見出し画像

「刺身にわさび」はいつからか?

 和食がユネスコ無形文化遺産に登録されたのは、2013年12月4日。世界に知られるようになった和食、ことに寿司や刺身には、わさびの存在が欠かせない。しかし、日本人はどれほどわさびのことを知っているのだろうか。

 唐辛子であれば、かつて椎名誠さんも高く評価した『トウガラシの文化誌 』(アマール ナージ/晶文社)が思い浮かぶし、他にも唐辛子の文化史を巡る本は何冊かある。しかし、わさびに関してはどうだろうか? 学術的にまとまった本はあるのだが、一般的な読み物としては思いのほか見当たらない。

 もちろん寿司となれば、あまたの名著があるのだが、ここでは、わさびに視点を絞ることによって、違った角度から何が見えてくるかを考えてみたい。特に、「刺身の薬味といえばわさび」という認識が日本全国、津々浦々まで広がったのはいつか、という点に焦点をあてて脇道に逸れそうな壮大な旅の灯台としようと思う。

 私自身は食文化の専門家でも何でもないのだが、なぜわさびについて書くことにしたのか。その理由の説明はあったほうが良い。先を急がれる方には申し訳ないが、少々おつきあいいただきたい。


日本全国にわさびの食習慣があったわけではない?

 私の故郷・天草の生家は海のすぐそばで、食卓に新鮮な魚は事欠かなかった。自営業の父は、仕事が早く終わった日は晩酌を楽しんでいたが、そんな時には、まだ幼かった私も粉わさびを練る手伝いをさせられたものだった。伏せた茶碗の底に張り付いたわさびのつーんとした鮮烈さをおぼろげながら覚えている。

 しかし、棟上げ式の神事で酒と一緒に供えられた刺身には、塩が添えられていた。そういえば、わさびの産地といえば静岡県や長野県が有名で、九州の西に浮かぶ島はあまりに遠く離れすぎている。幼心に、そういう疑問が湧いたことを覚えている。

 ずっと、記憶の底にこびりついていた疑問が、その後も折に触れて頭をもたげることがあった。まだ存命の母に聞いてみると、子どもの頃に刺身の薬味は生姜だったという。大分、福岡方面には、青唐辛子を使った柚胡椒がある。本州から離れた八丈島では郷土料理の島寿司に辛子を使うし、刺身の薬味にも辛子を使うことで知られている。本州から見て四国の裏側にあたる高知では鰹にニンニクを使うが、もしわさびがあれば違っていただろうか(赤身だから事情がまた違うかも知れないが)。など、疑問はさらに広がって行った。

 お花見シーズンの定番である城に桜といった風景が、実は日露戦争の戦勝祝で植樹されたものであったりするように、伝統的な風俗習慣と思い込んでいたものが意外と近世のものであることは珍しくない。ひょっとしたら、日本の食卓に馴染んだこの光景も、意外に歴史が浅い可能性がある。

 とはいえ、奥深いわさびの歴史を知るには私ひとりの力ではおよびもつかない。今回noteで記事を公開するのは、調べてみたら意外と面白かったわさびの歴史について広く知っていただきたいという思いのほかに、これまで私の個人的な興味による調査に力を貸してくださった方々のご好意によって得られた知見を死蔵しては申し訳ないという思いもある。また、直接は存じ上げない方々の目に触れることでより正確な論考につながるのではないかという集合知への期待がある。

最も古い記録は飛鳥時代

 わさびと刺身が不可分なものという認識が日本全国に広がって行くには、大きく分けて3つの段階があったと考えている。

 第1回目は、わさびが本格的に普及する前、日本最古のわさびから、調味料の最高の組み合わせである、わさびと醤油が幸福な出会いをとげるまでの歴史を追ってみよう。

 奈良県明日香村の飛鳥京跡苑池遺構から見つかった木簡に「委佐俾(わさび)」の文字があり、わさびの最も古い記録と言われる。「丙寅」(天智天皇5年/666年)の文字も見られるという。薬師に関する木簡も出土しており、薬草として扱われていた可能性が高い。

 天智天皇といえは、大化の改新の立役者、中大兄皇子のこと。弟の天武天皇9年(680年)は藤原京で薬師寺を建立している(後、平城京に移転)。病と薬はいつの時代も切実な問題だ。

 写真は飛鳥板蓋宮。

 「播磨国風土記」(713年頃)には自生の様子が記録され、「養老律令」(718年)では「租庸調」の「調副物」として記されており、その価値を認められていたことが分かる。

 新元号「令和」の出典ともなった「万葉集」(奈良時代/760年前後)の時代の人々も食していたことだろう。

 わさびの表記については、「播磨国風土記」(713年頃)「養老律令」(718年)「延喜式」(927年)では「山薑」の文字が当てられ、「本草和名」(918年)になって「山葵」「和佐比」という表記が現れる。

わさびは虫歯に効く?

 わさびの薬効は江戸時代の医師、人見必大がまとめた「本朝食鑑」(1697年)に

「散鬱発汗逐風散(かゆみ)滲湿(水毒)消積下痞(つかえ)最為七疝(下腹部の痛み)之剤解魚鳥毒殺蕎麪(麺)」

 と、ふさいだ気持ちを晴らし、発汗を促し、痛みや解毒の効果があるとされている。有名な貝原益軒の「養生訓」(1713年)では、胃腸が弱い人が魚を食べるときにわさびを使うことを勧めている。

 本草学者小野蘭山の「飲膳適要」(1804年)では、虫歯にも効くと言っている。

「辛温毒ナシ生根ヲ磨リ牙疼ニ傳レバ即効あり」

 今治水かよ!?

わさびは茎を食べたか、葉を食べたか問題

 わさびはどんな食され方をしていたのだろうか?

 鎌倉時代末(1295年以降)に成立した「厨事類記」に

「供寒汁之時 汁實 興利實 山薑(わさび) 夏蓼 板目盬(塩)都呂々 薯芋(やまのいも) 橘葉等盛同盤居加之」

 とある。南北朝時代の「庭訓往来」 にも「山葵寒汁」とある。

 汁の実? ちょっと想像がつかないが、蓼は葉を食する場合もあるし、橘の葉も同じ盤(さら)に盛りてこれを加え置くとなれば、わさびも葉であった可能性が高いのではないか。

 そもそも、わさびの茎は繊維質が多くてすりおろさなければ生食には向かない。また、揮発性のある香りや辛みは熱や水分には弱い。実験として、刻んだわさびを味噌汁の中に入れて食してみたが、風味も味わいも台無しであった。

 具体的な調理法が記述されている文書となると、室町時代の日本料理の原型が分かる貴重な資料「四条流包丁書」(1489年)がある。四条流といえば、烏帽子直垂姿の料理人が魚にいっさい触れずに箸と包丁だけで調理する「包丁儀式」をテレビのニュースで見た方もあるだろう。

 平安時代に藤原山蔭(四条中納言)が光孝天皇の勅命を受けて当時の料理法を整理したオフィシャル調理ガイド「包丁式」は四条家の家職として伝わり、その内容が室町時代にまとめられた書物。食器の名前から配膳法、調理の手順などが細かく記されているという。

 そこには、

「鯉ハワサビズ(酢)、鯛ハ生姜ズ(酢)、鱸ナラバ蓼(酢)」

 と魚とわさびの出会いが記されている。「四条流包丁書」の前後の文章に当たれていないのだが、このときにはすでに刺身の形式で食べられていたと考えて良いのではないだろうか。やはり室町時代の『七十一番職人歌合』には、我々がニュース映像で見る四条流包丁儀式のように、俎の上に載せた大ぶりの鯛を包丁と箸でさばこうとする男の姿がある。

 そして生姜と並んでいることをかんがえれば、葉ではなく茎であることは間違いがないと思われる。ただし、まだ醤油は登場していない。

 茎を切ったかおろしたか、という点についてはどうだろうか。16世紀後半に成立したとされる「庖丁聞書」に、雪鱠は、下に魚をもり、上におろし大根を置(おき)出すを言(いふ)也」とあり、おろす調理法が確立していたようだ。

おろし金の原型は鎌倉時代には存在していたか

 料理研究家の鈴木晋一氏による『たべもの噺』では、鬼おろしの原型のようなものが、山東京伝の『近世奇跡考』( 1814‐15年 文化11‐12年)に真偽不明ながら鎌倉時代の武士青砥藤綱が使っていたものと伝えられると書いているというが、コマ44の図がそれだろう。同書は、現在のようなおろし金は、正徳2年(1712年)成立の『和漢三才図会』に初めてみられ、大根をおろすのに用いるとしているが、名は薑擦(わさびおろし)としているという。

 では、鮫皮のわさびおろしはいつからかというと、ずっと時代はくだって明治18年(1885年)の朝日新聞がこんな記事を載せている。

●鮫皮の山葵卸し 堺大寺北門北へ入る筏商藤原源次郎が多年の工夫に依り鮫皮を以て山葵卸を新造したるに之を需用する者の随分少なからざるにつき今度専売特許の事を其筋へ出願したりという

 意外と新しい。Wikipediaには江戸時代の宮大工がヤスリとして使用していたという記述がある。

 わさびの文献上の資料について詳しく知りたい人は、歴史から栽培法まで幅広く網羅した『ワサビのすべて 日本古来の香辛料を科学する』(木苗直秀・小島操・古郡三千代/学会出版センター NDL)がおすすめである。

刺身が生まれたのは室町時代

 日本人がいつから刺身を食べるようになったかについては、「日本人と刺身」(芝恒男/水産大学校 研究報告 第60巻3号 2011年)が尋常ならざる熱意にあふれていて興味深い。万葉集の歌人が、鯛の酢味噌和えを食べたくて舌なめずりしている様子を紹介したのち、「飛鳥時代に都で生の鯛を食べる事が果たして可能であったか」と、鯛の輸送ルートをシミュレーションするほどの力の入りようである。

 この研究によれば、平安時代末期には琵琶湖のある近江から新鮮な鯉や鮒が朝廷に収められていた。さらに平安末期の公家は、川魚にかぎらず、鱸、鯛、鮎、鯉、蛸をナマで食べていた。1196年には京都六角町に魚屋を開くことが許され京都の庶民にも生魚の入手が容易になったという。源頼朝が征夷大将軍の位を得て4年後で九条兼実を失脚させた年といえば、時代のイメージがつかみやすいだろうか。

 刺身という言葉の初出は『鈴鹿家記』応永6年(1399年)6月10日の記事に「指身 鯉イリ酒ワサビ」とあるのが刺身の文献上の初出である(同年10月には足利義満と対立した守護大名の大内義弘が挙兵する応永の乱が起きている)。

 刺身の名の由来としては、室町中期の官人で有職故実にも通じていた中原康富の文安5年(1448 年) 8 月 15 日の日記『康富記』に、「鯛の指身として、鯛なら鯛とわかるようにその魚のヒレをさしておくので、サシミ」とあるのが語源とされている。

和歌山で生まれた醤油は黒潮に乗って千葉へ

 さて、わさびの相棒として欠かせない醤油の歴史についても、駆け足で見ていこう。

 醤油の発祥の地は和歌山県の湯浅。鎌倉で起きた源実朝暗殺が遠因とは意外だった。実朝の家臣の葛山五郎は高野山に入り出家して、実朝の遺骨の半分を寺に葬り、残り半分を実朝が憧れ続けていた宋の国に埋葬したいと考えた。その意を受けた僧・覚心が宋の径山寺から現在の金山寺味噌の祖となる製法を持ち帰ったという。たまたま水分の多すぎた失敗作の味噌からたまり醤油が生まれ、醤油の製法が確立されて行った。

 湯浅は熊野古道の宿駅。また、紀伊水道の港町という交通の要衝で、必然的に商業が発展していった。室町時代、天文4年(1535)に赤桐右馬太郎が船で大阪に醤油を出荷。当初は反応が良くなかったが、徐々に受け入れられ様々な醸造元が大阪に船で送り込むようになっていく。

 このあたりの歴史は、和歌山県教育センター「きのくにiDC」の説明が詳しい。

 写真は湯浅醤油丸新本家の金山寺味噌。

 関東では当初、良質な醤油がなく、上方のものを重用したとは良く耳にする話である。では、いつ頃から身近な調味料となったのだろうか。

 ヤマサ醤油は自社サイト

「初代濱口儀兵衛が紀州から銚子に渡り、ヤマサ醤油を創業したのは1645年(正保2年)」

 としている。江戸幕府が開かれて40年あまり。3代将軍家光の治世も末期にあたる。

 紀伊半島と房総半島は「勝浦」「白浜」といった同じ地名があることでも知られる通り、黒潮で結ばれた密接な関係にあった。

 ちなみに、ヤマサ醤油のあるJR銚子駅に降り立つと、ホームに大きな醤油桶が飾られており、もろみの香りが漂ってくる醤油の街である。

 本場、湯浅の人々も関東の大きな市場に注目して、現地生産を開始する。角長のサイトではこう書いている。

「享保年間(1716~36)に湯浅組広村の濱口儀兵衛・岩崎重次郎・古田荘右衛門らは醤油を江戸で販売する事に着目し、銚子で醸造を開始する事に至った」

 地場の人々も黙ってはいない。

 銚子の豪農が1616年に創業したヒゲタしょうゆは摂津国・西宮(現 兵庫県西宮市)の酒造家から技術導入を図ったようだ。そのぶん技術的には遅れをとっていたか、同社のサイトは、当初は

「大豆が主体の「味噌溜まり」のようなものであったと思われます」
「1697年(元禄10年)第五代田中玄蕃が原料に小麦を配合するなどして製法を改良し、現在のこいくち醤油の醸造法を確立しました」
「明和7年(1770)頃から次第に「地回り醤油」が上方からの「下りもの」を凌駕していきました」

 としている。

 野田の醤油は銚子より技術的発展が遅れたが、それでも1700年過ぎには醤油製造が本格化している。今では世界100カ国以上で醤油を販売するキッコーマンの本拠地だ。

 元禄年間(1688年~1704年)には江戸の庶民の食事には、関東で生産された醤油が使われていたことだろう。グルメ時代小説の嚆矢ともいえる池波正太郎さんの『鬼平犯科帳』シリーズの主人公、長谷川平蔵(宣以)は、寛政7年(1795年)没だが、密偵たちと舌つづみを打った五鉄のしゃも鍋も醤油味となる。

 さてと、役者が揃ってきた。

 江戸の握りずしの考案者、華屋与兵衛が両国に店を開くのは1824年。すでに醤油は江戸でも身近な調味料となっていた。しかし、後に世界を席巻する握りずしの誕生のためには、もうひとつのイノベーションが起きる必要があった。

 次回は華屋与兵衛が店を開いた、両国の地を訪ねてみたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?