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長編小説『テセウスの肉』第14話「169日目/172日目①」

 一六九日目

 自宅周りに警察のパトロールが増えた。
多分、ストーカーは私が警察に通報したことを分かっている。あれから何も音沙汰がないからだ。きっと警察の警戒が落ち付いたらまた何かしてくるのかもしれない。それでも、安心できる時間があるのは助かった。
 けれど。
 別の問題が、私たちには生じていた。あれから……雅人と気まずい。
 そりゃあそうだ。私があんなことを。あんな酷いことを言ってしまったのだから。自分の評価のためにあなたと付き合っている、かどうか分からない。……なんて、自分でも最悪なことを言っているって分かる。
 ずっと一人で考え込んでしまった。ストーカーに対する不安が少し和らいでいる今、私の頭は雅人とのことでいっぱいだった。だけど、何も答えは出てこないし、同じことをぐるぐると考え続けるだけの袋小路に陥るばかりだった。
 だから今日は、のえりーに相談してみることにした。誰かに気持ちを話せば、何か変わるかもしれないし、のえりーなら、また中学の頃みたいに背中を押してくれるかもしれない。きっとそうだ。私は、いつも通り身支度を済ませ、のえりーとの待ち合わせ場所へと向かった。

   *

 前と同じ喫茶店。今日はランチじゃなくてアフタヌーンティーを注文した。この店のアフタヌーンティーはゴージャスすぎずシンプルすぎず、程よいインスタ映えを狙えるメニューとして、密かに若者人気を集めている。まあ、私とのえりーは流行りの前に見つけたんだけど。席は広々としているし、店内BGMや他のお客さんの声が程よくあるので、案外ゆっくりと話をするのに向いている。

「――ってことなんだけど……どう思う?」

 私は、言いづらさを抱えながらも、全て話した。雅人とストーカーの体が入れ替わっているかもしれない、という妄想みたいな話も含め、のえりーはとりあえず相槌を打ちながら最後まで聞いてくれた。

「……うん、真希っちの今回の悩みの本筋とは違うところで言いたいことは山ほどあるよ? ストーカーの再発とか、体の入れ替わり? とかいうオカルティックな話とか。まあでも今回は、雅人くんに酷いこと言っちゃった~! って話だもんね?」

 眉間に皺を寄せ、大袈裟に頭を抱えるのえりー。
 いや、うん、そうだよね。情報過多だよね。ごめん。

「……まあこの際だから、そっちの諸々も助けてほしいけど……まずは雅人との関係修復が最優先かなって」

 このまま雅人と気まずいままだと、この現象に対処するにもやりづらい。

「むむむ。難しい話ですねえ。……まずは、真希っちの気持ちを整理しよっか」

 のえりーは人差し指を立て、ちび〇子ちゃんの〇尾くんのようなポーズを取って提案した。

「整理、かあ……散々したつもりなんだけど」

「答えが出てないんじゃできてなーい! それに、第三者の目線が加われば何か変わるよきっと」

 ポジティブおばけ……。という言葉は呑み込んだ。絶対話が逸れる。

「真希っちはさ」

 ほんの一瞬、店内の音が全て途切れ、のえりーの声が鮮明に聞こえた気がした。

「……雅人くんの、どこが好き?」

 それは、これまで散々聞かれた質問だ。
 友達、先輩、雅人の知り合い、親。
 その度に、分からなくなる。だから、優しいところとか、意外と真面目なところとか、当たり障りない回答をする。それが本心ではないことだけは分かるけど、じゃあ本心がどこにあるのかは、分からない。

「雅人くんの、どんなところにときめく? ドキッとする?」

 雅人といて、ドキっとしたことなんて、あったっけ。告白されたときは、したかな。びっくりしたし。初めて手を繋ぐときとか、初めてのキスとか、初めての夜とか、ドキドキしたと思う。でも、それは雅人に対するときめきみたいな感情だったのだろうか。ただ、それまで男性経験がなかった私が、初めてのことに緊張し、高揚していただけなのではないか。

「雅人くんとの別れ際、寂しくなる? 会えないときに会いたいって思う?」

 ……別れ際。家も近いし、またすぐに会える。会えないときっていつ? 家に行けば会えるし。大学でしょっちゅう会ってるし。多分そんな風に思ったことはない。
「雅人くんが、他の女の子に取られちゃ嫌?」

 それは、嫌かも。嫌だけど。
 取られても、がっかりして一週間くらい傷ついた風に過ごして、いつも通りに戻ってしまう気がする。

「じゃあさ、雅人くんが、私に取られたら嫌?」

 ――なにそれ。

「なんでそうなるの」

 私は、ティーカップを両手で包んで、言う。

「真希っちの気持ちを確認してる」

 のえりーの瞳を見る。大きな黒目は、私の中身を覗いているみたいだった。

「……そりゃあ、嫌でしょ。自分の元彼が友達と付き合い始めたら」

 謎の間が空く。
 のえりーは左ひじで頬杖をついて「それだけ?」と聞く。

「……かな」

 私はティーカップの中に映る自分を見て、答えた。

「ふーーーーん」

 急に声を張って息を吐いたのえりーは、上を向いて、また私を見た。

「今から厳しいことを言います」

 まるで先生のような口調で、抑揚をつけてのえりーは続ける。

「真希っちは」

 のえりーは少し躊躇いつつも、意を決したように頷いて、言った。

「雅人くんと別れた方がいいと思う」

 お洒落なBGMと騒がしい店内に、私たちだけの沈黙が下りる。

「あ、いやその、そういう選択肢も持っておいた方がいいんじゃない? っていう意味だよ」

 のえりーは取り繕うように両手を胸の前で振り、そして指を組んだ。

「だってさ、真希っち、多分今、雅人くんのことそんなに好きじゃないんじゃない? 全部分からないとか、濁してばっかりだけどさ。冷めちゃった?」

 その言葉が、私の胸の大切なところに突き刺さる。なんとなく、勘付いていたけど、心の中でさえ言葉にしなかった。好きじゃない、という結論。まだ答えは分からないけど、正解な気がする。

「……その可能性は、あるかも。……ありがとう。のえりーしか言えないようなアドバイスだ」

 愛想笑い。でも、無理に笑っている自分が滑稽で、すぐに口角を戻した。

「まあホント、選択肢のひとつだよ? 別れなくて済むならそれが絶対にいいんだから! あくまでも、お二方のことを考えたら、その方がいいんじゃないかなって思っただけで」

 いいのに。のえりーは優しいから、すぐにフォローを入れる。金髪が店内の照明に煌めいて、何か神々しいものを彼女に感じた。

「……真剣に、雅人と話してみてもいいかもなあ」

 別に誰に言ったわけでもないけど、私はそう呟いた。のえりーは笑って、「前に進めるならよし!」と言いながら自分のダージリンをグイっと飲み干す。

「あんたそれそういう飲み方するもんじゃないでしょ!」

 私は漫才師みたいに手をビシッと添えて言った。
アフタヌーンティーというシチュエーションにそぐわぬツッコミがおかしくて、二人で顔を合わせて笑う。それから私たちは二時間くらい雑談をして、お互い帰路についたのだった。

 一七二日目

 考えに考えて、それでもやっぱり正しい答えなんて分からなかった。ただ、こんな思いのまま雅人と付き合い続けるのは違う気がする。だから、私は雅人とちゃんと話すことにした。もしかしたら、「別れる」という選択肢もあるかもしれないことも。
 雅人の部屋の玄関前。私は、緊張していた。公立高校受検の面接前を思い出す。まだ垢ぬけ切れていない自分をいかによく見せようか、がむしゃらに努力していた。懐かしいな、なんて思いながら、ふっと息を吐いて、インターホンに指をつける。
 無機質で篭った音が響く。扉の向こうで聞き慣れた足音が聞こえて、扉が開かれた。

「あ……真希ちゃん。どうぞ」

 少し、いつもと違う声色で私を部屋に入れる雅人。部屋に入ると、テーブルの上に二本の空き缶が置いてあるのが見えた。

「ビール。普段飲まないのに」

「……ちょっと飲みたくなって。でも苦くて美味しくなかった」

「美味しくなかったくせに二本も空けてる」

 雅人はあははと笑い、缶をキッチンの方に片付ける。
「で、話って?」

 キッチンから戻った雅人は、麦茶の入ったグラスを二つ持っていた。

「ありがと」

 グラスを受け取って、麦茶を一口含む。もう秋だけど、冷えていて美味しい。少し濃いのは、多分ティーパックを入れっぱなしにしたままだからだろう。雅人は私の隣に胡坐をかき、テーブルにグラスを置いた。水滴がグラスを伝う。

「えっと、その、この間のことなんだ……けど」

 私はグラスを両手で持ったまま、雅人のグラスを伝った水滴で濡れたテーブルを眺める。言おうと思っていたことを、今どんな風に伝えようか言葉を探す。

「多分、雅人のこと……傷つけちゃったよね。ごめん」

 真横にいるのに、顔を向けられなくて、雅人の表情が分からない。何も言わない。なんで何も言わないの? 怒ってるの? あああ、頭の中がぐちゃぐちゃに――。

「ううん。もう、いいよ」

 ……優しいな。
 その一言だった。雅人は、本当にどうしてこうも、雅人なんだろう。
 それでも。それでも言わないといけない。私の気持ちは、今だって分からない。素直に、嘘偽りなく「好き」と言えない。だから。

「……でもね、雅人。やっぱり、私分からないんだ。雅人とどうして付き合ってるのか。本当に雅人を好きで付き合ってるのか」

 声が震えている。お腹に余計な力が入っているのを自覚しているのに、コントロールが利かない。

「そっか」

 雅人の声に、心臓が跳ねる。これが、恋のときめきなんかじゃないことだけは、よく分かっている。これは、罪悪感だ。

「だから、お互いにとって、もしかしたらその……」

 両手で持っているグラスの水面が震えていた。ああ、私、怖がっているんだ。
 次の言葉が出てこない。言わなきゃいけないことは、分かっている。ここに来る途中で何度も頭の中で反芻したのに。口が、開いてくれない。

「真希ちゃん」

 そのとき、雅人が何かを決心したような声色で言った。
 怖い。
 何を言われてしまうのか、私は身構える。こちらから別れ話をしに来たのに、いざ何か切り出されそうになると、こうだ。

「俺がいつから、真希ちゃんのこと好きか知ってる?」

 ……え?
 いつからってそれは……大学に入学してから知り合ったわけだし、そんな前じゃないでしょ……。

「最初の……池袋の日?」

「ううん」

「え。じゃあ、入学式でぶつかったとき?」

「違う」

 違う? じゃあ、いつだろう。たまにすれ違って挨拶するくらいしか、付き合うまでは接点なんてなかったはず。

「中一の頃」

 ――頭が、真っ白になった。
 雅人は、何を言っているのだろう。中一?
 中一って、中学一年生ってこと?

「いや、え? だって私たち大学で――」

「やっぱり覚えてなかったのかあ」

 雅人は力の抜けた声で言った。
 覚えてなかったって、え? 中学の頃、知り合ってたってこと?

「あはは、困惑してるね~」

 いたずらっぽく笑う雅人。
 そりゃ困惑よ。大混乱よ。

「なんかたまに会話がおかしいな~って思ってたんだよね」

 雅人が言う傍ら、私は考えていた。
 雅人は、中学の私を知っているというのか。「陰毛ちゃん」の私を。

「俺たち、中学の同級生」

 はあ……。

「最悪……」

 頭を抱え、項垂れる。

「それじゃあ私の……酷いあだ名も知ってる、もんね?」

 聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちがぶつかり合って、半ば事故みたいに気づけば口に出していた。

「……知ってる」

 沈黙。
 隣の部屋から微かに笑い声が聞こえた。私はその声を掻き消したくて、矢継ぎ早に質問を投げる。

「じゃッじゃあ、なんで付き合おうと思ったの!? 私が可愛くなったから? あのときみたいな、も……もじゃもじゃじゃなくなったから!?」

 私の勢いに気圧されながらも、雅人はこほんと咳払いをして、私の目を見た。

「違うよ。中一から好きって言ってるじゃん」

「……嘘だ。信じられない」

 目頭が熱くなっている。この込み上げてくるものの理由が、私には分からなかった。悲しいのか、悔しいのか、安心したのか、嬉しいのか。感情が胸の奥で泥水みたいに混ぜ合わさって、真っ黒になる。

「中一の頃の真希ちゃんはさ、とっても明るくて、しっかり者で、努力家だったよね」

 雅人は、語り出す。当時を。私が忘れたかった、消し去りたかった過去を。

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