ちょ、そこの元サブカル女子!~白川ユウコの平成サブカル青春記 第三十回/三十回で終わった!!あとは付録とあとがきを予定


1998年 平成10年 22歳 大学4年生

☆6月 新宿ロフトプラスワン、コマ劇前に移転
☆8月 テポドン1号

 夏休みを実家で過ごしていると、下高井戸のアパートの契約更新の連絡が大家さんから入った。家賃は5万7千円。来年大学卒業、奨学金はなくなるし、仕送りも。一人でそんなに稼いで払ってゆけるのか。否。安いところへ引っ越そう。
 JR中野駅前の不動産屋で見つけた4万3千円、木造アパート一階、ユニットバス、5畳フローリング。建物の裏に無理矢理造って防犯用の金属の門をつけ、押入れスペースにユニットバスをねじこんだみたいな、奇妙な物件。大学の友人たちは「よんぱるの部屋やばい」「あの部屋、絶対縁起悪いよ」となにか嗅ぎ取ったらしい。
 格安の引越し業者を使って、以前の部屋の半分ぐらいになったスペースに荷物を詰め込み、私は上海に飛ばねばならない。
 大学一年生のときの同級生が、二年生からは上海交通大学に留学した。大学内に宿泊施設があるから是非来て、といわれた。喜んで。
 飛行機で隣の席の、日本人と結婚して今から里帰りだという中国人のお姉さんは、今の上海空港は小さくて恥ずかしいけど今度大きなのができるから!としきりに言っていたけれど、小規模な空港だったおかげで友人と容易に再会。豫園で小龍包を食べたり、和平賓館でジャズを聴きながらお酒を飲んだり、大学の寮生みんなでディスコに行ったり。Samba de Janeiroがかかった!!
 帰国したら、中野の部屋は玄関からの入室は不可能。窓から入って、荷解き、いちおう片付いた。これからここで暮らすのか。東京で、一人で。
 扶桑社「週刊SPA!」編集部から電話があった。「中森文化新聞」で宮台真司ファンによる座談会をするので来て欲しい、という。ずっと前になんか募集がかかっていて応募したような。指定された新宿のマンションの一室へ。
 私の他に、ライターズ・デンで一緒の成宮観音ちゃん(宮台に成る、という志を中森さんに名づけられたという)、漫画家の原田知子さん。彼女も中森文化新聞にすでに出ていて、そのときは体操着とブルマーでロリっぽい姿だったのが、このときは綺麗なお姉さん風で一瞬わからなかった。あと、モデル系女子、漫画描く系女子、全部で女子五名。
 「っていうか、宮台さんて顔が猥褻だよね。顔にモザイクが必要って感じ」などと宮台さんについてあれこれ好き放題。そこに、バーンとドアが開いてご本人登場!えー!!
 桶のお寿司をいただきつつ、宮台真司さんご本人を交えつつ座談会続行。お箸をお渡ししようとしたら、「手で」と言われた。大人だなあと思った。誌面用に、女子5人で驚いた表情の写真を撮った後、宮台さんとみんなで記念撮影。
 記事作成は観音ちゃんが手掛けるということで、編集中に彼女から電話が来た。「白川さん、ごめんなさい、構成上、“私も性欲強いよ”っていう台詞を入れたいんだけど、白川さんの発言にしていいですか?」「えー、いいよ別に」本人は女優志望と聞いていたので、清純派のイメージが大事なのだろう。私はどうってことないし、他の女子よりも頼みやすいからだろう。
 なぜどうってことないかといえば、それ以前にHot Dog Pressの座談会にも私は出ていた。「女の子のヒミツ、教えちゃいます!」伊豆河津の温泉宿に一泊、女子三人で、「女の子ってなんで○○は嫌なの?」みたいな質問には「同じことされてみろよわかるだろ!」「女の子同士で●●は話す?」「普通に喋るよね」みたいな内容を、全て無視した真逆の内容。せっかくの各自の秘蔵の下ネタまで、どれが誰の発言だったのか超テキトー。女の子の秘密、洗いざらい喋ったのに。誰も知りたくないんだな、本当のことは。
 この仕事は、友人の紹介で講談社の編集者の自宅に女子三人で行き、男性編集者やライターとホームパーティー(という名の乱痴気騒ぎ)でもぎとったものだった。私は、多分、ノリがいい、口が立つ、頭の回転が速い、みたいなのが買われたのだろう。正式なオーディションではないこんな採用方法があると知り、こういった業界には「枕営業」さもありなん、と思い至るようになった。
 ロケバスに来たのは、帰国子女の大学一年生と、モデル事務所所属の女の子。三人とも初対面。一泊の取材旅行自体はとても楽しかった。だから、出来上がった記事を見たときのガッカリはもうかなりのダメージ。それに比べたら、発言内容の確認の電話が来るなんてたいへんありがたいのだった。出来上がった記事は、内容がきちんと整理されて、それでいてあの童貞馬鹿雑誌のような恣意的な改変は無く、納得のいくものだった。

☆10月 東京都現代美術館「マンガの時代展」
☆12月 宇多田ヒカル「Automatic」、第一回デザインフェスタ

 短歌研究新人賞、三十首応募、結果は佳作…ニ首のみ掲載…納得いかない。以前、候補作まで行ったのだ。初めての応募で。そのときよりも成長した自信はある。なぜだ!
 「ライターズ・デン賞」に、枡野浩一さんが、散文でなく短歌五十首を出して賞をさらったことがあった。“お互いに背中を向けて別々の夢から醒めるナイン・シックス”。私はとても悔しかった。そのとき、自分の中では短歌とライターズ・デンはまったく結びついておらず、やられた!と思い、しかも選考委員の宮台さんに絶賛されている…くやしいいい!!と唇を噛んだことがあった。
 そんな枡野さんに、佳作入選の「制服少女三十景」を送りつけた。名刺をいただいていたのだ。枡野さんは気難しそうでとっつきにくい感じの人だったけれど、実は面倒見のよいお兄さんだった。音楽雑誌でプロのライターとしてアーティストにインタビューをしたり、こじままさきさんの「BD」というミニコミ誌(高円寺北口の本屋さんにあった)などでも執筆されていた。「新風舎から、TiLLという雑誌が出ます」とだけ書かれた絵葉書が届いた。
 買ってみると、「フーコー短歌賞」を募集している。選考委員は藤原龍一郎氏、林あまり氏。150首以上、既発表作品可。大賞は無償で書籍化、入選作は費用半額支給で出版。これだ!
 私は焦っていた。同じ1976年生まれの小説家・篠原一さん、写真家のHIROMIXさんが活躍している。もっと年下の、篠原ともえ、椎名林檎、しまおまほらが次々とデビューしてくる。柳川圭子ちゃんは高校在学中に『女子高生のし・く・み~TOKYOの彼女たち、そのココロとカラダ』を出版するし、Quick Japanでは小島真由美が鶴見済さんと対談している。ぜんぜん話が噛み合ってないのに!若くてかわいければそれだけで価値になる。しかし私はかわいくないし、もはや若くもないのだ。22歳。それはもう若くない。
 165首の過去作をまとめ、フーコー短歌賞に応募した。以後、ルーズソックスキャバの給料は、自費出版のときのために着々とためた。3万円、5万円などを、こまめに定期預金に。あさひ銀行では窓口で預けると、ディック・ブルーナグッズをくれる。セーラー服にミニスカートとスーパールーズソックス姿で真面目に働いた。
 軍服パブ時代のラブリーさんは美術短大生で、彼女と仲の良いサラさん(仮名)も画家志望。「第一回デザインフェスタ東京」に出てみない?という話をくれた。ラブリーさんと私は、花園神社や、アパートの室内や、取り壊し中の廃墟でコスプレ撮影会をしていたのでそれを作品化したり、アクセサリーを作ったり。エントリー時にユニット名を決めることになり、「キャバクラで出会ったから、キャバレーっていう言葉入れたいよね、キャバレー・ヴォルテールみたいに」「クスリの名前も付けたい」「クスリ…リスロン、ブロン、プロザック、アスピリン、セデス、カルモチン…」「カルモチン?」「カルモチン!!」人間椅子ファンのラブリーさんが反応、「カルモチン・キャバレー」として出展が決まった。
 東京国際展示場は、第一回は主催者側も全くの手探り。長机のレンタルだけ申し込んであったけれど、放置されていた脚立も拝借した。私は赤い着物を適当に着ていた。他の出展者の素人アーティストたちも、面白い雑貨などを安く販売していて楽しかった。
 新木場駅に向かう夕暮れの帰り道で、サラさんが「こんな空、UFO出そう。私、出身が山形で、UFO多かったんですよ」私も、一度だけ見たことがあった。高校の新聞部の部室で授業をサボって窓の外を見ていたら、白くて細長い万年筆みたいなのがすごいスピードで北から東へ飛んで行って、自衛隊機の速さじゃない、米軍機?でもミラージュとかステルスとかこんなところ飛ぶ!?という経験を話すと「葉巻型ってやつだよ!」ラブリーさんも、「UFOかどうかわからないんだけど、4歳ぐらいのときに、おばあちゃんに抱っこされていて、空を見たら、黒い、角の生えた、今思うと鬼瓦みたいなものが高いところに浮いてるの。おばあちゃん、あれなに?っていっても見えないみたいで。悪魔だと思ってたけど、UFOだよね、未確認飛行物体」。
 学業も充実していた。比較芸術学のゼミは私がリードしていて、この頃は卒業論文の追い込み。雑誌「COMIC CUE」の漫画レビューの、広角レンズのパースペクティブの流行に触れた文章から着想を得て、古代ギリシアからマニエリスムへの鏡の歴史をたどり、魚眼レンズと凸面鏡の研究に没頭。史学科がこれに注目して『バルトルシャイティス著作集』全巻を資料室に購入してくれた。エスタロンモカを4錠飲み、徹夜で中間レポートを書き、終電直前にクラブ友達がPHSで電話をよこす。気が向くと早稲田通りからタクシーで新宿liquid roomでX-tra。渋谷Rock westで HARDCOREKITCHEN。恵比寿MILK でmurderhouse。朝まで踊る。
 なんかもう死にそうだった。忙しくて死にそうだった。幸せで死にそうだった。過去に意味はない、未来なんてない、今しかない。そんなメッセージが、流行歌、文章、漫画、あらゆる表現に溢れていた。そこにある文物だけでなく、過去からも、ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』が「今死ねたなら、この上なく幸福だろう」、中原中也も「もう死んだっていいよう」と囁いてくる。
 フーコー短歌賞は、優秀賞を受賞することができた。出版費用は貯まっている。私は本を出せる。死ねる、やっと死ねる。そう思うのがこのとき、私にはとても自然なことだった。
 全世界から、中野の新井一丁目のおかしな部屋にしずかに追い詰められて、私はとても幸せだった。


(おわり)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?