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ベリーミントの海馬

最後の日だから呼ばれたのだと、まだわたしは気づいていない。

こまかな雑草が蔓延る庭に春めいた光が満ちている。
ぼんやり突っ立っているうちに、そこがグランマの庭であることが分かったので、うれしくてうれしくてうれしくて、腕を大きく振って走り抜けてみると、5歳の体になっている。

5歳は軽い。走っているだけなのに、地を蹴るたびに体が大きく跳ね上がるので得意になって駆け回っていると、庭の端にある枯山水に白いものが刺さっているから近寄った。プラスチックの丸角をつまんで引き上げてみると、ピンク色の文字でフリスクと書かれている。

「ハコちゃん」

名前を呼ばれて顔を上げたけれど、辺りに人の姿はない。
フリスクのケースを振ってみると、ちきちきと頼りない音がする。中身のいくらも残っていないことを確かめてから左の手のひらにふたつぶ受け、口の中に放り込むと百年後のクランベリーみたいな味。開け放された縁側から、仄暗い家に上がった。仏間の向こうは家具の置かれていない十畳の和室だったはずが、子どもの背丈ほどの横長い本棚が無秩序に置かれ、力任せに絵本が詰め込まれている。

「ハコちゃん、ぜんぶほしがるから」

覚えのある福音館の背表紙をゆびでなぞっていると、天井からグランマの声がした。すぐに見上げたけれど、真四角のくたびれた照明器具があるだけで、その真ん中から垂れる紐すら動じない。

「ほしいほしい、って、いうから」

グランマの声に、非難めいたものはひとすじも混ざっていない代わりに慈しみのようなものもない。声にはただ、往日を顧みれば誰でも滲ませることができそうな、凡庸なやすらかさだけがある。

和室の奥、障子の閉まるのを遮るようにして敷居に乗り上げた本棚には、読み古した辞書や図鑑ばかりがずっしりと並んでいた。そういえば、ここにはわたしが今まで読んできた本が、全て遺されているのだったと思い出す。十畳間の風景が、鏡にうつった自分の姿であるような気持ちになったので、

「とっておいてくれてたんだね」

高まりながら人工的な甘い息を吐き、独りごちたわたしは35歳の体になっていた。追憶の住人になった人たちが、同じく追憶の住人となったわたしを住まわせる家。安堵して本棚の間にうずくまる。

現実には途切れてしまった時間の続きを、子どもの頃から、夢の中でずっと見ている。
夢だと分かって、夢を見ている。
移ろってはきちんと春を迎えるこの場所が、螺旋を描いているのか正円を描いているのかは知らない。歳を重ねるごとに、夢に呼ばれることは、確実に少なくなっている。

ピアノの鍵盤が、ひとつ弾かれる。

本棚に手をついて立ち、隣の和室に続く襖を引くと、上等なグランドピアノの先にスーツを着た男のひとが背を向けて立っているので息をのむ。ぜったいに、いまめないで。さけぶように祈りながら、

「パパ」

呼びかけると、パパはきちんと振り返った。
はっきりと三十年前の面差しを顔にはりつけて、へらへらと笑っているので歩み寄り、正面から静かに抱きしめる。

おないどしになっちゃったね。

囁いたわたしの息で、糊の利いた襟元が熱く湿る。わたしのパパはいつまでも平常。せっかくピアノがあるのだから、パパに弾いて聴かせようと思った。抱擁を解いて真新しいピアノに向かう。屋根を開き、椅子に掛け、両手を鍵盤の上に広げかざす。

ピアノの発表会にパパを招待したのは、むかし、わたしが本当に5歳の子どものときだった。

何を弾いたのか、小さな体が舞台の上でどれだけの緊張を味わったのか、発表会のことは何も覚えていない。覚えているのは、不穏をただよわせて歩く帰り道のわたしたち家族のことで、「ハコが呼んだんでしょう」と責めるように言い捨てたママの声で、暮らさないということは嫌わなければいけないということなのだと理解して、スーツ姿で格好良くして会いに来てくれたパパから目を逸らして、心を締め上げるように仰ぎ見た東京タワーの鮮やかな赤。

あんな色を塗ることもなく、ただ短く整えただけの爪を取り付けた35歳の指を鍵盤に沈めてみると、グランドピアノはうつくしく音を響かせた。「なに弾いてほしい」ピアノ越しに問いかけると、パパはまるで本物みたいな眼差しで、揺るぎなくわたしを見つめている。

三十年という時間が経って、揺るぐことがないくらい、偽物のろうは固まったのだろうと納得した。揺るぐことはないけれど、火のともることも多分ない。パパが好きそうだと思って、大塚愛のプラネタリウムを弾いてみた。弾いたことなどなかったけれど、夢の中では何もかもを上手にできる。体を揺らして、何度でもドラマティックに転調させて、いくらでも弾き鳴らしていると「ハコちゃんおいで」背後からグランマの声がしたので手を止める。

家の中が、いつの間にか騒がしくなっていた。

ピアノから顔を上げて十畳間に振り返ると、本棚のひとつ遺らず消えた和室に大勢の大人たちがひしめいて、その真ん中に敷かれた布団の上で、グランパが横たわった体をまるくして喘いでいる。引き寄せられるように十畳間に足を踏み入れると「もう死ぬわ」ぬっと現れたグランマが、強く右腕に絡みついてくる。

「もう死ぬって、半月前には言われてたの。だけどいよいよ、ほんとうに、死ぬわ」

グランマの呼気を頬に浴び、急に自分の口臭が気になったのでフリスクのケースを振ってみると、ひとつぶ分の音しか聞こえない。グランパの枕元で、仕事もせずただ座していた医者が立ち上がり、もうじきであることを告げに来た。

黒目をあちこちに転がして、頬の筋肉を左右に引き攣らせて、いかにも意思のともなわない勝手気ままな動きを繰り広げるグランパの顔面の中で、口もとだけがはっきりと吸啜きゅうてつを繰り返している。

還るのだ、と思った。

輪廻のことは分からない。語られるすべての信仰について考え続けていたいので、まだ何かひとつを信じるということはしたくないと心のうちに決めながらも、人間は還るのだと思い、急速に時間の巻き戻ってゆく目の前の景色にうっとりとした。

死ぬところが見たくて「がんばれ」つい漏らしたわたしの声を舐めとるように、右腕に絡みつくグランマが濡れた舌を啜るような音を立てる。ふいに眠りの浅くなってゆくような気配がして、次に押し寄せて来たのは、山の中の、あまり日の当たらない場所で暮らしている中くらいの獣みたいな、すえた古い油の匂い。耐えきれなくて、フリスクを口に含んで息を止める。最後の日だから夢に呼ばれたのだとようやく気づき、ゆるやかに霧散してゆく世界の中で、ちゅうちゅうとのどかに口をすぼめるグランパが中々その時を迎えようとしないので、

「いいから、はやくしんで」

思わず口走ると偽物めいた涼しい果実の匂いが散り香った。誰のものか、何歳のものか、まるで分からない心臓の音だけが、暗闇の中できっかりと三拍。ゆっくりと目が覚める。




<2802文字>

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シロクマ文芸部の企画に参加させていただきました。

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