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【809】「半年ROMれ」と言われても、無修正要求マンは死なない

いにしえのインターネットには「半年ROMれ」という言葉がありました。いや、今も用いられるのかもしれませんが、昔ほどではないでしょう。

今ではいわゆるSNSに殆ど駆逐されましたが、2000年代初頭のインターネット上での人的交流といえば、個人が作ったホームページに付設された比較的クローズドな「掲示板」で行われるものが大きなウェイトを占めていました。個人が運営主体として見えにくいものであっても、掲示板サービスである「2ちゃんねる」(今は「5ちゃんねる」ですか)は活況を呈していました。

それぞれの掲示板にはそれなりの作法やごくローカルなルール・雰囲気がありました。

「ROM」とはRead Only Memberの略であり、「ROMれ」とは「(掲示板に書きこむ前に)読むだけにしなさい」ということです。「半年ROMれ」は半年の間そうしていろ、ということであり、場違いな内容や質問を書き込む人々に向けて定型句のように書き込まれた文句です。

これは「何らかの基準に照らして場違いだ」、といえるような基準を持った極めて限定的な場が構成されているからこそ生じうる表現で、今のSNSではなかなか使う場面がなさそうな気もします。Twitterなんかはもちろんオープンワールドで無法地帯ですし、Facebookはそもそもリアルで(あるいは少なくとも他の場で)知り合いであることが前提になるのでそもそも衝突の場にはなりにくい。

……最近のSNS事情はともかく、「半年ROMれ」の意義については考えさせられるものがあります。

そもそもそんな言葉を聞いて正しくビビってROMる人は、何も言われなくたってきちんとROMるのです。「書き込んでみなければ具合がわからない」ということはないのですし、よくわかっていないところに突っ込んでいっても自分が気まずい思いをしたり、他人に気まずい思いをさせたりするだけだ、ということをわかっているから、ROMるのです。

これに対して、ROMらずに突撃してくるような連中は、「半年ROMれ」と言われても無視するか、まさか自分が空気を読めていないとは思わずに突撃しつづけるものです。

「半年ROMれ」と言っても、それは当座目の前のしょうもない人間を黙らせることに役立つくらいで、きちんとした人を必要以上に萎縮させるという副作用さえあるでしょう。

ままならぬものです。


場の「空気」かどうかはともかく、おかしい人は自分がおかしいという自覚がないのですし、何であれ最低限これくらいは守ってくれ、というタイプの(多くの場合に極めて正当な)教えは、聞き入れてもらわねば困る人間にはなかなか聞き入れられないもので、寧ろきちんと守れている人を萎縮させる機能さえ持ちます。

Twitterのある界隈では絵を描く人に無修正の(モザイク等を入れない)キャラ絵を描くよう要求しまくる人がおり、「無修正要求マン」と呼ばれバカにされていました。

もちろん無修正の絵を(個人の娯楽に供する、という目的を超えて)描くということには大きなリスクがあります。少なくとも日本では刑法175条が猥褻物の頒布の禁止を定めており、「わいせつ」たる要件を満たすか否かの議論は極めて不鮮明かつ不十分であるとはいえ、局部にモザイクがかかっていなければダメ、ということになっています。いや無論、モザイクがかかっていようと何であろうと、さしあたって行政と司法によって「わいせつ」か否かが(あるいはこれに対応する「健全な性風俗」の内実が)ブラックボックスの中で決められてしまうのであって、当然、表現を行う側や出版社・販売代理店は防御的になります。(あるいは局部にモザイクさえかければ問題ない、というかたちで、元の「わいせつ」かどうかとは関係のない、謂わば手続き的な規制として機能しているとも言えるでしょう。)

なので、無修正要求マンは要求を断られます。

要求された人々も、最初の数人はきちんと事情を話して断っていました。まあ表現を自分でやらないならばわからなくても無理ないか、という空気がありました。が、それでも彼はへこたれないもので、そのうち「バカな要求をしてくるヤツがいる」として晒し者になりはじめました。

さすがにそろそろへこたれるかな、と思っていたら、それでもまったくへこたれずに同じことを繰り返します。絵を描く人々からブロックされまくっても「何もしていないのにブロックされた」とか言いはじめて騒いでいましたし、よからぬ行いをしている(規約に違反している)との報告を受けまくってアカウントを凍結されてもなお新しいアカウントを作って同じことをやらかす。

こんな人にいくら「人の話を聞け」と言っても無意味です。その無修正への欲求が、自分で描く努力や、不可解な刑法の改正へと向けば、何か大きなものになるとも思いますが。……

さてこの無修正要求マンの陰で、「注意していたって自分も知らずに地雷を踏んだりするかもしれないし、リクエストを出すのは控えよう」という決断をした人々もいました。正確には、そうした発言を目にしました。いやいや、そこはひるまなくていいんですよ、と思いますが、とまれ無法者は自分が無法者であると気づかない(あるいは気づいていてもどうでもいいと考える)からどんどん増長し、まともな人は無法者への無意味な教えを見て勝手に萎縮してしまう。ままならぬものです。

(こんなことを書いていて、自分の思い込みでしか話をできないある研究者を思い出しました。その人はかつて私の友人に論文の寄稿依頼を出し、友人は多忙を理由に断ったらしいのですが、「ご快諾いただきありがとうございます」という頭のおかしいメールが返ってきたと随分憤慨していました。その人は一応単著を出されていて、大学ではないところで教員をされているようですが、そんな人でも書ける書籍というものが何なのか私にはわかりませんし、そんな人に何かを教わらざるをえない立場にある人々は本当にかわいそうですね。)


良い悪いの話ではなく(と言っておきますが)こういうことはよくあります。

教科書的な最低限のお勉強をこなしておかなければ、いくら「実践」したって無意味なケースが殆どですが、とかく即効性がありがたがられる時代のこと、「実践」にばかり走る連中がいます。たとえば、聞き流すだけで英語を身に着けようとする人(いや、それは実践なのか?)、読めもしないのに「多読」をしようとする人のことです。

そんな人々には、いくら「教科書的な最低限の者をやりましょうね」と言っても永遠に通じないでしょう。はっきり言えば上に見た無修正要求マンと同じくらいに、あるいは場の話の流れや作法を感じとろうと試みない連中と同じくらいに、バカだからです。さらに悪いことには、自分が不適切な学び方をしていて自らの「実践」さえまともにこなせていないということに気づかず、おかしなプライドを持ちはじめる(そして「教え」はじめる)、ということすらあります。

「最低限のお勉強をしようね」は、「半年ROMれ」と同じく、伝わるべき人には伝わらないのですし、寧ろ十分に「最低限」を満たしている人を萎縮させる効果を持つという成り行きです。

ままならぬものです。


「ままならぬ」と言うだけではなんにもならないのですが、この構造は多分変わらないでしょう。ままならぬものです。