり、悦子たちが知らないところで、

「次のオリンピックまでに何人か新人を発掘し、育成していこう」

 という熱意がすでに盛り上がりつつあった。

朝日新聞社が年に何回か、自営のABCリンクに老松や帯谷を指導者として招聘するようになった。

彼らと交流を深めた永井康三は、いつも朝日リンクで滑っている少女を思い浮かべた。

「いつも来ているあの子は、何歳なんだろう・・・」

 永井はスケート愛好家兼スケート研究家を自負していた。

 もともと永井は資産家の子息で、ヨーロッパに絵の修業をするため留学しに行ったのに、スケートのことばかりを覚えて帰ってきた変わり者だった。まだ和服が多かったのに、永井はたいていツイードのジャケットにニッカボッカーを着ていて、それがよく似合った。

西日本には川久保子朗のスケートの普及に尽力していたのに対し、関西のスケートブームはこの永井康三の功績によるものが大きかった。さっそく悦子の父親に、

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