見出し画像

1935年、芝浦スケートリンク


 いよいよ1935年11月25日から、第6回全日本フィギュアスケート選手権がはじまった。これで翌年、ドイツのガルミッシュ=パルテンキルシェン冬季五輪に出場する代表選手が決定する。

 ず11月25日に山王リンクでジュニアの男子と女子のスクール競技(規定)。

 翌26日には新宿の伊勢丹スケート場にて男子の選手権クラスと男子と女子がスクール競技。

 27日に芝浦リンクで全選手の自由演技という予定が組まれた。

 というのも、山王リンクは20メートル四方ほどの広さしかなかったので、自由演技には狭すぎたのだ。

 東京市西芝浦4丁目にできた芝浦リンクだけが、60メートル×26メートルという国際競技の規定を満たす広さで、客席は3千人分あり、東洋一のスケート場という呼び声が高かった。

 天才少女が滑るという評判で、マスコミも観客もかなり集まった。ブルジョワ階級一色の山王リンクと違って、ここは宮様から下町っ子までかなり客層が幅広い。

 来栖一家も吉田和子も来てくれた。和子の兄の正男と来栖良は学年は違えど、フランス人が創設した暁星中学校に通っている仲だ。男子スケーターの友だちが何人かいて、男友だちと応援にきていた。

「悦子、普段どおりに滑ればいい。いつもどおりだよ」

 そういう永田のほうが緊張して、同じセリフばかりを繰り返していた。否応なしに緊張は高まる。光次郎もハツも興奮気味で心臓が破裂しそうだったが、悦子の前ではできるだけ落ちついた表情をしようと内面では戦っていた。

 全体のレベルは年々あがっていて、男子の上位争いは接戦で規定では1位は慶応大学の長谷川次男で、847.30点、2位は五輪経験者の老松一吉で842.70点、3位は関西学院の片山敬一がつけた。

 女子はジュニアクラスのほうに中村衣子、月丘芳子、有坂隆祐ら有望株がちらちら見られた。中村衣子は現在国際審判員の平松純子の祖母にあたり、年齢は悦子より上だった。

 選手クラスになると、男女ともに悦子以外は20歳前後の大人ばかり。ほとんどの選手が前はともかく、後ろ向きに滑るバックループ・チェンジ・ループでもたつき、尻もちをついてしまう者が続出した。

 バックループは悦子がもっとも得意としている。誰にも負けない自信があつた。山王リンクの氷には慣れ親しんでいた。絶対に本場でミスしないように、毎日繰り返し滑り込んできたのだ。

 規定の安定感とスピードは圧巻だった。男子をうわまわるダントツの965.50点を叩きだし、2位の東郷球子たちを寄せ付けなかった。

 悦子も膝より少し長いスカートを着るようにはしていた。が、スピードのある動きになると足全体がむき出しになるから、いつもきちんとブルマーをはくようにしていた。ひらひら裾がめくれても、まだ子供なのだから許されていたようだ。

 普通の女の子なんか、嫌だ。

 近所の子にしてもクラスメートにしても、つまらないことで怒ったり、意地悪したり、人を妬んだりしてばかり。私はもっと何か特別な目標をもった大人になりたい。

 子どもらしい遊びの心や学校生活はすべて投げ捨て、1日も欠かさず、練習して、練習して、練習して・・・・。悦子が求めたもの。それはスケートをとおして、世界中の人との出会い、高みへの挑戦、氷と踊りの融合した美を表現すること。

 ティーンエイジャーという年頃は見た目よりもずっと大人で、体も疲れないから鍛えたらどんどん強くなる。親ですら気がつかないうちに、あどけない顔とは裏腹に、悦子の心と技はいちばん急速に伸びる成長期の手前にさしかかっていた。

 1月27日。いよいよ自由演技である。

 永田はぎりぎりまで悦子のスパイラルについて、迷っていた。

 スパイラルというのはバレエ用語でいうアラベスク、片方の足を高くあげるポーズを指す。もっとも女性らしく、美しい技のひとつとされていた。

 アンナ・パプロワが来日して、公演して以来、バレエファンは急増していた。ロシア革命でスターダンサーたちが何人か日本に亡命して、バレエ教室を開いたりもするようになっていた。

 今だったら、フィギュアスケートの選手がバレエを習うのは、ごく当たり前になっているのだけれど、永井にはそういう知識がまだなかった。戦後もしばらくは両手をひろげて、手の平を上にみせただけで、

「観客にこびているダメな振付だ」

と決めつけられたほどだ。

 そのせいもあり、悦子の「ミリタリー・マーチ」はかなりスポーティーで、男っぽい振付に仕上がっていた。

スパイラルが唯一といっていいほど、女らしい見せ場だったのである。

 永井はオリンピック帰りの老松らの助言に従い、

「欧米の女子選手は頭よりも高く片足をあげて滑りなさい」

 と悦子に指導したところ、覚えの早く悦子はすぐにこれを習得してしまった。

 思い切りよく、とあーっという声をあげて、90度どころではない、100度ぐらいはあげてしまう。スカートをはいているので、下着代わりの提灯ブルーマーがすっかり丸見えになってしまった。冗談ぬきで、何度か警官が飛んできて、

「風紀を乱す行為だ」

 と説教されていた。

「東京スケート倶楽部」の小林進インストラクターはシングルだけではなく、団体競技のレビュー、さらにペア・スケーティングも練習させていたのだが、このペアが警察から問答無用、「風紀をいちじるしく乱す」という理由で、「禁止!」を言い渡れたのだ。

「ペア・スケーティングはオリンピック競技でもあるんですよ!」

小林インストラクターはじだんだを踏んで、悔しがったものだ。

スパイラルは男子は必ずしも入れないエレメンツだし、他の女子は悦子よりもっと年長で、10代後半といえば、当時の結婚適齢期。スカートの中を見せるなんて、

「とんでもない」

 と傍で顔をしかめる良家の子女が多く、スパイラルといっても、せいぜい足を45度ぐらいあげる程度だ。

 この日の練習滑走でも、悦子がスパイラルに入ると、仰天してしまい、おもわず小学生らしい自分の子供の両目を手で覆ったりする親子が観客席にいた。

女子の出場選手21人のうち、悦子は7番目。まあまあの滑走順だ。

30分前から軽い体操をしてウォームアップ入り、体を温めてから悦子は黒い靴下をはき、愛用している黒いスケート靴をすばやく履いた。永井は声をかけた。

「人という漢字を手に平に書いてそれを飲みこんでしまうといい。そしたら、緊張したり、あがったりしなくなる」

「はい、わかりました」

 うなづいてから、リンクの中央にむかって、ポーズをとりながら曲がかかるのを待つ。

 観客が多く、ポータブル蓄音機の音は聞き取りにくかったが、なんとかスタートしたのがわかった。あとは自分でカウントを取りながら、演技をつづけるだけだ。

 スピードをつけたまま、両足を180度ひろげてイーグルの姿勢で、リンクを端から端まで横断する。それからジャンプ。すべて1回転なので、自信はあった。

 まず最初はサルコー、それからルッツ。

 1つめのジャンプで自信をつけて、2つめに難度が高いジャンプをもってくるのが基本だ。

 なにしろ演技時間は5分。男子と変わらない長さだったから、体力のある前半に難しいジャンプを集中させるほうが確実だ。

 後半に入ってすぐ、見せ場がきた。悦子は勢いをつけて滑り、思い切りよく片足をあげた。おかっぱ頭よりも30センチぐらい高く黒いスケート靴が上にあがり、白手袋の両手をさっとつばくろのように開いた。

 日本ではじめてといってもいいほど、豪快で優美、見事なスパイラルだった。

 カメラのシャッターを切る音とクロマシウムのたかれた匂いが、たちまち氷の上に漂いはじめた。明日の新聞はこのスパイラルの写真がスポーツ欄を飾ることになるのだろう。

 恥ずかしいことなんて、ない。これはスポーツであり、踊りであり、芸術なのだから!

 一瞬の沈黙の後、嵐のような拍手喝さいが沸き起こった。

 息が切れてきたが、スピードを落とさないよう、丁寧なディープエッジを心がけた。

 あっというまにエンディングのポーズがきてしまった。

 審判団がノートにいろいろ書き留めながら、あれこれ思案している。ほんの3分ほどだったが、悦子には長く感じられた。

 さっと審判たちの両手があがり、それぞれ得点の書いたカードをもっている。

 自由演技の合計点は903.42!

男子の上位3名も自由演技では3名とも700点台に終わっていた。

もはや判定を待つまでもなかった。

日本のフィギュアスケート界に初代女王が生まれた瞬間だった。

 

手元に翌日発行の「読売新聞」の切り抜きによると、新聞記者に囲まれた悦子は、

「うちなア、ソニア・ヘニーの姉ちやんだけがこはいんや」

と大胆発言したことになっている。

「あゝ!この大胆不敵の十三歳の嬢はんがかの銀盤の女王ソニア嬢を向ふにまはしてガルミツシユのリンクに一騎討ちを演じ世界を驚倒させる日を待たう!」

もっとも悦子自身はこういう発言をした記憶がまったくないそうだ。

「うーん、あんなにたくさんの新聞記者に囲まれたことはなかったから、私は緊張してしまい、ほとんど言葉がでなかった記憶があるですけどね。“この八月神戸新開地のリンクに通ふ便宜のため大阪市北区天神筋町四一から阪急沿線塚口に居を移したほどの両親の理解とがあつた”とも書かれていますが、これは本当です。でも、それまでの店が手狭になったから、新しい場所をさがしているという事情もあったんですよ。もうオリンピックの前年はほとんど東京の山王スケート場で練習していましたからね」(稲田悦子談)

ちなみに日本人がはじめて参加したスウェーデン、ストックホルム五輪への参加費用は、個人の負担で1,600円(現在の約400万円)かかり、出場する選手もあいついだ。

1924年のパリ大会から政府が6万円を援助し、アムステルダム五輪は大蔵大臣、高橋是清も納得して予備費から派遣費用がでた。

ロサンゼルス五輪からは1932年からは政府の予算もつき、新聞社をはじめとした民間企業の声がけで、寄付金を募るようになった。

さらに昭和天皇がご下賜金1万円を体協に与えた。5.15事件や長引いている満洲の問題、国体連合の脱退に心を痛めていて、選手たちの活躍を祈らずにはいられなかったのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?