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一大革命、粉わさびの誕生物語

 前回、大阪への握りずしの定着と、長野や山陰などの地域へのわさび栽培の広がりを見てきた。

 しかし、それでもわさびの産地は限定的である。今でこそスーパーの野菜売場にいけば生のわさびが売られていたりするが、当時の輸送体制では、全国津々浦々というわけには行かないだろう。

 そこで不可欠なのが、粉わさびの誕生である。

粉わさびがお茶どころ静岡で生まれた必然性

 粉わさびの誕生を知るために不可欠な資料が『小長谷才次伝』(1964年)である。静岡県山葵漬工業共同組合及び静岡県山葵粉工業組合(昭和22年創立)の初代理事長で、戦後も町内会長として地域のために尽力し、静岡市食品協会の設立にも効あった小長谷才二の遺徳を讃えるために村本喜代作という人が著した本であるが、その小長谷才二の父が粉わさびを発明した小長谷与七であった。

与七は若い頃から茶の仲買のため、川根方面に入って買出して来た茶を精製するため、大富村中根新田に製茶工場を建てて手広く営業したことがあったが、その頃川根方面で沢山の山山葵を見て歩き、不図心付いたことは、この山葵を粉末にしていつまでも保存することが出来たら、どんな遠方にも送れるし、又いつでも自由に、どこの家庭でも使用出来てさぞ便利だろうと考え、性来商才に長けた与七は、製茶の製法からヒントを得て山葵を乾燥して粉末にしたらと思い、お茶を買いに川根に入った都度、山葵を買って来ては日光で乾燥し、手挽の石臼で細かい粉末にしてきれいな和紙に包み、試しに静岡から東京方面迄も、自分で説明して売って歩いたところ、仲々評判がよかった。

 このように、お茶どころ静岡だからこそ、粉わさびが発想される背景があったし、幅広い販売ネットワークもあったのである。さらには伊勢参宮の際に名古屋方面の旅館、料亭に持ち込んでみたところ高評価を得て自信を深めていった。

 大富村とは現在の焼津市のことで、中根新田の地名は今も残っている。大富小学校の周辺だ。

新工場稼動、たちまち壊滅的被害

 意を強くした与七は大正3年(1914年)3月に住まいを静岡市内へと移し乾坤一擲の勝負を賭けた。ところがである、その時の8月29日に安倍川が決壊し市内が水没。浸水家屋1万戸と言われるが、なかでも小長谷一家が住んでいた二番町通りの被害は甚大だった。

 再開した工場は家庭工業的で生産量は多くなかったが、出来た製品は右から左へと売りさばけるので、2、3年はあっという間に過ぎたという。大正7年(1918年)には、静岡市安西外新田(田町1丁目19番地)に工場を新設して事業拡大を図っている。

わさび漬けの田丸屋と業務提携

 さて、そこに目を付けた出来る資本家がいた。わさび漬けで今も有名な田丸屋だ。

 その頃、この「粉わさび」があちこちと出廻って、その評判がよくなって来ると、静岡市紺屋町山葵漬本舗田丸屋本舗の主人望月虎吉氏が、或る日突然父の与七に会見を申し込んで来たので逢って見たところ、
「君のやっている粉わさびの仕事は面白いと思うが、一ツお互に共同してこの事業を発展させて見る気はないか、それには私が力瘤を入れて投資するから、その製造と販売の権利を相応の値段で譲渡しないか」
 と申し出た。

 これに対して小長谷家側では権利譲渡は困るが製品なら納めるので売り捌いてもらいたいと回答し、小長谷家では「粉わさび」、田丸屋では「山葵の素」との商標登録をとり、包装済みの完成品を田丸屋へ納品した。

 これで販売力のある田丸屋にルートにのって順調に売行きを伸ばしたのかといえば、さにあらず。

 田丸屋では、早速主婦の友其他の新聞雑誌に広告して大々的に売出して見たが、何しろ新らしい試みであるから、その普及宣伝が容易ではないので、流石の田丸屋も困って、
「私の方でも極力売るが、そちらでも販路の拡張が出来たら、自由に売って見てくれ」
ということになり、商才に長けた与七は、早速自力で新販路の拡張に乗り出して、全国各地に特約店を設け、忽ち相当量の売行確保に成功した。

 というのである。

わさび漬けは東海道線開通で一躍有名に

 ここでちょっと脇道に逸れて、わさび漬けの歴史に触れておこう。

 わさび漬けの始まりは、わさび栽培発祥の地である静岡県の有東木地域の人が食べていたわさびの若芽の糟味噌漬けをご馳走になった駿府のわさび商人がヒントを得て改良を加えた。さらに、江戸へ出て浅草観音前の人通りで通行人を呼び止めて試食させるなど売り広めにつとめたと書くのは、『静岡市産業百年史』である。

 本格的は販売拡大についても、同書から引用しておこう。

 わさび漬けがその名を全国津々浦々まで知られ一躍静岡名産となったのは、静岡市に鉄道が開通してからのことである。
 東海道線静岡駅が開通したのは明治22年である。駅近くの両替町に栄松館という旅館があった。ここの女将は女ながらも非常に侠気に富んだ人で、工事のために宿泊していた鉄道工事関係者の面倒をよくみて、土地不案内の関係者のために、工事資材の調達から人夫の世話に到るまで親身になって尽くしたので、鉄道関係者から深く感謝されていた。
 鉄道開通にあたって、鉄道当局から何か望みはないかと聴かれたとき、女将は、
「うちは宿屋だから何も出来ないが、鉄道のお客さんのお弁当位は出来ますから、それを売らせて戴きましょうか」
という訳で静岡の駅弁屋が誕生した。
 初めの頃の弁当は、握り飯を竹皮包にして沢庵漬が副えてあった。間もなく之に静岡名物のわさび漬けも副えられる様になった。

 その後わさび漬けは、櫃型の樽詰になって一個十銭で駅のホームで売られる様になった。これが駅売りわさび漬の始めである。駅売りわさび漬の販売元は、三盛軒から田丸屋本店更に鉄道弘済会と推移し、今では構内販売は鉄道弘済会であるが、新幹線の車内販売は列車食堂経営の商社になっている。製造元である納入業者も数店が入り交じっての移り変りはあるが、静岡の山葵屋であることは間違いはなく、お客に喜ばれるより良い製品を造るためにそれぞれ日夜弛まない努力を続けている。 

 JRはかつて国営で、弁当の販売には様々なうるさい規則があった。信越線横川駅の「峠の釜めし」誕生の苦労話にも出てくるが、ここは同じ東海道線から鯖の押し寿司で有名な大船軒のサイトを引用しておこう。明治31年に弁当の構内販売を申請して認められるが、以下のような条件があった。

「すべて駅長の指示に従う事」「新たに販売する品については見本を駅長に提出の事」「売り子は16歳以上で3人まで、指定の印半天を着用の事」など、10項目の条件付きで大船軒は営業を始めました。

 静岡のわさび漬け製造元として田丸屋のほかに小泉楼もあった。『小泉楼物語』(塩沢巌 小泉楼本店 1990年)は

 有東木の人は、このわさびの根を細かく刻み、味噌に漬けて食べておりました。
 松右衛門は有東木に行く度に貰って帰りましたが、沢庵屋では麹、べったら漬を作っておりましたし、味醂粕、酒粕は常に使用していたので、これにヒントを得て、酒粕に山葵の根を刻んで漬けたのです。つまり、これが山葵漬の初めでした。これまでにするには一年程研究し、完成したのが松右衛門五十三才ぐらいの頃、長男の平七が十五才の時で嘉永3年でした。元祖山葵漬の開発には非常な研究と苦労がありました。

 といった具合に、自店が元祖とアピールしている。嘉永3年は1850年。しかし、駅での販売許可を得ることが出来ず、東京の鉄道省次官の自宅を訪ねたり代議士に300万円をだまし取られたり、ようやく静岡駅立売の許可が出たのが昭和7年。運動のために資金を使い果たし工場建設が困難だったが妹の嫁ぎ先の資金援助を受け、事業が安定したという。それほど、駅での販売が売上げに大きな影響をしたのだった。

 次の写真は大正10年(1921年)12月10日の朝日新聞広告で、広告主名は読み取れないが両国の業者だから、東京でのわさび漬の購入が可能になっていたということである。

 『ーー穂高わさびの歴史と栽培、加工法ーー』によれば、穂高では宇留賀定十という人が最初は甘酒に漬けて売り歩いていたが、静岡から来た人に粕漬のわさび漬の製法を聞いたのが明治25年頃であるという。宇留賀氏は海苔わさびの製造に成功したのが大正15年頃というからから、この広告とは別のものであろう。

実は大きい、わさび漬の市場規模

 わさび漬はあまり身近な話題に思えないかも知れないが、粉わさびが細々と始まったことを考えれば、先にビジネスが大きくなったわさび漬には存在感があったのである。

 ここで、「沢わさびについて聞こう、知ろう ー科学と文化を学ぶ-」(2004年刊 (株)アイ・ケイコーポレーション)より田丸屋本店の望月啓行氏の講演を引こう。

平成13年のデータによるとわさびの生食の取扱いは432t。平成14年のわさび漬の出荷量は食品研究センターの発表によると7882t。わさび漬の中でわさびの配合割合は30~40%、歩留まりを計算すると約5000t近いわさびがわさび漬の原料として消費されていることになります。これは一般の市場で取り扱われるものと比べても非常に大きく、日本のわさびのマーケットを考えるとわさび漬は今もって大きな市場が形成されていると理解出来ると思います。

 という驚きのデータなのだが、土産物としてだけでなくスーパーに置かれるデイリー性のある食品を目指したのが良かったそうである。

粉わさびの普及と関東大震災

 ところで、田丸屋が出した新聞広告はどんなものだったのか。前出の流れから大正10年頃かと思いきや、もうだけ少し遅いようだ。

 大正12年(1923年)2月12日の朝日新聞にこのような広告が出た。

生山葵使用の不経済時代は去れり
新らしい軽便調味料
水で溶くだけで香味辛辣な生山葵となります 刺身の実吸物山葵醤油其他に至極重宝です。一般家庭料理屋寿司屋又は旅行用として頗る歓迎されます

 などと、具体的な活用法の浸透に努めている。

 朝日新聞のデータベースでは13件の広告(東京版)がヒットした(1923年2月16日朝刊、2月24日夕刊、3月22日朝刊、5月22日夕刊、5月25日夕刊、1924年2月23日朝刊、5月8日朝刊、5月15日夕刊、5月22日夕刊、9月13日夕刊、18日朝刊、11月6日夕刊、11月25日朝刊 ただし2月16日は紙面に広告がなく間違い。縮刷版をめくって確認した範囲では2月12日が初出である)。

 丸屋本舗の主人望月虎吉氏は、言葉を違えない男だったということだ。

 1924年年2月23日の朝日新聞広告は、このようなデザインだった。

 さらに、大正15年(1926年)9月24日から、おそらく田丸屋の販売代理店であろう東京の大塚商会が朝日新聞東京版に9回も広告を出している(9月24日、10月6日、10月12日、10月19日、10月24日、11月6日、11月12日、11月20日、11月26日)。すさまじい広告攻勢だ。

山葵の素
わさび卸の瓶詰め
一番美味しい季節の山葵を粉にした品で水を加へればスグに山葵卸となる経済調味料
全國食料品店にあり
(説明書送る)
東京本石町 大塚商店謹製

 と謳っている。新聞データベースの画像がやや粗いが〇に十字のトレードマークが同じだ。

 ここで注目したいのは、この広告が出た時期である。大正期は大正デモクラシーが起きたり、雑誌創刊ブームが起きたりと、概ね豊かな時代であった。食文化も含めた消費生活が盛り上がった時代であった。

 そこへ冷や水を浴びせかけたのが大正12年(1923年)の関東大震災である。これをきっかけに、壊滅的被害を受けた東京からすし職人が地方都市へ広がって行った。それに間に合う時期に前に粉わさびが開発され、大規模な供給が可能になっていたということである。私はここに、大変大きな意味を感じる。

 なお、粉わさびは後にハワイやインドシナ方面にまで輸出されたそうである。

わさび栽培を農林省が奨励?

 このころ、わさびの換金作物としての注目度も急上昇していたようである。大正15年(1926年)4月29日の朝日新聞に『わさび栽培新書』の書籍広告が出ている。「何人も直ちに栽培成功を期し得る」としている。

 するとすぐさま別の版元が、「利益多いわさび栽培 一反作れば三千円になる」と謳って、8月13日、9月3日、11月11日と続けざまに広告を売ってくる。9月には「植付の好季」と煽り、11月には「農林省推奨 儲かる副業」とお墨付き感と山っ気をあおる巧みな広告である。

 さてここまで、粉わさびの誕生と、わさび消費の拡大の流れを見て来た。

 この回に関する調査には、静岡県立図書館のレファレンスに大変助けていただいた。国会図書館にはない地元ならではの資料など、綿密なサポートがなければ、とても1日で調査を終えて帰ることは出来なかったと思う。改めて御礼申し上げたい。

 次回は粉わさびの普及、品質向上から戦後、現代に到るまでを追いかけて最終回としたい。

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