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はじめての光景を視ること(連載「写真の本」10)

写真というものは「写ってしまう」ものだから、どれだけ綿密にコントロールしても撮影者の意図以外のものも必ず写り込む。それは街路でスナップした写真であっても、スタジオでライティングを組んでのポートレートでも同じことだ。
なので写真とは撮影者が「写したいもの」と「写ってしまうもの」がその中に必ず共存して成り立つものであり、むしろ撮影者自身がその偶発性を待っているということも多い。

写真よりもより作者の意図をコントロールしやすい絵画であっても、たとえば意図しない筆の跳ね方、想像の上を超えてしまった思わぬ配色の出現など、意図せぬラッキーが降ってることもあるだろう。意図を離れて動いた手によって「描けてしまう」ことや、事故に近いきっかけで得られたマチエールみたいなもあるのだと想像する。
が、この「降ってくるもの」が作品の質を上下する、その比重は、写真は絵画の比ではなく大きいはずである。

撮影者は常に、この「降ってくるもの」を待っている。
別に神がかり的な恩恵が訪れるわけではない。ちょっとした兆しを待って撮影者はカメラを構える。兆しに反応するアンテナの感度が写真家の能力である。
繰り返すが、それは街路でスナップした写真であっても、スタジオでライティングを組んでのポートレートでも同じことだ。
乱暴に定義をしてしまうならば、写真家とは「見たことのない光景を撮りたい人」である。
頭の中にラフスケッチのようなものがあっても、それはすでに脳内で見た光景だ。それが「見たことのない光景」になるためには、写真家の脳内にはない何かが写ることが必須なのである。

そのために撮影者は常にパンフォーカス的にアンテナを開いていなければならない。
パンフォーカスというのは眼前の光景すべてに焦点を合わせるという意味だが、写真レンズならば絞りを絞って、ということになるのだけれど、人間の目だと現前の光景にすべてピントを合わせて見るということは不可能である。比喩的に、感覚を開く、などというが、さまざまな気配に耳を澄ましていないといけない、ということだろう。

話はちょっと脇に逸れるが、フィルムで撮影していた時代、仕事で集合写真を撮るときに、特に大人数の場合、誰かがまばたきで目を閉じて写るのを防止するために、撮影者は目を凝らすのではなく、反対にどこにも焦点を合わせないように(どちらかというと虚ろな目をして)視界をぼやかして撮っていた。シャッターを切った瞬間のまばたきを、視界の隅でキャッチするためだ。
どこかに焦点を合わせていると、集中力が一点に向いてしまう。わざと目のピントを外して集中力を一点に寄せずに撮影をする。慣れてくると、それでかなりまばたきを感知できるようになるのだった。
と、本題とは少し違う話になってしまった。話を戻そう。

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最初から「意味」に乗っかって撮られた写真というのはあまり面白くないものだ。「それっぽい」写真は「それっぽさ」を強化するばかりで「それ」そのものを疑わない。
たとえば幸せそうな写真を撮ろうとして撮られた幸せそうな写真とか、切なげな写真を撮ろうとして撮られた切なげな写真とか。
撮影者の頭の中にすでに定形としての「幸せそう」の形があって、それに当てはまる絵に「ハマった」時点でシャッターが切られた写真には、目新しい幸せは写らない。
別に幸せに「目新しさ」なんていらないだろう、と言うかもしれないが、人が感じる幸せの形なんて、変わっていないようで日々刻々移ろっているものだと思うし、それを定形に当てはめことは「幸せの形」が移ろうことを妨げるクサビにしかならない。
意味に乗る、ということは、その意味を固定化する一助になってしまうということだ。

「らしさ」に乗って撮る、というのは自戒しても自戒しても、どうしてもやってしまうことである。カメラのシャッターは何らかの契機がないと押されないもので、何らかの心揺れる契機というものは、大抵の場合学習的に「写真になる」ことを脳がすでに知っているからである。
経験を積めば積むほどに、脳内の「写真になる」引き出しが増えていき、その引き出しが新しい写真を阻むのだ。

結局、はじめてそこ(どこでもいい)に立ったときの、眼前の世界の佇まい、振る舞い、空気、に顔を向ける自分。そういうゼロ地点に自分を引き戻せる能力の問題なのだ。
そこを初めての場所のように見ることが出来るかどうか。

すぐれた写真家というのは、そこを初めての場所のように見ることの出来る人であり、その人を初めて会ったその瞬間に戻って見ることの出来る人だろう。
よく言われることだが、写真家とは「見る(視る)」人である。
世界の新しさは日々刻々更新されていき、その流れはどこであっても、人の表情や佇まいの上であっても、止まらない。
澱のように溜まっていく時間の残滓が人の目を曇らせる、その澱をかきわけて、目の前の世界を視ることが写真の(に限らず世のアートと呼ばれるものすべての、だが、ダイレクトに世界を複写する装置を使うだけに、特に写真の)仕事である。

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というようなことを日々考えるようになったのは、間接的にこういった本たちの影響である。

『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』
中平 卓馬
筑摩書房

『決闘写真論』
中平 卓馬/篠山 紀信
朝日新聞社

『見続ける涯に火が… 批評集成1965-1977』
石塚 雅人/八角 聡仁/中平 卓馬
オシリス

写真家・中平卓馬はある時期の日本の写真界の思想的な部分を牽引した存在であるとその名はよく知っていたし、写真家としての彼の写真集などはよく見ていたが、写真論的な著作は最近まで特に手にとることもなく過ごしてきた。
その死(2015)をきっかけに代表的な著作を読んでみたのだが、一見難解な文章がするすると頭に入って、「なんだ、いつも考えてることが普通に書いてる」と、偉そうに思わず勘違いしてしまったほどだった。
なんのことはない、日本の写真論的な文章のほとんどが、中平卓馬の影響下にあるのだと思う。本人の文章を読まずとも、勝手に孫弟子的に、知らずその考え方に浸っていたのだ。
「間接的に」影響を受けた、というのはそういう意味である(直の影響ではないから、自分の考えに合致する都合のいい部分だけを貰っている、という気もしないでもないが)。

「眼はすでに制度化された意味をひきずったまま、意味の確認しか世界に求めようとしない」(『なぜ、植物図鑑か』晶文社)

彼に限らず、写真家には良い文章を書く人が多い。
やはり「視る」ということ、ゼロ位置に戻って視る、ということを習性として続けていることと無関係ではないのかもしれない。

(シミルボン 2017.11)

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