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写真の保存について(連載「写真の本」8)


発明の順番からしてモノクロ → カラーの順なので、そもそもカラー写真は写真史の途中まで存在しなかった、ということもあるけれど、現在でも美術館に収蔵されているような写真作品はモノクロームのものが多い。
カラー写真が発明されて一般化したあとでさえ、写真家はモノクロフィルムを好んで使った。
階調表現がどうだとか、いろんな理由を写真家は言うだろうが、実は一番大きかったのは保存性の問題だったのではないかと思う。

美術館に収蔵される「写真」作品がモノクロ偏重だったのは、以前はカラー写真の耐久性に問題があったからだ。カラー写真がモノクロ写真よりもアート的な価値として劣るとか、そういう話ではなくて、せっかく高額で購入した写真作品が褪色してしまっては困るという美術館側の事情である。

実際奈良写真の大家といわれる写真家の個人美術館で何十年か前のカラー写真の展示をみたときに、まぁいくら「古都」とはいっても、ここまで古めかしい色では最初から撮っていないだろうに、と思ったものだった。その作家存命時代のオリジナル・プリントを知らないけれど、たぶん今美術館にあるものはなにがしかの色調の劣化が進んでいると思われる。

基礎知識的なことをいうと、銀塩写真と呼ばれる感材にハロゲン化銀を使う方式(いわゆる「フィルム」の写真)は、モノクロの場合は還元された銀の粒子じたいが画像を作るので耐久性があるのだが、カラー写真の場合は作業工程で銀の画像をカラー色素に置き換えてしまうため、モノクロほどの強さがない。時間を経ると褪色がはじまってしまうのだ。

しかし美術館での保存なんて極端なことを考えなければ、写真が褪色し、支持体である印画紙じたいも劣化してヤケ、ヒビが入り、物質として崩壊に向かうのは自然なことだ。
僕は営業写真館に勤務しているので依頼によって古写真の修復(スキャン→修整→デジタルプリント化)もするのだけれど、印画紙が黄変しひび割れ、銀粒子が浮いて青光りしているような、時の化石のような古写真を見るにつけ、こうやって劣化崩壊していく時間も含めての写真じゃないか、と思うようになった(そりゃ仕事なのだからきっちり修整復元しますけれども)。

人の命は長くてもせいぜい100年。その寿命の2倍以上も色が保つというのが昨今の顔料プリンターの謳い文句だが、200年前の人間の顔が昨日撮ったように見られる未来というのも、良いような悪いような、という感じではある。

写真技法と保存の知識 デジタル以前の写真-その誕生からカラーフィルムまで
ベルトラン・ラヴェドリン/高橋 則英/白岩 洋子/
青幻舎

デジタルカメラの時代になって、理論上は画像データは劣化しない、ということになっている。
ただし、時代時代で保存される媒体は移り変わるから、時代に合わせた記録媒体に順次間違いなく移し換えていく手間が必要になる。
僕個人の話をすれば、デジタルカメラで撮った写真は現像前のRAWデータ(元データ)と現像してphotoshopで色調編集した完成データを分けて、それぞれ2箇所づつに手動コピー(ソフト的な同期バックアップではなく)している。保存用のハードディスクは数年単位で入れ替えなければ故障してしまうから(壊れない機械などない)、1箇所壊れたらもう1台からまるごとバックアップを作って2つに戻す。
2箇所同時に壊れる確率は少ないが、もしやってしまったら、今まで撮った写真はすべて「なかったこと」になってしまうのである。

デジタル化以前、フィルムの時代は「劣化」との戦いだった。
デジタル化したら劣化はしないけれど、「消滅」と戦わなければならなくなった。
劣化をともなわず消滅、というのは、人間の生きるサイクルと並べて考えてみればいかにも不自然である。事故死のようなものだ。
消滅しないように、注意深く媒体を移していく、というのは、どこか絶滅危惧種の保護活動のように思えるが、絶対にこの絶滅危惧種は老化はしないのである。事故でしか死なない。そういう極端な動物だと考えてみたらいいのかもしれない。ただし、ほんとに「ちょっとした」事故でも死んでしまうということを肝に銘じておかねばならない。

デジタル画像を事故死させないためには、いっぱい複製を作って撒けばいいのだが、あちこちに拡散したら拡散した先で勝手な進化(第三者による加工とか)をとげてしまうリスクもあり、これはこれで別のややこしい話になってしまう。

・・・・・

そもそも、写真というのが、もう「記録」という役目を果たさなくなるのではないか、とも思っている。
デジタルカメラすら売れなくなって、みんなスマホで写真を撮るようになり、みんな写真をプリントして残そうなどとは思わなくなった。
日々撮られSNS等にアップされる写真は、もう「消え物」でいいと思われている。ただ流れ去るものになった。
いいとか悪いとか、そういう話ではない。そういうものになってしまったらしい、というだけの話だ。

記録とか、記憶とか、写真が担ってきたそんな役割を、写真はもうやめようとしている。
僕はまだまだプリントにできることはあると思っているので、続けますけどね。

(シミルボン 2017.10)

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