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1992

高校時代のこと

千葉県八千代市で育った私は1991年に千葉市内の県立高校に入学しました。小中学校時代は絵を描いたり、裁縫が好きだったので将来は漫画家かファッションデザイナーになりたいと思っていて、美術系の高校に行こうかとも思いましたが親に反対されて普通科の県立高校でなんとなくやり過ごすことにしました。勉強もあまりやる気がなく、テニス部に入部して友達と遊んだり、アルバイトでお小遣いを稼いだりしていました。

少女漫画が好きで、りぼんとなかよしと別冊マーガレットを毎月購入していました。中学校の時には漫画作品を投稿して佳作入賞もしました。内容は中途半端なコメディ漫画でいつもオチが弱いとか批評されていました。

当時、ファッション雑誌はたまにnon-noやmc Sisterなんかを立ち読みしたり、母親が買っていた装苑を見たりとかしてたけど、当時の流行にはうとくて、友達がラルフローレンのボタンダウンシャツを着てたり、ストレートのパンツをちょっと長めに履いたりするのもあまり興味がもてませんでした。(渋カジ、紺ブレ、トラッドブーム)

FOR INDEPENDENT GIRLS - CUTiE

そんな時、友達に勧められた「CUTiE」をみて、あまりの個性的な内容に愕然としました。Vivienne WestwoodやMILK、60年代のモッズファッションなど普通じゃないとんがったファッションばかりが掲載されていて、岡崎京子さんの連載漫画「東京ガールズブラボー」も大好きで毎月購入するようになりました。

東京ガールズブラボーは1980年代前半に北海道から東京にきた金田サカエと友達のなっちゃん、ミヤちゃんの高校時代、パンク、テクノポップ、ニュー・ウェーブなどサブカルチャー満載のストーリーで、小学生の私がアイドル全盛期のポップカルチャーしか知らなかった時代に、アンダーグラウンドではこんなことが起こっていたんだ!なんてこった。

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1992年頃の音楽といえば、80年代後半のバンドブームの名残で、ユニコーンやTHE BOOM、FLYING KIDSとか真心ブラザーズなんかが好きでしたが、そのころからスチャダラパーや電気グルーヴみたいな新しい音楽を聞くようになりました。フリッパーズ・ギターは残念ながら解散後に知るのですが、PIZZICATO FIVEも新鮮でした。CDはあまり買わなかったけど、千葉テレビで放映されていたミュージックビデオを録画して何度も観ていました。

それから、電気グルーヴがテレビでやっていた「モグラネグラ」(テレビ東京)がおもしろくて、江頭2:50とか発作的富田とかが出ていていつも録画してました。それからcharaとローリー寺西がMCをしていた音楽番組「VIDEO JAM」(テレビ朝日)が好きでバレンタインに学校を休んでROLLYさんの事務所、当時青山キラー通りにあったキューンソニーまで行きました。そのときに、地下鉄明治神宮前駅でおりて、はじめてラフォーレ原宿をみて感動しました。

CLUBってなんだべ?

CUTiEではクラブキッズをたくさん取り上げていて、当時はモッズやスカのクラブイベントが盛り上がっていました。3D(王子)とかDJバーインクスティック(渋谷)芝浦GOLD(田町)なんかの取材が多かったので、行ってみたいけど何をするところなのかよくわからないでいました。

私の両親は栃木県出身で、母方の祖父は神道系新宗教大本教の開祖、出口王仁三郎氏の7番弟子でした。上野にある大本東京本部で毎月行われる行事に行くといつも祖父にお小遣いをもらえるので ひとつ年下の上の妹と毎月上野に行って、ABABやアメ横で買い物をするのが楽しみでした。祖父にすすめられて、京都の亀岡で大本教の高校生向けの修行に参加しました。全国から高校生が集まって、熱海に住んでいる子と仲良くなって、遊びに行くようになりました。

そして、いっしょに芝浦GOLDのALBAROSAのイベントへ行きました。サーファーギャル系のクラブイベントでお立ち台があったり、だいぶチャラい印象でした。音楽はほとんど覚えてないけど、フロアはそれほど広くなくて、人がたくさんいました。はじめてCLUBに行ったけど、あんまり楽しくはなかったのでわりとすぐに出て、大本教の東京本部に泊まって、早朝上野のウェンディーズバーガーで朝食を食べました。

その頃、毎月のように上の妹と東京に出かけては買い物をしていました。CUTiEに掲載されているショップを調べるために東京マップをいつも持ち歩いていました。原宿のMILKの近くにカットが3,500円のチャオバンビーナという美容室を見つけて、流行りのベリーショートにしてもらいました。そして、山手線を見下ろして、「高校を卒業したら、実家の千葉の団地をでて一緒に東京に住もうね!」と、妹と心に決めたのを覚えています。

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CUTiE キッズコレクションに応募する

CUTiEでは読者モデルやストリートスナップの特集をキッズコレクションと題して毎号掲載していました。中川比佐子さんなんかはヴィヴィアン・ウエストウッドを着こなして毎号のように掲載されていてカリスマ読者モデルといった感じでした。そして、私もCUTiEにのりたい!と意気込み、妹と一緒に応募しました。

それから、しばらくして実家に宝島CUTiE編集部から電話がきました。ヒステリック・グラマーとのタイアップページに掲載する読者モデルのオーディションに参加しませんか?とのことで、千駄ヶ谷にあるヒステリック・グラマーのプレスルームに妹とふたりで行きました。

春の新作が並ぶプレスルームで好きな服を選んでテスト撮影してもらいました。私も妹もはじめてのことでうれしくて、楽しくて、ずっとゲラゲラ笑っていました。(ヒステリッック・グラマーのデザイナーの北村信彦さんをあとで知ったのですが)帰るときに北村さんに声をかけられ、プロモーション用に制作した店舗用ポスターをもらいました。「Dirty」を発売したソニック・ユースとのコラボレーションでサーストン・ムーアやぬいぐるみなどのぼやけた写真のポスター集でした。

なんとモデルオーディションに合格したようで、実家にヒステリック・グラマークルーが来て撮影してもらうことになりました。実家のボロい団地は4畳半の部屋をむりやり私と妹の部屋にして、そこで撮影してもらうことになりました。居間では中学生の下の妹がちゃぶ台で宿題をしていました。北村さんはライダースと皮のパンツを着ていて、紫と黒のボーダーの靴下を履いていました。すごくかっこいい方だと思いました。

それから、しばらくして妹と四ツ谷の宝島社へ行き、CUTiEキッズコレクションの撮影をしてもらいました。撮影後に駅前のドトールでお茶したのですが、私たち以外の客が全員外人で外国みたいでした。

翌年に発売されたCUTiE掲載ページでは北村さんが私たちの名前を見出し用に描いてくださりました。だけど自分の髪型(ベリーショート)がくそほど似合っていなかったので自分ではあまり気に入らなかったのです。

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Michael Jackson Dangerous World Tour

洋画好きの高校の友達に誘われて、12月にマイケル・ジャクソンの東京ドームコンサートに行きました。舞台から遠くの席だったのでほとんどモニターを必死で観ていました。途中でトイレに行きたくなって、急いで席に帰ろうとして転びました。アリーナ席の客ひとりを舞台にあげて長いこと抱擁していました。なんかすごかったです。

アルバム「デンジャラス」を発売した頃のマイケルはすごくかっこよくて、「ブラック・オア・ホワイト」や「リメンバー・ザ・タイム」のミュージックビデオをやっぱり千葉テレビで録画して何度も観てました。

それからこの頃は、ツインピークスが大ブームで、 デヴィッド・リンチ作の不条理ミステリードラマにみんな夢中でした。

バーバリーのダッフルコート

高校の友達みんなでカラオケボックスでクリスマスパーティをすることになったのですが、メンバーのひとり、ミキちゃんだけ来ませんでした。ミキちゃんはヒステリック・グラマーのスタジアムジャンパーを着てたり、とてもおしゃれな子でした。あとから連絡を受けて、交通事故にあって病院に運ばれたと聞いてびっくり!みんなで病院にお見舞いに行きました。4tトラックにひかれたけど、そのとき着ていたバーバリーのダッフルコートがすごく丈夫で大きな怪我をせずにすんだらしいです。

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