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「途中」の写真(連載「写真の本」12)


写真術の黎明期は露光時間が長く必要だったため、撮影に何分もかかった。
日本に写真術が上陸して町なかに写真館ができたときも、長秒露出のために人物の顔がブレないように首を後ろから固定する器具があった。
明治初年を舞台にした杉浦日向子の漫画『合葬』に、首押さえをすすめる写真師に対して「首押さえなどいらん!」と反発する若侍が描かれていて、その頃は鍛錬のある武士ならば根性で静止していられる程度の露光秒数であったことがわかる(杉浦日向子は時代考証家でもあったので描写は正確だと思われるが、武士が根性で静止していられる時間とはどれくらいなのだろう?)。
撮影に時間がかかるため、一つの表情を持続するにも苦労があることから、写真黎明期の人物撮影のほとんどが、いわゆる「表情」というものを持っていない。緊張に引き締まった顔で一点を見つめるものばかりである(眼球がブレたら写真としての力が台無しになるから、厳格に視線の固定は強要されたことだろう)。

『合葬』
杉浦 日向子
小池書院

時は進み高速シャッターを切ることが出来るようになると、写真は「時を溜める」ものから「瞬間を切り取る」ものへと変化する。
瞬間が撮れるようになると、写真師は笑顔でも真面目な顔でも悲しみの表情でもいいが、ある感情を代表する象徴的な表情のピークの瞬間を捉えることに技術を競うようになる。
笑顔であれば口角が上がりきって目に光が入ったその瞬間だったり、悲しみの表情であればまさに瞳から涙がこぼれ落ちる直前だったり。そういう瞬間をあやまたず捉えられるのが優れた写真家と呼ばれた。

しかしさらに時代が進むと、笑顔や悲しい顔やシリアスな思索の深みの最深部の様相に、人々もカメラマンも被写体も(悪くいうならば)飽きてきたんだと思う。
こういう仕事(僕の本職は営業写真館のカメラマンです)をしているとよくわかるのだが、たとえば女性の笑顔のポートレートで、毎年撮影に来る人がいるとして、毎年その撮影されたコマの中から自分が最高だと思うカットをセレクトしていると、いつも同じ系統の笑顔が選ばれてしまう。女優じゃあるまいし普通の人はそんなにも「最高の笑顔」のバリエーションを持っているわけではないからだ。結果的に毎年毎年、着るものや加齢での変化はあるものの、表情的にはずっと似通った写真が増えていくということになる。
何であれ、ピークの瞬間を捉えた写真というのは似通うのである。
ピークであるから、山ならば頂上である。頂上が狭いのは当たり前なのだ。

人の顔に限らない。決定的瞬間というのは、その緊張力がMAXに達した時点であるから、どんな場面を捉えた「決定的瞬間」でも何かしら似通った雰囲気を帯びる。そういうMAXの緊張力ばかりに溢れてくると人はやっぱり疲れるのだと思う。

ある時期からあえて「ピークを外した写真」というのが撮られるようになってきた。
ピークを外した写真というのが撮られるようになると、いわゆる「キメ顔」ではない顔、というものの多様性に今さらながら気がつくのだ。
人の表情というのは、常に何かの途中なのである。
笑顔のピークですら、笑い終わるまでの過程の途中である。その「途中」を固定してしまうのが写真であり、写真とは本来そういういびつな存在だ。

告別式に会葬して棺の中の、知っていたはずの人の顔を見る。知っているはずなのに、なにか知らない人を見るような違和感が必ずある。
何かの途中であることをやめてしまった表情というのは、こういうものなのだと思い知らされる。

笑顔や悲しい顔や、何でもいいけれど、何らかの感情を表出するピークを外して写真を撮ると、人というのはとんでもなく多彩な表情の動きを持っているのだなと気がつく。
植田正治の有名な写真に、地元の女性事務員さんだかを立たせて撮ったものがあって、彼女はまばたきをして目をつぶっている。被写体本人には不本意な写真だろうが、僕は昔からこの写真がとても好きだ。植田正治も好きだからこそわざわざ目を閉じてしまった写真を選んだのだろう。
まばたきの瞬間なんて、普通に目の前でその人と会話しているとしたら、映像としてゼロコンマ数秒、記憶にも残らない。しかし人物写真を撮っているとわかるけれど、このまばたきの瞬間というのは、かなりの確率で撮ってしまうものだ。ふだんは気がつかなくても写ってしまう「途中」の一つである。
笑顔、は一つの「意味」である。
悲しい顔、も「意味」である。
意味とは「ことば」である。
写真とはことば以前の情動を探るのが大きな役割であると思うので、人物写真が「ある感情を代表する象徴的な表情のピーク」を避けるようになってきたのは、ある意味必然なのである。
避けに避けた結果の、そのまさにアンチ・ピークの頂点が、植田正治のまばたきする女性のポートレートかもしれない。

『植田正治作品集』
植田 正治
河出書房新社

まばたきの写真は、ある意味逆のピークに拠った写真だけれど、本来の意味で「ピークではない写真」というのは、表情変化の途中である写真だし、もうひとつ、表情を変化させない写真、というものもあるだろう。
特にファッション系の写真において、逆にマンネリなくらいに繰り返される「無表情」な写真。これをマンネリなどと思わずに、一度じっくり鑑賞してみることをおすすめしたい。
なんら「意味ある表情」をしていなくても、職業モデルのコントロールされた無表情であってさえ、人の顔というのは、いったいどれくらいの情報が詰まっているのだろうというくらいに雄弁だ。
乱暴なことを言ってしまうならば、人の顔というだけで、意味ある表情をしていようがしていまいが、面白いのである。
あえて意味ある表情など廃して、できるだけ素の状態(意味を帯びる準備のない状態)で人が写っている写真というのが面白いのはそういうことである。
たとえば鬼海弘雄の一連の写真の面白さも、そういう面があるだろうし(それだけじゃない! と怒られそうだが 笑)、

『や・ちまた 王たちの回廊』
鬼海 弘雄
みすず書房

『ぺるそな』
鬼海 弘雄
草思社

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僕が世界で一番好きなポートレートは、この項の最初に紹介した漫画家・杉浦日向子が咽頭癌でなくなる直前に荒木経惟に撮られた1枚である。
このあと数ヶ月で彼女が亡くなることを知っているから、そのポートレートは胸を打つわけだが、そんな意味を取っ払って、情報を頭の外へ追いやって眺めてみても、その表情を作らない顔は、意味に辿り着く前のさまざまな「ことば以前」にあふれている、奇跡的な写真に思える。

『空事 2004年写狂人日記』
荒木 経惟
スイッチパブリッシング

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連載「写真の本」、ずいぶん時間がかかってしまいましたが、今回で終了です。
ありがとうございました。

(シミルボン2018.1)

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