ちょ、そこの元サブカル女子!~白川ユウコの平成サブカル青春記 第十八回/だいたい三十回くらい書きます


1996年 平成8年 20歳 大学2年生

☆6月 王家衛「天使の涙」、恵比寿ガーデンプレイスにて「攻殻機動隊」イベント

 午後九時門限の昭和女子大学学生寮緑声舎の規則を守るために、独立夜間学校ライターズ・デンに出席するときは、十時まで延長を申し出ていた。講義は毎回東京都内の、中野サンプラザ会議室だったり東京大学の教室だったりナントカ勤労会館だったりして決まってはいない。極左セクトにいたことがあるという藤井良樹さんがその伝手で手配していたと思われる場所だった。
 「みんなさあ、ライターになるにはどうすればいいですか、って訊くよね?簡単。名刺作るの。で、肩書きのところに“フリーライター”って入れるの。それだけだよ。それ持って取材したり、仕事くださいって挨拶したりすればいい」
 だいたい午後七時から九時まで。東急新玉川線桜新町駅に門限最長十時では、九時がギリギリ。だから少しでもお話が延びるときは席を立たなくてはいけない。それは、まるで「話が面白くないから帰る」と態度を表明しているようでとても心苦しい。失礼だ。と私は悩んだ。どうしようもないので、それをそのまま授業の後に提出するアンケートかなにかの紙に書いた。
 ある講義で、夜九時をまわったときのこと。「いま九時だけど、この話ちょっと長くなるかも。帰らなくちゃいけない人とかいたら帰って大丈夫だよ」と司会の藤井さんがおっしゃった。なんと!この名もなき民草の声を聞き入れてくださるとは。ありがたや!こんなの絶対私一人のことなのに…。小中高の公立学校で同調圧力みんないっしょの体制が当たり前、大学ではさらに特殊な締め付け構造を持った学び舎に入り、「生徒」「学生」という立場の無力さが当たり前だった私はとても驚き、感謝したのだった。だがしかし。
 宮台真司氏の講義の日だった。いつものように寮監に門限延長許可をとりつけようとしたら、翌日日曜日が防災訓練のため許可できないという。なぜだ。外泊ではなく、たった一時間の延長だ。まあいいやと目一杯お洒落して講義に臨んだ。ミニスカートにロングブーツ。
 「宮台さん、来ませんねえ」藤井良樹さんと中森明夫さんがトークで時間つぶしをしている。時計は午後八時を回る。「遅くなりましたー!すみません。時間ロスした分、この後居酒屋に移動して埋め合わせますんで」ってなんでよこんな日に限って!さてどうしよう。
 会場を九時に出て、公衆電話にテレホンカードを挿入し、緑声舎に電話。「こういうわけで、今日は延長か、外泊を許してほしいのですが」「…白川さん、あなたどこにいるんですか。タクシーで迎えに行きます」は!?なんだこれ?タクシー?明日避難訓練?何が大事なの?馬鹿馬鹿しい!「えっと、今夜帰りません。退寮処分にしてください」ガチャン。黄緑色の受話器を下ろし、ガラス張りの電話ボックスを出た。
 場所は四谷か八丁堀だったか。近くの居酒屋に移動して、有志が集まった。受講生の中には、既にプロのライターとして活躍している枡野浩一氏がいた。二十代の若手で、角川短歌賞最高得票が、ある選者の独断により次席。そのときの50首がSPA!に載った人だ。
 私は、それ以前に大学の先輩が候補作になったときの角川「短歌」のコピーで、一緒に載った枡野さんの歌を見たことがあった。背の高い、髪の毛さらさらの枡野青年に話しかけたのはそのときが初めてだったと思う。垢抜けていてひときわの存在感の人物だった。「あなたも短歌やってるんですか。いるんですねえ」などと言いつつ、平目の縁側のお刺身をつついてらした。
 あんな寮、こっちからやめてやるわ。の勢いの私は、飲みつけないビールを呷った。「宮台さん!宮台さんのせいで退寮処分ですよ。もう!!あ、はじめまして。大学二年生の白川ユウコです」「出身どこ?」「静岡県です」「静岡!静岡のテレクラはすごいねえ!特に浜松。浜松は、祭りの夜に高校生が女の子を輪姦して、被害者の親も、まあ、祭りだからねえ…みたいな土地。きみも浜松?」「静岡市です。浜松行ったことないですけど、たしかにテレクラいっぱいありました。中学生のときに、テレクラの電話番号のポスターが電信柱に特殊な糊で貼ってあって、母が補導委員でそれを剥がす作業をしていたのですが、その娘の私がその番号にかけまくっているという…」「きみ、おもしろいね!話きかせてもらうかも。これ」東京都立大学助教授・宮台真司氏の名刺。うっそ!テレクラ話が貴重な名刺に化けるとはなんという人生わらしべ長者!
 「白川さーん、どうするの今夜」女子高生の柳川圭子ちゃんらと卓を囲んでいた。「明日の朝、高速バスで静岡の実家に帰るわ。で、これ説明して、一人暮らしさせてもらうように相談する」「じゃあ、始発のバスまでカラオケ行こうよ!」
 圭子ちゃんと、お友達の女子高生フェリスちゃん(仮)ほか数名でカラオケボックスへ移動。分厚い曲目インデックスをめくりながら、圭子ちゃん「枡野さん、作詞の仕事もやってるんだって。なんて曲だったかな」「米屋純とかいう歌手の歌」「かけてみてかけてみて」「知らないから歌えないけど、流しておこう」リモコン操作に女子高生たちは慣れている。「とりかえしのつかない二人」の字幕を見ながら、夜を明かした。
 梅雨の明ける前で、夜から朝にかけてはまだ肌寒い。東京駅八重洲北口で2800円の切符を買い、席は最前列だった。爆睡。突然帰ってきた私に両親は喜び、言い分も聞いてくれて、二日間実家で休んだ。「避難訓練は大事だぞ」静岡大空襲を経験している、昭和9年生まれの父はそう呟いたのだったが。
 東京に向かったその足で、行ったのは九段下の日本武道館。電気グルーヴ「ツアーめがね」のライブ。アリーナ席がとれていたのだ。いきなり前座で李博士。卓球さん「二階の一番いい席にいるやつらいるじゃん。下々のみんな、むかつかねえ?あれ業界席だぜ?帰れって感じ。帰れコールしよう」かーえーれ!かーえーれ!卓球さん「みんな、俺と博士、どっち好き?」瀧さんは、ステージの上でパンをこねていた。
 同行した友人に「オープニングの、襖がどこまでもどこまでも開くのって、筒井康隆「遠い座敷」だよね?あれは日本人の潜在意識のなかにある風景だって全集の解説に…」「え?バカ殿でしょ?」ドリフが禁止の家庭で育った自分の素養の欠如を恥じた。
 昭和女子大学は、大学部も学級制をとっており、日本文化史学科は2クラス。担任の佐久間先生に、学生寮を前期までで退寮することを相談した。大学の体制はいろいろと謎の女子管理システムだが、この三十代若手の男性の先生は話をわかってくれた。一番穏便にことが運ぶのは、「体調不良」、といって寮側に交渉してくれたらしく、寮と私の間には軋轢は無し。同室は1年生の女の子二人で、誕生日には、私がディック・ブルーナさんのファンだとリサーチしてミッフィーグッズをプレゼントしてくれたりしてとてもいい子たちだったので、決して彼女たちのせいではなかったのだが。
 前期を終えるときの大掃除では、湯沸し室を一緒に磨いた。


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