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長編小説『テセウスの肉』第19話「187日目(駒早祭1日目)」

一八七日目

 気づけばその日が来ていた。私や雅人は準備などなかったけど、それでもこの日が来るとワクワクする。大学に活気が溢れている。至る所で接客の声とBGMが聞こえる。
 駒早祭の開幕だ。

「うへえ、人だらけ」

 雅人は驚いた顔で辺りを見渡した。その身長があれば遠くまで見通せそうだが、私は人の頭しか見えない。
 私たちはあの後二回ほど御船朝哉の家を訪ねてみたが、誰も出てくることはなかった。事態がいい方に進むかもしれないと期待していただけに、この状況は落ち込むなあと思っていたところで、学祭がやってきた。こうなったら思いっきり楽しんで、今だけは全て忘れてやろう。雅人の身長が、両脚の長さが昨日ほんの少し変わっていたことなど、きっと夢なのだ。そう思い込んで、歩き出した。

「屋台ありまーす! 焼きそばどうですか?」

「休憩所はこちらです」

「スタンプラリー実施してます! よろしければどうぞー」

「各ゼミの展示は三階で見られま~す」

 同時に色々な声が聞こえて、華やかな装飾に目移りしてしまう。

「真希ちゃん、どうする? まず何見る?」

 雅人は目をキラキラと輝かせて言った。もう片方の目は眼帯で隠れているので、片目だけだが。

「うーん、お昼までまだ時間あるし、野外ステージとか?」

「いいね! たしかゲストに芸人さんが来てたような!」

 と、言うわけで私たちは野外ステージのある、大学の中央に向かった。すでに人でごった返しており、特にステージ前はほとんど身動きが取れていそうにない。

「ちょ、これヤバくない?」

 私はまるで縁日の人混みのような人の波を、雅人の手を握りながら進む。人は増え続け、喧騒が勢いづく。

「ダメだこれ! 一旦離れよう」

 多分、そんなようなことを雅人は言っていた気がする。が、その刹那。私と雅人を繋いでいた手は汗で滑って離れてしまった。そこから一瞬だった。人が流れ、揉みあい、まるで何かにかき混ぜられているかのように体が押し流され、完全に雅人を見失ってしまった。声すら、騒がしさに掻き消され聞こえない。
 気づけば、人混みを抜けられていた。けれど、どこにも雅人の姿は見当たらない。

「雅人! 雅人ー!」

 人が多くすれ違う中、私は大きな声で名前を呼んだ。しかし、誰もその名前に反応を示さない。私は何となく嫌な予感がして、走り出す。人が多いので、小走りにならざるを得ないが、一人一人の顔と姿を確認して、雅人を探した。

「……ッいない! どこいったの……!」

 メイクが崩れるのもお構いなしに、走る。大学の敷地の三割ほどは見たところで、背後から大きな声で名前を呼ばれた。

「真希っち~~~~!!」

 その声は、聞き慣れたのえりーのものだった。

「のえりー! あれ、実行委員Tシャツなんて着てどうしたの?」

 のえりーは、金髪とのコントラストが強い黒Tシャツを着ていた。表には胸元に駒早大学のシンボルマーク、後ろには駒早祭の文字とSTAFFの文字が大きく印字されている。

「ああこれ? ちょっと人員不足みたいで駆り出されちゃって……じゃなくて! 大変なんだよう!」

 表情が忙しい子だ……。

「どうしたの……こっちは雅人とはぐれちゃって困ってるのに」

「その雅人くんが――!」

 それを聞いて、私は痛くなってきていた足で、再び走り出した。

  *

 駒早大学の保健室は、敷地内の端の方にあるので、学祭の最中と言え人はチラホラとしかいなかった。私はのえりーと一緒に、勢いよく保健室の扉を開ける。

「ちょっとー、ノックくらいしてくださいねー」

 保健室のスタッフが、こちらを一瞥して言う。

「あの、海原雅人って……!」

 私の顔を見て、スタッフは軽く驚いたような顔をしたあと、立ち上がって私とのえりーをベッドまで案内してくれた。きっと物凄い形相をしていたからだろう。

「雅人……」

 仕切りカーテンを開けると、雅人は眠っていた。疲れきったような顔で、額に少し汗が滲んでいる。

「海原くん、さっきまで酷くうなされていたんです。悲鳴みたいな寝言で、『やめろー!』とか、『返せー!』とか言って」

 スタッフは呆れと心配が織り交ざった声で言った。私とのえりーは顔を見合わせる。これは、もしかしたらまた体が奪われたのかもしれない。私はベッド横にある椅子に腰かけ、雅人の手を握った。まだ握り慣れない、朝哉の手。それでも私のこの温もりは雅人に届いている。雅人の脳に、心に届いている。それだけで、いい。
 三〇分くらい経っただろうか。
 ううん、と小さく唸った雅人の目がゆっくりと開く。私はそのとき、気が付いた。眼帯が外された右目と、まだ雅人のものだったはずの左目が、バランスよくなっている。それは、つまり左目まで奪われてしまったということだ……。

「あ、おはよう。真希ちゃん」

 呑気に挨拶をする雅人。その姿はやっぱり愛しくて、でもどうしても違和感が拭えなくて、私は複雑な気持ちを孕んだまま「おはよう」と返した。

「……うなされてたんだって? 大丈夫だった」

 私は雅人に寄り添い、頭を撫でる。そのとき、雅人は寝ぼけた様子から一変して、体が強張らせた。私は何事かと思い雅人を見ると、雅人は口をぱくぱくさせ、何か言おうとしている。

「お、落ち着いて! 深呼吸。ほら、吸って」

 雅人は動揺しながらも息を吸い、そして吐いた。

「……どうしたの?」

 できるだけ、穏やかに問う。

「……ま、真希ちゃんどうしよう。俺、もうほとんど俺じゃない、かも」

 心臓が一瞬、激しく痛み、それを合図に鼓動が早くなる。そんな。ついに、ついにそこまで来てしまったのか。

「俺、夢の中でどんどん体を剥ぎ取られて、骨とか内臓も抜き取られて、苦しくて辛くて藻掻いてた。生きたまま殺されてるみたいで、怖くて不安で、そしたら目の前に、俺そっくりの男が現れて」

 雅人はそこで息を吸った。
 私は、何も言わずに続きを待つ。

「こう言ったんだ。『あとは、鼻と頭蓋骨だけ』って」

 鳥肌が全身に這うように立って、お腹がきゅうっと痛くなる。
 それはつまり、もうすでに鼻と頭蓋骨以外はもう……。

「……そっ」

 私は声を出そうとして、喉が詰まった。

「それでも」

 しかし、意地でも絞り出す。これだけは、本心だ。言わなきゃ。

「それでも、心が雅人である限り、雅人は私の大好きな雅人だよ」

 それを聞いた雅人は、涙をボロボロと流して泣いてしまった。私は雅人を強く抱きしめる。その体が雅人のものでなくても。その温もりが別の誰かのものでも。私が今抱いているのは、雅人の心そのものだから。

  *

 学祭初日は、そのまま終わってしまった。私と雅人はあのあとすぐに私の家に帰り、一泊した。明日、学祭二日目はどうしようかと話したが、雅人が行きたいと言うので、行くことになった。

「ベストカップルの結果もちょっと気になるし」

 まさか。雅人がそれを気にしていたとは。

「そういえばエントリーしてたね。すっかり忘れてた。全然自己アピールしてない」

 私は笑って言った。

「正直、もう他人が私たちをどう見ようと関係ないよね」

 それを聞いた雅人は、そうだねと笑って続ける。

「でもなんか、俺のこの姿のせいで真希ちゃんの中身の評判まで下がっちゃってるって思うとムカつくから、いっそ上位に入って見返してやりたい気もしてる」

 にやけ顔で雅人は言う。

「たしかにね」

 私たちは顔を合わせて笑った。その夜は、雅人の体に何か起こることはなかった。

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